霧が出た日②
港に戻ってきた下半身のない遺体は、厚い麻布に覆われていた。
息子の前で、顔だけは見えるように、布がめくられた。勇者の死に顔は、とても穏やかなものだった。
マーの男は泣かない。イェハチは、拳を握って押し黙り、ただ強い目で物言わぬ父を見つめ続けていた。
「おお、すまねえ、許してくれ……」
その横で、壮年の漁師がひざまずき、泣きに泣いていた。自分を助けるためにイェハチの父は死んだのだと、彼は繰り返していた。
イェハチの父は勇敢に戦った。舳先に立って火を噴く槍を振るい、ついに乗っていた船に大穴を開けられても、その船の仲間のため、最後尾で動けなくなった漁船を守るため、戦い続けた。
あと少しで増援が到着するところで、海に投げ出された漁師を助けるため、自ら海に飛び込み……。
イェハチはその全てを、マー族の鷹のごとき目で、岸から見届けていた。
日が中天に登りきる前に、イェハチの家族親族たちが集まり、町の人々もやってきた。
やがて日が傾き水平線目指して落ち行くころ、葬列は町を出た。
アマーリロの門を出て、農道の緩い坂を上り、道の終わり。東の荒野の入り口にたどり着く。
石積の上に、布をかけた遺体が置かれた。そして人々は最後の別れをする。
父とともに同行したカミロが驚いたことに、町の長たる総督と、その息子たちまで姿を見せていた。
「お悔やみを」
総督は、イェハチの母をはじめとする故人の三人の妻をなぐさめ、イェハチの叔父らとも言葉を交わし、最後にイェハチの肩に手を置いた。
その時、町の人々にとって驚くべき来訪者が現れた。
「フ・クェーン!」
マー族の一人が叫び、皆が一斉に東の荒野を見た。
闇が深まる東。まばらな木々の間に、火の玉のようなものが浮かんでいるのが見えた。
近づいてきてはっきり見えたのは、全身をゆったり覆う衣をまとう、ツァン諸族の老人だった。火の玉のように見えたのは、彼が持つ杖にぶら下がる黒曜石が発する、火と光の魔法だ。
そして彼を守るように、大きな二匹のハイエナが、その左右に従っていた。
「あれが、フ・クェーン」
カミロの後ろから感嘆の声が出た。先々月くらいからツァン諸族の調査に来ている、学者先生だった。
その来訪者は傷と汚れを積み重ねた、暗い赤の衣を身につけている。それはまるで、はるか古代の苦行者を思わせるものだった。
頭髪も髭も短く白い。細身の老人であり、一見するとみすぼらしく、荒野の風に吹かれれば彼方まで飛んでいきそうにも見える。
しかしその歩みは力強く、半眼は鋭く、その瞳の奥に強い光がある。黒い肌に深く刻まれた皺も、古き英雄の厳格さを表すかのようだった。
火を噴くモンゴ山の大祭司にして、ツァン諸族をまとめた大首長。三百年を超えて生きる、この地の守護者にして調停者。
「本物か? 俺も見たことがないぞ」
「いや間違いない。俺はガキの頃に見たことがあるが、不思議と覚えている。なんというか、あの威圧感というか風格って言うのか……」
「しかしフ・クェーンが戻ってくるとは、一体何が起きてるってんだ? ここ三十年くらい、モンゴ山にこもっていたんだろう?」
カミロの周囲で、町の人々はささやきを交わした。その一方、総督たちやイェハチの集落の長老たちが、慌てたようにその来訪者を迎えに出ていた。
そこで交わされる会話は、カミロの耳には届かない。ややあって、その老人は、総督たちにうなずき、イェハチの前に出ると、その肩に手を置き、言葉をかけた。
そして老人は、集まった人々に体を向けた。
「私が送ろう」
そう言って、老人は遺体袋に置かれた黒曜石を手に取り、夕闇に溶けたモンゴ山に向けてかかげ、遺体のかたわらに置いた。
老人が遺体から離れると、黒曜石は突然炎を噴き上げた。それは遺体を焼くわけではなく、赤い火柱とともに煙を立ち上らせ、煙は黒に染まりかけた空に溶けてゆく。
マー族は無言でそれを見守り、町の人々は、それぞれの神と、慈悲深き冥府の神カーツの名を唱え、故人の安息を願った。
「先生、これが彼らの葬儀ですか?」
カミロの後ろで祈りを終えた学者先生に、その弟子が小声で尋ねた。
「うむ……」
葬祭のあり方は千差万別だ。マー族は、勇者の遺骸を荒野で葬る。
炎は荒野に生きる獣たちに勇者の死を伝える。残された体は獣たちの血肉となり、この大地に還る。明日にもこの遺骸は、跡形もなく消え失せるだろう。
一方で、戦士が武器にはめる黒曜石の魔力は、主の魂を煙に乗せ、逝くべき所に導く。炎の産みの親、横たわる「山脈の王」、モンゴ山へ。
人々は煙をなぞるように夜空を見上げた。海から風が吹く。
夕闇の中でも分かる。立ち上る煙はモンゴ山に向かって流れてゆくだろう。イェハチの父の魂を導きながら。
東から姿を現す星々を見上げ、カミロはふと、自分たち「十神教」に伝わる神話のことを思った。
(『名も忘れられた時の神』の娘にして『運命の女神』タラは、自らの髪で織物を作り、夜空とした。織物には髪飾りもそのまま織り込み、それは夜空を彩る星となった)
すべてはタラの織物のままに。王の悲劇も、羽虫のはばたきも。
運命の女神に織られた夜空はこの世のすべての定めを写す。あらゆることは織物の糸のように、他のあらゆる物事に繋がっていき、川が流れる如く、留まることなく次へ次へと続いていく。
それなら今日の悲しい出来事も、すべて定められたことなのだろうか。何か意味のあることなのだろうか。
そんなことを考えた、その時だった。
(霧……?)
海から吹く風と共に、霧が出た。それは夕闇の中でもはっきりわかるほど濃く、ゆっくりと、しかし止まることなく流れ、そして、人々のざわめきが大きくなり始めるころ、すっと消えた。
ほどなく、町の方が騒がしくなった。何事かと思っていると、町から馬蹄の音が響いた。
「そ、総督閣下!」
衛兵がひとり、駆けつけてきた。
「う、海に城が……!」
総督の前で下馬するなり、そんなことをわめいた。
「おい、落ち着け。意味が分からん。海に城がなんだって?」
「で、ですから、突然海に城が……」
その横を、フ・クェーンは二匹のハイエナを従えて悠然と歩き、総督も衛士も、町の人たちも、自然とその姿を目で追った。
フ・クェーンは、すぐ近くにある物見の丘を登り始めた。人々も、まるで糸で引かれるかのように、その後についていった。
そして丘の上で彼らは見た。
「海に、城……?」
海の残照を背景に、霧を衣のように纏って海に浮かぶ、大きな城のシルエット。断崖に囲まれている様は、島ともいうべきか。
「島船……」
誰かがつぶやいた。
それが、アマーリロ湾の沖合に、ぽこりと現れていた。
「なあ、あんなもの、あったか?」
「いや……、あるわけねえだろ、あるわけ……」
皆、唖然としている中、フ・クェーンがつぶやいた。
「星の影」
それは不思議と、その場にいる全員の耳に届いた。
翌朝、陽の光の下、町の人々は島船の姿を見る。
絶壁の断崖の上に、無骨な城壁と無骨な城。華美な尖塔や飾った柱のようなものはなく、石を積み上げただけのような、倉庫か工場のように角ばった建物が二、三あるばかり。
総督による調査の手が伸びたが、霧を纏う不思議な島に、それが届くことはなかった。
島船に船で近づいた者の話では、突然霧に巻かれ、一寸先も見えなくなり、気づけば反対側に出てしまったとのことだった。
多少魔法に自信がある者もだめだった。道しるべや位置把握などの魔法や道具の類はすべて、霧の中で無効化されてしまったそうだ。
アマーリロで唯一の飛行魔法の機具も用いられた。が、何もないように見えた空の上で、突然発生した霧に飲み込まれ、人々の目の前で消えた……、かと思いきや、島船をはさんだ反対側に、これも突然、霧とともに現れた。
結局アマーリロの人々は調査をあきらめた。
島船は、特に何をするわけでもなく、湾の真ん中で、静かに佇み続けた。
まるで、何かを待っているかのように。