星の影②
カミロ少年は、友人イェハチ、そして、ツァン諸族の伝説の英雄とともに、伯父の農場に向かうことになった。
「『星の影』が来るって、フ・クェーンは言ってた」
「星の影?」
道すがら、久々の友人との会話の中で、その単語が出た。
星の影。確か、東洋の慣用句で星の光という意味だったか。
しかし、ここでの意味が違っていたようだ。
「風かもしれないし、水かもしれない。虫かも、獣かもしれないって言ってた」
「何それ……?」
首をかしげると、前を歩くフ・クェーンが口を開いた。
「あるいは、人かもしれない」
そう言えば、「島船」が現れた時も、この老英雄は「星の影」とつぶやいた。
「君たちに、星に関わる古い物語はあるかね」
前を歩くフ・クェーンは、振り向くことなくカミロに問いかけた。神話のことだろうか。
「ええと、星は運命の女神さまの髪飾りだって聞いてます。夜空も、その女神さまの髪でできてるって」
「うむ……。ところで君は、その星に力があると思うかね。この大地にもたらす力が」
「……よくわかりません」
「わからない、ということは、この世で人が感知できるような力は存在しない、ということだ」
だから、星は地上に「影」を落とす。そう、フ・クェーンは言った。
「水面に星が写るように、この大地の上に影を落とす。それがいかなる理由で、何の形をとり、どのような使命を持つのか、それは分からない。我々人間と関わりを持つとも限らない。それは、火の山の怒りかもしれん。全てを飲みこむ砂の大嵐かも知れん、あるいは獣の狂騒か、魔物の到来か」
フ・クェーンは軽く顔を上げた。
「だが、来る。山脈の王と精霊が告げている。すでにその片割れは海にある。そしてそれを追って、もうひとつが東から来る。だから私はこの地に来た」
カミロの母の実家は、この地にブドウを持ち込み、ワイン作りをはじめた、最も古い農園のひとつだった。
この地は年間を通して高温で雨季は長い。土は黄色く硬く重く、掘ればすぐに固い岩盤が現れる。ブドウ作りには適さないと言われていた。
しかし、そんな環境で苦闘の末に作られたブドウとワインは、独特で他にない、そして奇跡的に素晴らしい品質となった。今やアマーリロの重要な輸出品となり、チエロニア王室にすら献上されている。
そんなワインの造り手のひとりとして、総督閣下ですらご機嫌をうかがうカミロの伯父御だが、フ・クェーンの来訪には、飛び上がらんばかりに驚いていた。
「え、ええと、ワインをご所望で……?」
「いや、ここで待たせてもらいたい」
そう言って、フ・クェーンたちは、農園の東の端で、岩に腰かけ、杖を抱えながら荒野を眺めた。ブドウ畑は丘陵にあり、その東の端からは、モンゴ山までの荒原がはるかに見渡せる。
「おい、カミロ」
背中から思わぬ声が聞こえた。ブドウの木の後ろから現れたのは、総督の次男坊のエドゥだ。
「何してんです、若様」
「いや、帝国の友人にせがまれてな。お前の宿で出してるワインの醸造所を紹介してくれと……」
見知った顔がふたつ現れた。ボレア親子だ。
「それでだ。お前がここに寄ることは聞いてたんで、ちょいと驚かせてやろうと」
「ほんと、総督の次男坊とは思えないよなあ。この間もお忍びで飲みに出て、怒られたばかりだろ?」
そうつぶやいたホーレスに、エドゥが細目を流した。
「まあとにかく、逆にお前に驚かされるとは思わなかったよ。フ・クェーンと一緒とはな。学者先生も誘えばよかったぜ」
そんな総督の次男坊たちを置いて、カミロの伯父が、気もそぞろに、
「なあカミロ、フ・クェーンは何を待ってるってんだ?」
「『星の影』って言ってた」
「何だそりゃ」
「……よく分かんない」
少なくとも、人ではない気がする。東から来ると言っていたが、ここから東は、ツァンでもない外の人間が進むには、あまりにも過酷な場所と言われているからだ。
(何を待っているんだろう)
カミロは老英雄の視線の先に目をやる。モンゴ山へ。
外の人間と話をすると、火山と言えば、お椀をひっくり返したような円錐形の山を想像する者が多い。しかしモンゴ山は違う。その山頂は横に長く、台形を成し、ここから見る姿は、横たわる巨大な岩のようだった。
しかし、その山肌はあらゆるところから火を噴き出すと言われ、それにかしずく山脈も、いつどこで地が裂け、火の川が流れ出るか分からないという。
火を噴く山々を下り裾野に入っても、靴底を切り裂く鋭利な石か、あるいは溶けた岩が固まった、おろし金のようないびつな岩肌が大地を埋め尽くす。迷路を作るかのように奇岩怪石が立ち並ぶその陰には、狡猾で強力な猛獣がひそむ。
水にも危険がある。モンゴ山とアマーリロの間には、一本の大河が流れている。その大河にも、牛をも食らう凶暴な魚や、竜の眷属とまで言われるワニたちが群れを成して待ち伏せているとか。
大河を超えモンゴ山まで旅するのは、マー族にとってすら危険極まりない行為であり、かの山に行き、そして帰るのは、それだけで勇者と称される冒険だった。
ふとモンゴ山から視線を移すと、フ・クェーンが陶器の壺を片手にカミロを見ていた。
イェハチが声を投げてきた。
「カミロ。フ・クェーンがこっちに来いって」
「飲みなさい。君たちの口に合うようにしておいた」
素焼きの器に、白い液体が注がれた。おそるおそる口をつけると、さっぱりとした酸味の中に、キイチゴのような果実の甘みを感じた。
(ヨーグルトだ。おいしい)
強張っていた心もいささかほぐれた。
「まだある。私たちも飲んで待つ。彼が来るまで時間がかかりそうだ」
「彼?」
「どうやら人のようだった。名前もある」
フ・クェーンは立ち上がり、荒野に体を向けた。
「彼の名は……」
その口から、およそ人間の喉から発せられるものとは思えない「声」が出た。
「p……n……」
炎が燃え上がる音に似た、不思議な「声」。つぶやきのように発せられたはずのそれが、轟いた。
(エル……? いや、ペリュ……? ニ……二ス……?)
どのような言葉に変えて、口に出していいか分からない。
それは、決して大きな音ではないはずなのに、カミロの魂と、大気と大地の何かを震わせ、はるか彼方のモンゴ山にまで届くのではないかと思うほどの響きを感じさせた。
そしてカミロの頭に、一人の男の姿が浮かんだ。
「え……?」
しかしその姿は一瞬で消えた。そして、思い出すこともできなくなっていた。
エドゥもボレア親子も、イェハチらマー族たちも目を丸くしていた。
「私が待つ、彼の名だ。実は君に頼みがある」
「え……?」
カミロは思わず身構えた。
「君の家は宿屋だそうだな。彼が、君たちの町に行くようなら、このイェハチとともに、君の宿で世話をしてほしい」
それにはイェハチも意表を突かれた顔をした。
フ・クェーンは、厳かに言葉を続ける。
「これはおそらく、定められたことなのだ。君と私が、今日出会ったことも」
そして彼は、視線を荒野に戻した。
フ・クェーンの視線を追い、カミロも荒野を見た。
そして、疎林の間に、こちらに向かう小さな影を確かに見た。それは一度木々の影に隠れたが、すぐにまた、姿を現す。
(牛……? いや……)
毛が長く角も体も大きな牛がまず見えた。そしてその横に、杖を持った人間が寄り添っている。
カミロの伯父やボレア親子、エドゥもカミロの近くに寄り、その姿を見た。
「なんだあいつ、一体どこから……」
カミロの伯父がもらした。ツァン以外の者がこの地を旅することなど、ほとんどない。
皆、黙ってその姿を追う中、フ・クェーンは悠然と喉を潤していた。
そして視界を遮るもののない黄色い草地を歩み、カミロ達の待つ丘陵のふもとで、彼は足を止めた。