星の護り③ ペリューンの祝福
「だが、まだだ」
怪物を囲む海の壁の上、ショールは船の縁に立ち、焦げてうめくキメラを見つめ、つぶやく。
白い炎の神獣は、小山ほどの巨体から縮んだが、それでも帆柱の先端に達するほどの大きさをもって彼を包む。
「イェハチ、槍を」
「え……?」
突然声を掛けられ、イェハチは戸惑う。
「君の槍を掲げるんだ」
神獣の頭は、少年を見下ろしていた。
「……」
イェハチは、何かに背中を押された気がした。ショールでも、その神獣でもなく、
(父さま……)
そして、槍を掲げた。
少年に向け、神獣は包み込むように両手をかざした。
ショールは少年に告げる。
「終わらせるのは、この地に生きる者でなくてはならない。フ・クェーンでもない。彼は守護者であるが、過ぎ去った者であろうともしている。だからこの幕引きを、未来ある人間に託そうとしている」
神獣の炎が激しく散っていき、その形が崩れる。同時に、イェハチの槍が白い輝きに包まれ、その穂の中心に、深い赤の粒子が、輝きながら集ってゆく。
キメラは後ろ半身を全て失い、ヒレも焼け失せ、甲冑のごとき皮膚にもひびが走って黒煙を上げていた。
それでもキメラは、身を起こそうとする。そして、それを囲う海の断崖から、肉塊の化け物たちが次々と現れた。
おそらく、食うためにキメラに呼ばれたのだ。
「たとえ魔術がなくとも、怨念は何度でも蘇ろうとする。だから、あれを打ち払い、とらわれの魂を鎮められるのは、その犠牲になった人々を知り、彼らのために怒り、心から悲しむことのできる者だけだ。今ここに、それは君しかいない」
ショールの言葉が止んだ時には、白い炎は消え失せ、鏡は彼の手に戻る。
そしてイェハチの槍は、生まれ変わっていた。
その槍は、形を大きく変えたわけではない。
だが、骨の穂先は磨き抜かれた象牙のようで、かつ鋼鉄を超えた強靭さと鋭さを思わせる輝きがある。木を削って作った柄も艶やかに光り、穂の近くに施した黄と赤の縞模様も鮮やかになっていた。材質に変わりはないはずなのに、手に持つ感触だけで、たとえ巨象の一撃でも受け止める強さとしなやかさを感じる。
そして、穂の根元にはめ込まれた黒曜石のほかに、葉型の穂の中央にも深い赤の黒曜石が埋め込まれていた。炭火のように静かに、かつ消えることなく燃える、大いなる炎の力を感じる。
イェハチは夜空に向けて槍を掲げ、念じる。
ふたつの黒曜石が赤く光る。その光に、火の山脈に通じる力を、イェハチは感じた。そしてその力に共鳴する、はるか彼方から自分を見守るモンゴ山の意思。それは少年の心に、勇気と使命感を沸き上がらせた。
授けられた力の使い方が分かる。自分の体と心が、槍の力とひとつになっているのを感じた。
その槍の光を見た港の人々も、大いなる力と使命が、ひとりの少年に与えられたことを感じる。
「おお……、ペリューンの祝福を受けたというのか!」
「海神デイニスよ、火の山の精霊、英霊たちよ……!」
双眼鏡でその姿を眺めて声を上げる老提督の横で、総督も祈りの言葉を漏らす。
「ああ、兄上よ、イェハチが……!」
頭に包帯を巻かれながら身を起こす少年の叔父も、それを見守っていた。
光を収め、その槍を手に船の舳先に立つイェハチに、ショールは語りかける。
「私も力を貸そう」
キメラを睨んだままうなずくイェハチは、多くの死霊たちもまた、自分を導こうとしていることを感じた。
そして、
(父さま……)
父の意思も感じる。槍を持つ自分の手に、父の手が重なっている気がした。
イェハチは跳んだ。船べりを蹴り、海の断崖のその下に向けて。
ショールの杖が伸び、少年を捕らえ、そして導く。キメラの元へと。
イェハチは両手で頭上に槍を構え、雄たけびを上げ、導きのままにそこに飛ぶ。
キメラが力を振り絞り、鮫の大あごで迎え撃とうとするが、何かがそれを邪魔する。
イェハチの脳裏に、リク族のまじない師の顔が浮かんだ。その顔に、父を殺した鮫の姿が重なる。彼は、申し訳なさそうに眉を歪めてイェハチを見つめている。
(許すよ)
哀れみとともに心でつぶやく。父も彼を恨んでなどいない。彼も被害者に過ぎない。裁くべきものは別にある。許しを得た魔術師の顔は、ほろ苦い笑みを浮かべて消える。そして、彼の意思が他の多くの霊魂たちとともに、キメラの頭を押さえつけるのを、イェハチは感じた。
無念に死んだ霊魂たちには、手離しがたい怨念がある。それを尻尾のごとく捕らえられ、狂った女王の薬が悪意を膨れ上がらせる。そしてこの怪物に惹き寄せられ、操られる。
それでも人の心は悪意のみで成り立たない。苦しむ霊魂は怨念から分離して助けを求める。
霊魂たちは、その残された力の全てで少年を導き、キメラの動きを止めようとしている。
イェハチはキメラに宿る者に怒り、そして霊たちを哀れむ。全てを心で感じ取った。この怪物に宿る悪意を討ち、怨念を祓い清めて、捕らわれた魂を開放する。そのために槍の力を振るう。
槍の黒曜石から、海の彼方まで届くような赤い輝きが走る。そして炎が上がる。その鮮やかな赤い炎は、ルビーを散らしたかのような火花の尾を引く。
燃える穂先が、キメラの頭に突き立てられた。
炎が爆ぜた。
槍はキメラの固く厚い皮膚をたやすく貫き、そして魔力を開放した。怪物の口、目、鼻、エラ、傷口から炎が噴き出され、直後にその皮膚が爆散する。
その炎の波は四方に広がって、群れ集おうとする肉塊の化け物たちをも残らず焼き祓う。
炎の輝きの中、イェハチは見た。
(父さま)
父の姿だ。微笑んでいた。
(火の山の頂で、見守っている)
父の笑顔。滅多に見せなかった父の笑顔。力強い微笑みだった。
そして父は、笑顔のまま、息子に背を向ける。
(さようなら、父さま)
マーの男は泣かない。
イェハチはこらえるように目を閉じた。
絡みつくショールの杖が、少年を引き戻す。
キメラは今度こそ動きを止め、残った体は炎の中で、灰となって崩れ行こうとしていた。
「ああ……」
フ・クェーンは嘆息する。
そこから立ち昇っていく霊魂たちを、彼は見ていた。
「無念に死んだ同胞たちは、今こそ、山脈の王のもとへ旅立った」
海底の、さらにその下へと沈んでいく霊魂も感じる。その多くはモンゴ山にも海の神にも拒絶され、地の底に座す慈悲深き冥神の元にすらたどり着けまい。冥府に向かう途上で悪徳の灯に惹きよせられて、悪神が苦しむ地獄に迷い込むだろう。
海の壁は崩れ、赤と黒の塊となって崩れる怪物を、水煙を上げながら覆っていく。
「これで私の役目は終わった」
ゆっくりと、元の姿に戻りゆく海を見ながら、ショールはつぶやく。
そして少年たちを見る。
「ボレア氏に迎えを頼もう。これで君たちも家に帰れる。しばらく騒がしくなるかもしれないが」
言われて、カミロは一気に気が抜け、そして膝から崩れてしまった。
「大丈夫かい?」
「う、うん、ごめん……」
イェハチに助け起こされる。
「無理もない。長い一日だったろう」
ショールは相変わらずの平坦な、それでどこか穏やかな口調で言った。
そして彼の視線が動く。島船に。
「さて、迎えが来る前に、私は行くところがあるが、君たちはどうする?」
カミロもイェハチも、彼がどこに行こうとしているのか、分かっている。
島船へ。