表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

マリブラ! 前編


 我が家は傾いていた。それはもう見ていられないほどに。


「それを立て直すのは私かと思っていたんだけど……いやまぁ、ある意味では私なんだけど」


 私は迎えの馬車を待たせながら十七年間住んだ生家を目に焼き付けた。荷物は先に運んである。とはいえ、私の荷物なんてほとんどない。持参金だってない。何も要らない、と言われた。どうしてそう言ってくれたのかは判らない。訊ける相手かも判らない。


 そもそも、私で良い理由も判らない。


「ジゼル、そろそろ行くよ」


「はーい、お父様」


 私はくるりと振り返る。ふわり、とその拍子に風に乗って舞い上がった右側の前髪を慌てて片手で押さえた。視界を黒髪が覆う。左目が見えているから問題ない。


 足を出して、馬車に乗り込む。ヴリュメール伯爵家の出してくれた馬車は両親と私が乗り込んでも余裕があるほど大きい。我が家はもう馬車を出すほどの余裕もないからありがたい。


 我が家の傾き具合を知っているヴリュメール伯爵が一応は世間体を気にしてくれた、と私は思うことにした。そんなことを気にする人なのかは疑わしいけれど、花嫁が徒歩で敷地にやってきたら流石にひっくり返ってしまうかもしれない。


 私は今日、顔も知らない伯爵と結婚する。


 我が家だって一応は伯爵家だ。目も当てられないほど傾いていて爵位返上の危機に瀕しているけれど。


「ジゼル……すまない……すまないな……」


 乗り込んだ馬車、ガラガラと回る車輪の音が聞こえる中で父がぽつりと言葉を零す。悔恨を滲ませたその声に、私は首を振って微笑んだ。


「お父様、大丈夫。気にしないで。私なら大丈夫」


 根拠なんてないけど、大丈夫としか言えない。こうするしかないのは私にも解るし、嫌だなんて言える立場でもない。


 私は両親が私財を投げ打ち何とか立て直そうとした姿を知っている。私が趣味で育てた薬草販売で起死回生を試みたことも。それでもダメだった。ソルシエールの薬草なんて、と不気味がられたらしい。両親は必死に隠そうとしたけれど私は全部知っている。共同出資者の人がそう叫んでいたし、その全責任を我が家が負わされたことも併せて叫んでいたから丸聞こえだった。


 これはいよいよのんびり薬草なんて育てている場合ではない。私も何か仕事を……と考えていた矢先、ヴリュメール家との婚姻が纏まった、と聞かされた。資金援助もしてくれるというから両親が路頭に迷うことはない。それなら、と私は二つ返事で頷いたのだ。元々私に拒否権はないわけだし。むしろ私のような者を迎え入れるなんてどんな物好きだろうと思う。


 でもまぁ、ヴリュメール伯爵だし、とも思えば妙に納得した。黒い噂の絶えない伯爵と、落ち目の不気味な伯爵令嬢。変人同士お似合いだ。私でもそう思う。


 曰く、伯爵は奴隷商人のお得意様なのだとか。


 曰く、幼い子どもの奴隷を買っては、屋敷の地下で手足を切り刻んでいるらしい。


 火のないところに煙は立たないもので、実際に幼い子どもを奴隷商人から買うところを見た人がいたり、子どもを乗せた馬車が屋敷に向かったところを見た人がいたりする。それにヴリュメール家は、そういう家だ。


 大昔の戦で大層な功績を残し、伯爵の位を賜ったと聞く。多くの敵を(ほふ)り、血を浴びた。自らが流した血はほとんどなく、目の前の死に眉ひとつ動かさない。その強さはさながら竜、悪しき邪竜と称された──らしい。離れた領地を治める人だし知らない相手だ。盛りに盛られた伝説とは思うけれど、それでも先祖にそういう武勇を残す人がいるだけでそういう家系だと思われる。


 まぁ、それはソルシエール家も同じだけど。


 馬車は一日中走り、ヴリュメール伯爵邸へ辿り着いた。陽はとうに暮れているし馬車に揺られて私たちは草臥(くたび)れてもいるけれど、着いて早々に小さな結婚式を挙げる。お互い呼びたい親戚も友人もいない。けれど夫婦になるために必要な儀式ではあるから、最低限のことだけの、形式的なものだった。


「ジゼルと申します。よろしくお願いします」


 物静かな使用人と母に手伝ってもらって、母が自分の結婚式で着たドレスを纏った。蝋燭の灯りが揺らめく庭はある種幻想的とも言えるかもしれない。招待客のいない、厳密に言えば両親が招待客として扱われているのかもしれないパーティーとも呼べない食事会で父が私を頼むと伯爵に挨拶し、私もおずおずと自己紹介をした。


 春の終わり、夏が始まるにはまだ少し冷える夜に挙げる結婚式の何と肌寒いことか。袖の長いドレスだけど首元は冷たい風に撫でられている。おまけに初めて顔を合わせた伯爵その人はにこりとも笑わない。空気も場も冷えて、両親が何とか愛想良く笑っているのが不憫に見えるほどだった。


「……あぁ」


 それだけ。たったそれだけ。名乗りもしない。よろしくもない。およそ人間関係を築く気など微塵もないことが窺われる対応に私は内心で溜息を吐いた。本当にこんな人が両親に資金援助なんてしてくれるのだろうか。とはいえこの人に縋るしか今はないから私は表情に出さないように気をつけた。


 ウィリアム・ヴリュメール伯爵は美しい人だった。にこりともしないその表情はまるで彫刻で、冷たさも相俟って氷像のようだと思う。先代の遅くにできた子どもで、歳は確か二十五歳。先代は既に他界している。


 すらりとした体躯は、ちょっとした競走馬を思わせた。私よりも頭ひとつ背が高い。顔を見ようと思うと首が痛くなりそうだ。


 黒髪を後ろに撫でつけ、控えめながらも着飾った様子なのは結婚式だからなのだろう。仏頂面でつまらなさそうだけれど別段面白いものでもないし、好きでもない娘を妻として迎え入れるのだから楽しさもない。それは理解できる。理解できるけれど、当人である妻の私だって面白くはない。


 食事は美味しかった。我が家の畑で採れたものとは違う。きっと本業で生産している農家から仕入れているものだ。することも喋ることもないから私たちは無言で料理を食べるくらいしか間をもたせる術がない。まぁそれも間がもっているのかと問われれば首を傾げるしかない有様ではあるけれど。


 苦行の結婚式が終わり、両親は客間へ案内される。私は当然、両親とは別の部屋だ。


 いわゆる初夜、というものを迎えるのだと考えるとさっき食べたものが戻ってきてしまうのではと思うほど緊張した。奥様はこちらへ、と案内してくれるテレーズは私付きの侍女だという。伯爵が私のために同世代の侍女をと選んでくれたらしい、けど、侍女なんていたことがないからどうして良いのか判らない。取り敢えず彼女の後について歩いて行った部屋は実家の部屋より何倍も広くて眩暈がしそうだった。


「旦那様は明日、朝早いので。奥様はこちらで休むようにと仰せです」


「え」


 ということは、別室で休むってこと? と私が確かめると、はい、とテレーズは頷いた。慣れた手つきで私を寝巻きへと着替えさせ、支度を整えるとおやすみなさいと言って部屋を後にした。私はふかふかのベッドに寝転がり、初夜がなかったことに安堵の息を吐く。と同時に馬車に揺られた疲れや苦行の結婚式で張っていた気が緩んだこともあり、眠りに落ちていた。


「奥様、朝ですよ」


 一瞬で朝を迎え、私が動揺しているうちにテレーズはまた支度を整えてくれる。ご両親がお帰りになりますから、お見送りして差し上げないと、と言われてようやく昨晩此処へ嫁入りに来たことを思い出した。


 伯爵は本当に今朝早くに外出したらしく、食事の席にも見送りの場にも現れなかった。でも使用人たちの愛想は良くて、みんなにこにこしている。お気をつけてお帰りくださいねと両親へお土産も持たせてくれて、昨夜とは打って変わった様子に私も両親も面食らった。伯爵の前とは随分と違うようだ。


「ジゼル、私たちは帰るが……健康に暮らすんだよ」


 父が困惑しながらも私に優しい目を向けて言った。はい、と私は頷く。健康は我が家の家訓だ。何をするにも健康第一。


「此処の皆さんと仲良くね」


 母が微笑んだ。使用人の感じの良さに安心感を覚えたのだろう。はい、と私は母にも頷いた。誰かと仲良く、なんてしたことがないけどそんなことを教えてもらえる状況ではない。


 私は両親を見送り、伯爵が用意してくれた馬車は今度は両親だけを乗せて戻る。その姿が見えなくなるまで玄関先で見送って、私はこれからどうしたものか、と思って緊張した。どんな生活が始まるのだろう。伯爵夫人としての振る舞いなんて私は知らない。母のようにすれば良いのだろうか。縁談が急に決まって此処へ来るまでもあまり時間もなかったから、そういう教育を受ける暇はなかった。


「……奥様」


 声をかけられて私は振り返った。背の高い青年が私を見下ろしている。くるくるとした黒い巻き毛は癖が強いのか、好き勝手な方向へ跳ねていた。身だしなみに気を遣っていないわけではなさそうだけど、その髪で目元が隠れている。引き結んだ唇は真一文字で、不機嫌そうだった。


「えっと」


 何の用事か測りかねて困惑する私に、ビルですと青年が口を開く。名乗ったのだと私が理解するまでに数秒かかった。


「家令を務めております。伯爵不在の間、この屋敷の管理を任されています。本来なら女主人たる奥様の仕事となるのでしょうが、まだ此処へ来たばかりですから。伯爵から任されていることもあります。俺の言うことに従って頂きます」


 家令という割には随分と若く見えるけれど、昨日見た使用人たちも軒並み若い人たちばかりだった。その中では確かに彼が一番歳上に見えるかもしれない。それに私はこの家には来たばかりの新参者だ。使用人の顔も名前もしきたりも知らない。私が指示をすることなんてないだろう。


「それは別に構わないんですけど……伯爵は不在にするんですか?」


「ひとつ、伯爵のことを嗅ぎ回らないこと」


「……」


 嗅ぎ回ったつもりはないのだけど、そう言われるのは心外で私は思わず眉根を寄せた。


「とは別に言われてはいませんが、あなたも探られて良い気持ちはしないでしょう。伯爵から(ことづ)けがあります。

『偽装結婚だから、地下室にさえ行かなければ屋敷の中で自由に暮らせば良い』、だそうですよ」


「はぁ」


 そう言う以外になくて私は困惑した。偽装結婚(マリアージュ・ブラン)だったのか、と思う。と同時に納得もする。そうでなければソルシエールに、私に縁談が来ることはない。何か事情があるのだろうとは思うものの、詮索するなと言われたばかりだし興味もない。此処を追い出されても行くところのない私が伯爵のそれに従うしかないのは明白だった。


「……あぁそういえば」


 言い返さない私のそれを了承と取ったらしいビルが踵を返して歩き去ろうとした瞬間、何かを思い出したのかまた私を向いた。まだ何か、と思って私は首を傾げる。


「庭のひと区画を自由に使って構わないとも言っていました。園外の趣味がおありだとか」


「え、良いんですか?」


 思ってもいなかった言葉に、私は目を丸くした。驚いてビルを見上げれば、ビルも驚いた様子を見せる。薄く開いた口から、ええ、と困惑した声が出てきて私はすぐに自分が周囲にどう思われているかを思い出す。


「あ、安心してください。別に毒草とか育ててるわけじゃありませんから」


 目を伏せて慌てて言い繕った。別に、とビルがぼそりと返す。


「でもありがとうございます。って、伯爵に会えたら伝えておいてください」


 偽装結婚した相手に言われる礼なんて嬉しくも何ともないだろうけれど、礼儀知らずだと思われるのも嫌で私はぺこりと頭を下げた。今度は私からビルに背を向けて歩き去る。テレーズが私の後についてきた。


「奥様は園芸が趣味なんですね。お持ちになった荷物の中にもあったのを思い出しました。どうしますか? すぐに作業されますか?」


「あ、ええと、テレーズ、その……怖くないの?」


 私が足を止めて窺うとテレーズはにこにこしながら、何がですか、と何も知らない様子で問い返す。そばかすの浮いた顔は純粋で、知らせるのは私の方が怖かった。でもどうせいつかは知られることだ。侍女を辞めたいと言われるなら早い方が良いのではないだろうか。私も別に、侍女はいなくても良いし。


「私はその、ソルシエールの娘だから」


 もう嫁いだからソルシエールの娘だった、が正しいのだろうけれど実感がないからそうは言えなかった。ソルシエールといえば、と語られる噂話は我が家にもある。何もヴリュメール家だけではない。


「魔女の出る家系だと、言われているのよ」


 私は目を伏せてそう口にする。良い噂話はない。大昔の戦で我が家も魔法のような効果をもたらす薬をもって貢献し、伯爵の地位を賜った。技術は秘匿され、珍しい薬草は保管された。その知識を活かして宮廷医師にも召し抱えられたことがあるという話だけれど、やっぱりその技術は怖いから、という理由で小さな反逆をでっち上げられ適当な領地をもらって追放された。でも転落してもタダでは起きず、領地に薬草園を作って研究に励んだという。一族の間で受け継がれてきたその技は世のため人のために開放され、一族だけが知っている秘密はほとんどない。それでも悪い逸話は残るもので、ソルシエール家はずっと冷遇されてきた。その結果が両親であり、起死回生をはかっても成功はしない。


 でもそれは私のせいでもある。埃を被っていた古い書物と種を見つけ、出来心で育てた薬草は万能薬と触れ込まれた。ソルシエールの薬は人々に受け入れられなかった。元から信頼がなかったけれど、私が関わったというのが良くなかったのだ。それが知られてしまって、気味悪がられて。両親の助けになりたかったけど、私のせいでご破産にしてしまった。


「奥様は魔女様なんですか? 凄い! テレーズも子どもの頃はずっと魔法が使えたらって思っていたんですよ!」


「へ?」


 思っていた反応とは違って私は思わず顔を上げた。テレーズのにこにことした顔は何も変わらず、むしろ輝いている。子どもの頃は、といったってテレーズだって同じくらいだろうに。


「奥様、テレーズは子どもの頃、魔女様に助けてもらう空想ばかりしていました。此処へ来る前はひどい生活をしていたんです。空想の中の魔女様はいつもテレーズを励ましてくれました。だからテレーズにとって魔女様は、怖いものではないんです」


「そ、れは……空想の中の話であって……」


 テレーズを励ました良い魔女とは似ても似つかない逸話ばかりだ。少なくとも私は誰かを励ましたことなんてない。


「だとしても奥様、テレーズはそんなことで奥様を怖いなんて思いませんよ」


 明るい声と純粋な笑顔を無碍にすることなんかできなくて、うん、と私は小さく頷いた。



* * *



「ふぅ!」


 私は額の汗を拭う。日焼けをしてしまいます、とテレーズは私を心配してくれたけれど、私はほんの少し、彼女のそばかすが羨ましかった。それは陽の下で長く活動していたことの証のように思うからだ。


「私が日焼けしたって誰も気にしないわ」


「テレーズが気にするんですぅ!」


 此処へ来て二ヶ月が経とうとしていた。夏真っ盛りの暑い日。それでも私は今日も庭へ出て土いじりをして植物の世話をしている。テレーズは私に付き合って雑草抜きを手伝ってくれたり生長を喜んでくれるけれど、時々思い出したように陽射しの暑さを気にかけて休憩を申し出てくる。


「はっは! 奥様の園芸好きは本物だからなぁ! 頑張れよぅ、テレーズ!」


「トマ! 見てないで手伝ってくれれば良いのに!」


 庭師のトマが楽しそうに声をかけて足を止めた。肥料袋を抱えた筋肉質な腕は日焼けして真っ黒だ。テレーズに泣きつかれてもトマははっはと大きく口を開けて笑うだけだった。私たちよりは歳上の彼は伯爵の方が年齢が近いと思う。


「いやぁ、おれは奥様から教えてもらう立場だからなぁ。前に奥様に教えてもらった調合肥料、あれ使ってみてから調子がすこぶる良いんですわぁ」


「それは良かった」


 私は安心して笑う。彼が世話するのは野菜から樹木まで幅広いから、相談された時には役に立てるか分からず困惑したものだ。


 ヴリュメール家の使用人たちは、ソルシエールのことで私を忌避したりはしなかった。不安がったり心配がったりすることなく、両親と同じように接してくれる。時には私の知識を貸して欲しいと頼ってくれることもある。私はそれに甘えて、此処でのびのびと過ごさせてもらっていた。


 結婚したはずの伯爵はあれから全然姿を見せない。外出から帰ってはいると思うけれど、またすぐ外出しているのか顔を合わせることがなかった。ビルに報告がいくことを考え、探るつもりはないのだけど、と前置きしてテレーズに伯爵はそんなに忙しいのかと尋ねれば、そうですね、と肯定が返ってきたことがある。妻としての仕事をひとつもしていないのは心苦しさもあるけれど、同時に安堵もしていた。結婚式の夜以来、顔も見ていない夫は妻を娶ったことさえ忘れているのではないかと思った。まぁそれはそれで別に構わないのだけど。


「あっと、テレーズ。今日は久々に“先生”がくるから何かあれば言うんだぞぅ」


 じゃあなぁ、とトマはにこやかに鼻歌を歌いながら去っていく。テレーズも、はーいと元気な返事をしてトマを見送った。


「お客様がいらっしゃるの?」


 ヴリュメール邸を訪れる人はいない。この二ヶ月、誰かが訪ねてきたことはなかった。まぁ主人である伯爵がいないなら訪ねてくるような人もいないだろうから気にしたことがなかった。


「はい、お医者様です。定期的に健診に来てくださるんですよ。奥様も診てもらいますか?」


「い、いえ、良いわ。何処も悪いところはないし。でもあの、ご挨拶、した方が良いかしら……?」


 此処へ来て初めてのお客様だ。私以外は顔見知りなのだろうその医師は伯爵がいなくても定期的に来るのだろうと思う。その人は伯爵が結婚したことを知っているだろうか。私がいきなり挨拶してひっくり返ったりはしないだろうか。でも挨拶しないわけにもいかないのでは、と思うから私は不安に顔を曇らせる。


「うーん。旦那様がいる時の方が良いと思います。なので奥様はお部屋にいてください」


「……うん、ありがとう」


 二ヶ月かけて使用人たちと打ち解けた私を一番近くで見ているテレーズは私が慣れるまでに時間がかかることを知っている。今後、今回のように部屋にいて良いことはあまりないだろうと思うけどテレーズの心遣いに私は素直にお礼を言った。


「この前収穫した花、乾燥して良さそうになってましたよね。材料、用意しておきます。テレーズも一緒に作りたいから奥様、教えてくださいね」


 トマが綺麗に咲かせた花が咲き終わると楽しめなくなるから勿体ないと嘆いたテレーズに私はポプリ作りを提案した。でも塩の入ったポットは持ち歩くには重たいし、と渋るテレーズに、完全に乾燥させるポプリもあるのだと教えれば途端に顔を輝かせたのは十日ほど前だ。それを小さな袋に入れればいつでも香りが楽しめるようになると知って、花を鋏でぱちんぱちんと切りながら既に楽しそうに笑んでいたのを思い出した。


 畑の雑草を抜いて水をやり、私たちは室内へ戻る。必要な材料をテレーズに伝え、用意してもらう間に私は何かできることはないかと探し、洗濯を手伝うことにした。


「まぁまぁ、奥様、また手伝いに来てくださったんですか」


「こう見えてお洗濯は得意なんですよ、私」


 この屋敷では日々多くの洗濯物が出る。屋敷に住まう人数に対して洗い物は多いと思うけれど、使っていない部屋数も多いからそんなものかもしれない。


「奥様がお洗濯上手なのはわたしだって知ってますけどね、またテレーズが慌てて探してるんじゃないですか」


 トマと同じくらいの年齢に見える使用人のイヴォンヌは笑って腰に手を当てた。妻としての仕事をしていない後ろめたさから何かできることはないかと探していた私が手伝いたいと申し出た時、快く受け入れてくれたのが彼女だ。そんなことさせられないと他のところでなら言うんだろうけどね、と彼女はニヤリと笑った。やりたいと言う人間を追い返すようなこと、わたしはしないんですよと。


「テレーズにはお遣いをお願いしたから、しばらくは探さないわ」


「あはは。悪い人だね」


 じゃあ見つかるまでよろしく、とイヴォンヌはニヤリと笑うと他の使用人にも指示を飛ばして洗濯を始めた。私も腕まくりをしてゴシゴシとシーツを洗う。とはいえ、そんなに汚れているわけではないから埃を落とす程度で良い。


 実家では使用人を多く雇う余裕はなくて、自分のことは自分でやっていた。料理や掃除は使用人がしてくれたけれど、洗濯物は私も触られるのが気恥ずかしくて自分で覚えたのだ。特に月のもので汚してしまった時は早く血を落としたくて泣きながら洗ったものだ。塩を使うと落ちやすくなる、ということに気づいてからは洗濯も苦ではなくなった。此処でも時折血液が付着したシーツが洗濯に回ってくることがある。私がそれを上手に落とした時にもらった拍手は少しだけくすぐったい。


 イヴォンヌを始めとした洗濯を担当する使用人は当然ながら腕まくりをする。服の袖を濡らすわけにはいかないからだ。そうして見える腕に、時々長く走る縫合の痕が見えることがあって私はどきりとする。イヴォンヌもそのひとりで、右腕の内側に長い切り傷の痕がある。けれどそれを隠す素振りはなく、堂々とさえしているから少し格好良くも見えた。


 洗濯って腕を怪我しやすいんだろうか、と私は思ったけれど、とても訊けるようなことではなくて胸の内に秘めたままでいた。


「あー! 奥様、こんなところに!」


「見つかったね」


 テレーズの声とイヴォンヌが笑う声が重なった。私は最後のシーツを洗い終わったところだ。干すところまでは手伝えないみたい、と言えば構わないよとイヴォンヌは太陽のように笑った。


「助かったさ。奥様、あんたはまだ此処にオキャクサマみたいな顔でいるけど、わたしらはとっくにあんたを受け入れてる。手伝ってくれるのは嬉しいけどね、そんなに気にしなくても大丈夫だよ」


 心の内を見透かすようなことをイヴォンヌが言うから、私は少し赤面した。


「でもまぁ、手が足りないことはあるから。その時はまたよろしく」


「わ、私にできることがあるならやるわ」


 私が思い切って言えば、イヴォンヌは朗らかに笑って他の使用人たちと一緒に洗濯物を持って干しに向かった。テレーズが私の後ろで仁王立ちして精一杯に怒った表情を浮かべている。振り返ってテレーズの顔を見た私は思わず笑ってしまって怒られた。


「奥様! どうしてそう、もう!」


「奥様って呼んでもらえるようなことしてないんだもの。でも気にしなくて良いって、イヴォンヌに今言われてしまったわ」


 私が苦笑すると、テレーズは眉根を寄せた。苦しそうな、泣きそうな表情に見えて私は驚いてしまう。奥様は、とテレーズが掠れた声で尋ねた。


「此処に、いづらいですか?」


「そ、そんなことないわ。みんな良くしてくれるし。でもあの、だからこそ、お役に立てたらって思うことがあるの」


「役に……? あ、それ、テレーズも分かります。お役に立ちたいです。テレーズ、でも、奥様のお役に立ててないですか……?」


「あああそういうことじゃなくて、テレーズ、あの、あなたのことは大好きだしいつも頑張ってくれてるの見てるから。あなたのせいじゃないのよ。私が、その、自信がないだけで」


 私が慌てると、テレーズがにっこりと笑った。へ、と私はぽかんとする。


「奥様は凄いです! だからもっと自信持ってください! テレーズが頑張ってるの見てくれて嬉しいです。だから、戻りましょう」


「……」


 私は困惑して息を吐いた。でもまぁ、私が振り回してしまっているようだから時々こうして振り回されるのは悪くないと思う。それに彼女にあんな顔をさせたくはない。


 私はテレーズと一緒に部屋へ戻り、ポプリ作りを始めた。空のボウルに乾燥させた花びらを沢山入れて少しだけオイルを入れる。こうすることで香りが長持ちするのよ、と教えればテレーズは顔を近づけて、くん、と匂いを嗅いだ。良い匂いですぅ、とにっこり笑う顔が可愛くて、私も一緒になって笑った。


 部屋中に花の香りが広がって、混ぜた花びらを小さな布袋に入れて口を留める。リラックス効果のある香りがする花を選んだから、この作業だけでも癒された。


「あ! お医者様の時間! 少し行ってきますね、奥様!」


「行ってらっしゃい」


 作業に夢中になっていたテレーズは部屋の時計を見て飛び上がるとバタバタと忙しなく出ていった。私も時計を改めて見れば結構な時間が経っていて、目の前に山と積んだポプリをどうしたものかと眺めた。ひとりで使うには多すぎる。枕の下に入れても安眠効果があるから、欲しいという人がいたらあげても良いかもしれない。


 私はそう思い立つとポプリの山から半分ほど持って混ぜるのに使ったボウルに入れて部屋を出た。うろうろと屋敷の中を歩いてポプリの説明をし、実際に匂いを嗅いでもらい、欲しいと言う人にはそのままあげた。


 貰ってくれた人は良い匂いだと喜んでくれた。トマが咲かせた花だとも伝えれば、あぁ、と皆が一様に優しい表情になるから彼の人柄が愛されている証拠だと思う。私は自分がこんなことをしていることに、我ながら驚いた。


 ソルシエールの名前が届くところでは誰もこんな風には接してくれなかった。両親だけだった。誰も私が作った物には興味がなくて、負の関心はあったから忌避して、誰も手を伸ばしてなんてくれなかった。トマが世話をして咲かせた花だから、というのはあっても、テレーズと一緒に作った物だから、というのはあっても。これまで私が関わったものは誰も欲しがらなかった。


 魔女が作ったもの。そんなものは、誰も欲しがらなかったから。


 でも此処では違う。いくら魔女と呼ばれたことがあると言っても誰もそれがどうしたと気にせず、私と話してくれる。勿論形だけの伯爵夫人ではあるから立場はあるけれど、執拗に避けることもなければ嫌そうな顔をすることもない。私はそれが、嬉しかった。テレーズが傍で色々とお手本を見せてくれるからというのは大きいと思うけど、私も何となく、少しだけでも、変われた気がした。


 考え事をしていたら、視界の隅を何かが走っていった気がして顔を上げた。右側を長く伸ばした前髪ではよく見えなかったけれど、確かに何かが走っていった気がしたのだ。中庭へ視線を向ければ窓の向こうをビルが走っていた。相変わらず癖が強いくるくるの巻き毛は目元にかかっていて、何かを探しているように顔をあちこちへ向けている。


 視線を感じたのかビルが顔を上げて、私に気付く。私は緊張して体を強張らせた。ビルだけは私に関わってこない。私からも用がないから関わらない。ビルには歓迎されていないと思うし、話しかけにくい雰囲気があるからソルシエールにいた頃の私がすぐに表へ出てきてしまう。


 何か、探してるの?


 他の使用人になら私ひとりでもそう問いかけられただろう。一緒に探すこともできたかもしれない。けれどビルにはそれができない。ビルも私には頼まない。彼はあくまで私を伯爵夫人と捉えているし、関わる場合はそう接する。案の定ビルは私から顔を逸らすとまた何処かへと走って行ってしまった。


「……はぁ……」


 緊張した、と私は知らない間に止めていた息を吐く。心臓がドキドキいっているのが分かった。これはきっと草食動物の気持ち、と思って私は落ち込む。いつも何となく、ビルを怖いと思うのだ。私を歓迎していない雰囲気は、二ヶ月前の空気を思い出す。自分が此処へきてどれだけ優しくされているかと実感してしまうことになる。


 落とした視界の中にはポプリが入ったボウルを抱えた私の手。それでも部屋を出てきた時よりはポプリが減っているから、貰ってくれる人はいるわけで。それはこの二ヶ月、テレーズに助けてもらって、みんなの好意に助けてもらって、築いてきた関係性だと思うから。


 私はまた顔を上げる。俯いてばかりではいけない。此処へきて変わった部分があるのは本当だ。胸を張っていなくては。


「……え?」


 気持ちを新たにしようと思ったら、顔を上げた先にあるものに目を奪われた。広大な敷地のヴリュメール邸は中庭も広い。綺麗な庭園はトマが世話をする花が今が咲き頃とばかりに色とりどりで、暑い夏には必要な木陰のために並木道もある。その樹木の一本、枝から白い布が垂れている。シーツでも飛ばされて引っ掛かっているのだろうかと思って私は目を擦った。


 何回見てもそれはシーツではない。人の脚が見えている。裸足の、細くて小さな脚。もぞもぞと動いている。


「……!」


 私は慌てて中庭へ出た。子どもの脚が覗いているなんてどういうことだ。


 この屋敷に子どもはいない。それなら何処かから迷い込んできた子ということになる。例えば物盗り。子どもの物盗りなんていて欲しくはないけど、貧しい子どもはいる。身軽な子どもなら木を伝って外から入り込み、見つからないように隠れていて降りられなくなっている、ということも考えられた。


 恐る恐る問題の場所へ近づいて、私は下から木の上を窺った。木の葉が生い茂る枝の一番太い枝を選んで子どもがしがみついている。白い布が垂れていると思ったのは間違っていなくて、足首に巻いている包帯が外れかかっているようだ。ぼろ布のようなものを纏い、顔は汚れて黒くなっている。手足の色が私とは違って、異人だ、とすぐに気づいた。黒髪の間から鋭い目が私を睨んでいる。追い詰められた手負の獣のようで、私は一瞬息を呑んだ。


「あの……あなた」


 それでも枝にしがみついている様子からは降りられなくなったのではと思って私は声をかけた。包帯を巻いているなら足に怪我をしている可能性が高いし、そんな足で無理して木なんて登ったら降りられなくなっても不思議はない。包帯は新しい。怪我をしたばかりなのかもしれない。


「大丈……」


 大丈夫、と尋ねようとして目の前いっぱいにその子どもが飛び掛かってきたことで何も考えられなくなった。ひゃあ、とかいう情けない悲鳴が出た。抱えていたボウルを投げ出し、抱き止めるために腕を伸ばす。何てことをするのか、と思った。怪我をしたことを忘れているのではないか。


「うぐっ」


 頬を鋭い痛みが走り、ごつん、と子どもの頭が胸に当たる。鈍い痛みを受けたけれど、子どもの方も呻いた。骨と皮ばかりのような細い体は軽く、上から落ちてきた衝撃だけを私は受けたようだと思う。


「ぶ、無事……?」


 胸の痛みに息が詰まって、呼吸がしづらかった。でも目の前の子どもの方が一大事で私は尋ねる。男の子か女の子か判断しかねるくらい中性的な顔立ちで、綺麗な子だと思った。鋭い目は相変わらず私に敵意を向けていたけれど、細い腕では抵抗らしい抵抗もできていない。


「わ、凄い熱出てる。風邪? それとも怪我の痛みで熱でも出てるの? 何処か痛くない? ぶつけたところは? 大丈夫?」


「……うー……」


 子どもは威嚇する時の猫みたいに唸った。警戒している様子があって、もしかして言葉が分からないのだろうかと私は気づく。異国の血が入っているのは明白だけれど、移民の子という可能性もある。この国で生まれたなら言葉は分かるかもしれない、と思ったけれど、単純に喋れない可能性にも気づいた。いずれにしても治療が必要だ。医者が来るという話だったし、診てもらえないか打診しようと私は誰か呼ぼうと思って顔を上げた。


「おーおー。よく捕まえたな嬢ちゃん。お手柄だ」


「!」


 不意に声がかけられるのと私に影が落ちるのは同時で、息を呑んだ。悲鳴も出ない。知らない声だったし、恐る恐る見上げて顔を見ても知らない青年だった。ただ、子どもと同じで一目で異国の血が入っていると分かる風貌だったから、この子の関係者だろうかと期待した。


「その坊主、足を怪我してんのに脱走してな、探してたんだわ。色んなところで売られてきたからまた売り飛ばされると思ったか? 嬢ちゃんを緩衝材にして逃げようとしたんだろうが、残念だったな」


 不穏な言葉と捕まえようとする腕が伸びる。子どもが怯えたように体を震わせ私にしがみついたから、私は咄嗟に伸ばされる青年の腕を払い、子どもを抱きしめた。お、と青年は面白がるような声をあげる。


「なんだ、嬢ちゃん。そいつを渡して欲しいんだが」


「お、お断りします! 売り飛ばすとか、あ、あなた、人売りですか? まさか、奴隷商人──」


「ははは、だったらどうする?」


「え、わ、ひゃあっ、お、おろしてください!」


 青年は子どもを抱きしめる私ごと横抱きにして抱えると歩き出してしまった。物凄い力持ちだと思う。私がバタバタ暴れてもびくともしないし、スタスタと何処かへ向かって歩いて行く。私は子どもを抱きしめたまま何処へ連れていかれるのかと不安でいっぱいになった。坊主と呼ばれた子どもも不安そうな表情をしている。


 青年は扉を足で開けた。中庭から通じる地下室は、絶対に行くなとビルに言われていた場所だ。かつん、かつん、と靴音をさせて青年は階段を降りていく。明るい外が遠ざかって行くのを見て私はぶるりと震えた。ぎゅっと子どもを抱きしめる手に力を込める。


 彼は奴隷商人であることを否定しなかった。絶対に行くなと言われた地下は、まさか。


 私は伯爵の黒い噂を思い出す。奴隷商人のお得意様で、幼い子どもの奴隷を買っては屋敷の地下で手足を切り刻んでいるらしいという。此処がもし、その地下であるなら。


 切り刻まれる……っ。


 何とかして逃げ出さなければと思うのに、体は震えて動けなかった。ぎぃ、とまた別の扉を開いて青年はその先へ進む。よいしょ、と下ろされたのは固い板の上のようなところで、状況を把握するより前に子どもごと胴体を固定され、子どもは猿ぐつわを嚙まされた。


「嬢ちゃん、丁度良いや。そのままその坊主が動かないようにふん縛っといてくれ。坊主、我慢しろよ。痛いのは最初だけだからな──」


「や、やめて!」


「何をしてる」


 冷たい声がして青年が動きを止めた。むーむー悲鳴を上げている子どもの向こうでぴたりと止まった青年が肩を下ろして振り返る。私が落としてきたポプリとボウルを持って其処に立っていた人物に私は目を丸くした。


「ビル!」


「……何故、此処に? 入ったのか?」


 ビルは不機嫌そうな色を声に滲ませた。それどころじゃないのに、と私は思う。勝手に入ったというか連れてこられただけなのだけど、それは今どうでも良い。助けてほしい。


「そんなの後でいくらでも怒られるから、この子を助けて……っ!」


「ぶっはははは! 助ける助ける! だからちょーっと我慢してろ……今、痛み止め打ってやるからな」


「……え?」


 痛み止め、と聞いて私は目が点になった。痛み止めって、何のために? 切り刻むために情けをかけるのだろうか?


「嬢ちゃん、オレは此処の医者でな。まぁ正式に認められてるわけじゃないから闇医者だが……この坊主は足を怪我してるんだ。そのせいで引きずりながらしか歩けない。そのくせすばしっこいからな、本人はあんまり困ってなかったかもしれないが。登るのは良くても降りられない。それを治してやろうってわけだ」


「治す……? え……? お医者様……?」


 混乱している私の目には真剣な眼差しを子どもの足に向ける青年の姿だった。


「マックス、勝手にべらべら喋るな」


「良いだろ別に。お前が見つけてこられなかった坊主を捕まえたのはこの嬢ちゃんだぜ。そもそも隙を突かれて逃したのは誰だったかな〜」


「……それは、悪かったと思うが」


 ビルが、あのビルが言いくるめられている。私は目の前で起きていることが信じられずに目を丸くしたままだ。子どもの方は一瞬だけ痛みにか呻き、すぐにとろんとして眠りに落ちていた。痛み止めというのは本当なのだろうか。


「それよりビル、血がぶっしゃー出る予定だからちょっと離れてろ。椅子に座ってろよ。ぶっ倒れたお前の面倒まで見てられねぇからな」


「な……そんなに出るのか……?」


 急に狼狽えた声を出すから私は驚いた。言われた通りにビルは離れた場所で木製の椅子に腰を下ろす。でも顔はこちらを向いていて、目を離すつもりはないようだ。


「あいつ、血が苦手なくせに目は逸らさねんだわ。と思ったらそのまま気絶してることもあるけどな」


「マックス、だから勝手にべらべら喋るな」


「なんだよ聞こえたのか」


「この距離だぞ、聞き逃すと思うか」


 ビルは私だけではなく他の使用人ともあまり喋らない。喋っているのを見たことがないくらいだ。だからこんな風に気安く誰かと言い合うのを見るのは新鮮だった。


「さ、話は終わりだ。そろそろ痛み止めが効いてきた頃だろ。痛い思いさせたくないし、動かれるのも困るからな。嬢ちゃん、悪いけど坊主のことそのまま頼むぜ。つっても嬢ちゃんにしがみついて離れる気ぃ、なさそうだけどな」


 私は痛み止めで意識のないはずの子どもの手がきつくドレスを握り締めているのを見て苦しくなった。きっと怖い思いをしている。言葉が通じないのか、治療してもらえるとは思っていなかったのだろう。だから逃げ出した。


「本当に治療、なんですよね?」


「そうだ。オレは天才なんでな、期待してて良いぜ」


「分かりました。お願いします」


 私が覚悟を決めて頷くと、マックスと呼ばれている青年は楽しそうに口角を上げた。


「……へぇ。良いじゃんか。肝の据わった女は嫌いじゃない」


「彼女は伯爵の奥方だ」


「なんだよ、サガること言うなよ。それくらいオレにも解ってるっての」


「言って良い冗談と悪い冗談がある」


 ビルが釘を刺すけど、マックスは別に本気じゃない。そんな軽口を言われたことも今までないけれど、私だって本気かどうかくらい分かる。マックスはビルのそれを冗談の通じない人くらいに取ったのか、はいはい、と軽くいなし、二度首を振ると真剣な目を向けた。それを見て私は緊張する。


 誰も喋らない空間で、かちゃ、ぐちゃ、というマックスの作業する音が響く。金属の器具が擦れる音と、患部の肉を開く音だろう。見えないけれど、あまり良い気分がするものではなかった。


「……ふぅ、終わったぜ」


 どのくらいの時間が経ったのか。時計の秒針の音はすれど視界に入る場所にはないから私には経過時間が分からない。それでもマックスがそう言って額の汗を拭うのを見て、緊張して入っていた力が抜けるのが自分でも分かった。


「成功だ。いやー流石オレ。天才」


 マックスが言うほどは血が出ているようには見えなかったけれど、拭った額が赤く濡れている。血が、と私が言うとあぁはいはい、とマックスは洗ってくると言って部屋の扉を開けて出て行った。私は固い寝台と思しき場所でまだ体を固定されたまま、動くこともできずにマックスが戻ってくるのを待つ。けれど先に動いたものがあった。


 ビルだ。


「……此処に入ったのか」


「つ、連れてこられたの。この子を中庭で見つけて、あのお医者様に抱えられて気づいたらこう」


「あぁ、あいつは怪力男だから」


 はぁ、とビルは溜息を吐く。腕を伸ばして私を固定している拘束具のようなものを外した。締め付けがなくなって動けるようになった私をビルの大きな手が支えて起こしてくれる。ドレスを強く握りしめている子どもも包帯が巻かれた場所をあまり動かさないようにしながら一緒に起こした。まだ意識は戻っていない。


「見られたなら仕方ない。あなたにも見せる」


 丁度マックスが戻ってきてあんまり動かすなよ、と静かに言った。子どもの指を一本ずつ丁寧に開いて私から離す。ドレスはしわくちゃになっていた。


「嬢ちゃんのことも念のため診ておくか。坊主にぶつかられてただろ」


「え、あ、その、大丈夫で……っ」


 止める間もなくマックスの手が私の頬に伸びた。ぴり、と痛みを感じて体を震わせる。引っ掛かれてるなー、消毒しとくぞー、とマックスは脱脂綿に消毒液を浸し、私の頬に再度触れる。しみるかも、と言うと同時にまたぴりっとした痛みを覚えて私は目を閉じた。はいはい我慢、とマックスは慣れた様子で私の頬を何度か消毒する。


「血はそんな出てないし塞がりかけてる。消毒しとけば大丈夫だろ。けど嬢ちゃん、その前髪が丁度傷に触れて痛いんじゃねぇか? 上げとくと良いぜ。折角の美人なんだか……ら……」


「あ、やめ……っ」


 止める前に私の右目は外に触れた。ずっと長い前髪で隠してきた目が二人を見る。二人も私を見ていた。ビルの表情はよく分からないけれど、マックスは露骨に驚いた様子だ。う、と私は両目を閉じた。


「驚いた。嬢ちゃんあんた、左右で目の色が違うのか」


「あうう……」


 見られた、と思った私は目を開けられない。これが原因で私は気味悪がられた。魔女が生まれたと言われ、避けられてきた。私もこれが原因ならと隠してきたのに。テレーズにだって、隠しているのに。


「綺麗だ」


「──っ」


 聞こえた言葉に私は驚いて目を開けた。にっこりとマックスが笑っている。白い歯を見せて笑った様子は不気味がってはいないようだ。


「綺麗な緑だ。なぁ、ビル。お前もそう思うだろ?」


「あ、あぁ、……そうだな」


 流石のビルも気を遣ってくれたのかもしれない。だけど間があってもそんな風に言ってもらえたことはなくて、私は信じられない思いで二人を見た。両親しかそんなことは言ってくれなかった。前髪を伸ばしても何も言わなかった。


「それを気にして前髪を伸ばしているなら、その、気にする必要はない、と思う」


「……」


「お前もその髪切れば? 鬱陶しくね?」


「俺のことは良い」


 面倒そうにビルは答え、マックスは気にした様子もなく笑った。二人とも私の目の色なんて気にしていないみたいだ。


「とりあえず、医者の言うことは聞いといた方が良いぞ。嬢ちゃんはその傷が塞がるまでは前髪下ろすの禁止な」


「え」


「ってことで行こうぜ。ビル、案内しようとしてただろ?」


 マックスは私の困惑などお構いなしに未だに意識がない子どもを抱き上げると顎で扉を示した。はぁ、とビルは何度目かも分からない溜息を吐く。そうだ、と頷いて私に手を差し出した。固い寝台から降りるのを手伝ってくれるらしい。


「あ、ありがとう……」


 私はお礼を言って降りる。スタスタと歩き出すマックスの後ろをついていきながら、ビルが口を開いた。


「伯爵の噂を知っているか」


「あの、奴隷商人がどうとか……地下で子どもを切り刻んでるとか……?」


 私が答えると、そうだとビルは頷いた。噂自体は本物だと。


「切り刻んでるのオレな!」


「ややこしくなるからお前は黙ってろ」


 前を歩くマックスが楽しそうな声をあげて言うから私は驚いてしまったけれど、ビルが説明してくれるつもりはあるようだから続きを待つ。


「奴隷商人もそうだし、移動式の見世物小屋から引き取ることもある。いずれも体に異常があり、およそ人としては扱われない子どもたちだ。元は先代の伯爵が始めたことで、それを継承している」


「オレもそうだぜ! 手先が器用すぎる異国の子どもって見世物小屋で地味なショーやらされてた! 五分以内に編み物するとか、刺繍するとか、百本ある針の穴に糸を通すとかな! 全部ちゃんとやってんのに絵面が地味すぎるって後で折檻されるんだぜ! 痛かったなぁ〜!」


「え」


「だから黙ってろ」


 今回の子どももそうだ、とビルは言う。足に怪我をしているのに運動能力が高いから多少値段を落とされて奴隷として売られていたと。それを伯爵が買った。買うことでしか身柄を保護できない。本当は資金になるからお金など渡したくはないと思っているらしいことを聞いて、伯爵の印象がだいぶ変わった。


「あいつは腕の良い医者だ。元が見世物小屋出身だから正式に医者としては認められないが。治療すれば奴隷なんて道じゃなくても生きていけるようになる。可能性が広がる。……伯爵はそう考えている。その子どもたちの世話を、俺がしている」


「子どもたち?」


 今回だけじゃないことは話を聞いていれば解ったけれど、零された言葉に私は首を傾げた。そう、とビルは頷く。地下の部屋から出た先では長い廊下が続いている。等間隔にランプが掲げられていた。部屋がいくつもあるようで、向かい合った扉が見えた。その一番奥に辿り着き、マックスがまた足で扉を開く。中ではわっと歓声が上がった。


「マックスだ! 今度はどの子? その子?」


「ビル! お腹空いた!」


「お姉さん誰ー?」


 私は目を丸くする。寝台がいくつも並べられた広い部屋では子どもたちが一斉に開いた扉の先にいる私たちへ視線を向けたのだ。どの子も大人のシャツを着て脚は剥き出しだ。手足に包帯をしている子が多い。いずれも十歳未満の子どもに見えた。でもどの子も顔が明るく、警戒心は見られない。心を許しているように見えた。


「おーおー、元気にしてたかチビども。新入りはまだおねんね中だ。静かにな」


「はーい」


 マックスの言うことをよく聞いて子どもたちは小声で返事をする。その中で、あれ、と驚いた声をあげる娘がいた。奥様、と続いた声はテレーズだ。


「え、どうしたんですか、此処、見つけちゃったんですか?」


「……そうだ」


 驚いている私の代わりにビルが答える。へー、とテレーズも驚いてぽかんとしていたけれど、すぐに切り替えてにっこりと笑った。


「ヴリュメール邸の地下施設へようこそ、奥様! 歓迎します!」


 だから静かにしろって言っただろ、とマックスに怒られたテレーズの言葉に私は益々目を丸くしたのだった。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 企画参加ありがとうございます! 面白いです。 ヒロイン側にも事情があるというのが、新鮮でした。物語に深みが出て素敵です。 テレーズは可愛いし、明るいマックスさんも好き。 使用人たちがみん…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ