道中夜話③ アブロヌ王、ベラ女王の怨念
かつて……、アッカリアの奥地、不毛の大地をさまよう小さな騎馬部族に生を受け、やがて魔王の化身とまで呼ばれるようになった、狂気の男がいた。
その名はアブロヌ。辺境から燎原の火のごとく暴力と悪意を燃え広がらせ、小国を次々に焼き払い、当時世界最大の強国だったアッカリアのファルス朝をも滅ぼした。
そして国々が秘匿した破滅の技術を奪い、傍らに魔女を侍らせ、悪夢の兵器を次々に生み出しては、神出鬼没の騎馬軍団にそれを持たせて、世界を恐怖の底に陥れた。
「あの王の軍勢がここに押し寄せたのは、初代様が長子にその跡を譲ろうとした時のことだった」
衛兵の長が、細い目の中に深い光を宿し、重い声色で、まるで見てきたかのように語り始めた。
「奴らは突然、海から押し寄せた。一度目は海で追い返したが、報復は速やかで苛烈だった。奴らは『アブロヌの火』を放ち、アマーリロの湾内に茸雲が立った」
「アブロヌの火……。一撃で都市を破壊し、魔法の毒をばらまく、悪神の爆弾か」
火の灯りを受けるマウロの顔に影が落ちる。
「初代様は幼い末子以外、全ての家族を失った。フ・クェーンもイァン族を率いて戦ったが、アブロヌの火によって一族の多くが失われ、生き残った者たちも、火の毒によって子をなす力を奪われたという」
そしてイァン族は滅びの道を辿り、長き時を生きるフ・クェーンが唯一の生き残りになった。
「多くの勇者が失われたが、それでも残された人々は団結し、荒野の奥地に奴らをおびき寄せ、獣や虫たちの力も借りて撃破した。だが、いずれまた奴らが押し寄せると危惧した初代様とフ・クェーンは、殺された者たちの復讐のためにもと、海を越え、打って出ることにした」
彼らはアブロヌの軍勢に蹂躙されるチエロニアに加勢し、多大な戦果を上げた。そのまま国々をまたいで転戦し、ヨレンの若き「義勇王」、テルセウス一世が率いる連合軍に合流し、その最後の戦いにも参戦した。
「ヨレンか」
衛兵の一人がつぶやき、ショールを見る。この男もヨレンの学者だ。奇縁を感じなくもない。
初代アマーリロ領主が叙爵され、この地の長と正式に認められたのは、実はその後のことで、それまではアマーリロの町は公的に認められたものではなかったそうだ。
そしてフ・クェーンはチエロニア王により、王家の友と呼ばれるようになり、ツァン諸族の生きる土地は彼が治めるものとされた。
「アブロヌ王の名は、今でも子供を脅すときに使われる」
少々軽い口調で言ったイェハチの叔父だが、マウロは真剣な顔でたしなめた。
「やめたほうがいい。今年で世界暦196年……。あの魔王が破れて200年近く経ったが、今でも、その残党は世界中に潜んでいる。我らの国では、その名を口にすることも憚られている」
「そうなのか?」
そこに、海兵の長も重々しく言う。
「『アブロヌの息子たち』……、つまり、あの王の信奉者は今なお、暗き魔術の結社を組織し、かの王が打ち倒されたホルタンの地に隠れ、死霊術をもってその復活を願っているという。あの王を支えた魔女も、いまだに生きていると囁かれている」
「……」
勇敢なマーの戦士たちが、怖気を振るった顔をした。
「かの王の黄泉帰りなど、考えるだけで恐ろしいことだが、そうでなくともあの魔王は、おぞましい遺産を数多く世に残した。あの鮫にも関わる薬物、レッド・ベラもそうだ」
「それほど危険な薬なのか」
マーの男の言葉に、海兵の長はうなずいた。
「アヘンに似て強い多幸感を与えると同時に高い依存性があるというが……。あれの恐ろしさはまず、人間から善悪の区別を失わせることにある」
「どういうことだ?」
「脳がやられるそうなんだが、自制心……我慢する心がなくなり、罪を感じる心もなくなり、衝動的、暴力的にもなる。善良だった人間が、善良そうな見た目のまま、笑顔で親兄弟を刺し殺したという話も聞く」
平時でも機械のように人を殺し、禁断症状に陥った者は心身を苦痛に蝕まれ、文字通り狂戦士のようになるという。
「アブロヌの魔女は、それに死霊術の要素を加えた。レッド・ベラが何よりも恐ろしいのは、常用して完全に依存するようになった人間を、意のままに操る魔術が存在すること……。いやむしろ、そのために作られた薬という点だ。さらに……」
この薬で狂った人間が子をなした場合、その子も生まれながらにして心に異常を抱え、魔術によって簡単に操ることもできるのだという。
「それによりかの魔王は、レッド・ベラで敵味方の優秀な者を狂わせ、その者に女を犯させ、そして生まれた子を、あらゆる残酷な命令をためらいなく実行する狂戦士へと仕立て上げようとした」
「おぞましい話だ……」
「そのおぞましい薬とその原料は、例えいかなる用途としても用いることを許されていないが、それでもなお、世界の闇の中で出回っている。人を操る薬としてな」
「この花が材料だ」
衛兵隊の魔術士が、マー族に一枚の写し絵を差し出した。
「血涙草という。寄生植物で、他の木の根元から生える」
「これも不吉な名だ」
スズラン似た真っ赤な花が、頭を垂らす茎の先端に、四つ並んで垂れている。横からでは雌しべや雄しべも見えず、つぼみか、あるいは果実にも見えるが、咲いた花なのだという。その色形は、確かに血の雫を思わせる。
葉っぱは笹のように細長く、薄緑の中に、細い紅色の筋が走っているが、それもまるで血管のように枝分かれしていた。
「この植物は現地人から『軍隊アリの草』などと呼ばれている。花の蜜で蜂や蟻を引き寄せ、自身を守らせるほか、寄生先の植物の根元に種子を運ばせたりもするんだそうだ。これは自然界によくある共生関係の一種と考えられていたが、今では花が魔術的要素も用いて虫を操っていることが分かっている」
「虫と花……」
マーの戦士たちが、気づいたようにショールを見たが、
「いや、私のこれは血涙草とは関係ないぞ」
ショールは衣と琥珀をそれぞれ指さして言った。
「とにかく、魔力を有する植物というのは多々あるが、植物そのものが魔法を用いるという事例は珍しいものだった。ところが血涙草の研究が進むと、こいつに寄生されまいと、同じように虫を操ったりして対抗する樹木が見つかったりしてな。これの原産地では、魔法を使う植物が次々に発見されている」
マーの戦士たちはその写しを見つめながら唸った。
衛兵は続ける。
「これが定着する条件として、気候のほか、奴隷にできる虫がいるかどうかもあるそうだ。もし条件がそろえば、敵のいない土地では爆発的に増えると言われている」
本来は、南アルカノ新大陸の山地で、ハーブや気付け薬の材料として用いられていたというが、一方で、人の精神に作用することも知られていたらしく、臆病者を狂戦士に変える、懲罰と救済の薬にも使われていたという。
それがいかにして恐ろしい麻薬になったか。
「北ローレアの小国で、『血まみれベラ』という女王が作ったと聞いたが」
衛兵の一人が言うと、ホーレスが訂正する。
「ベラ女王は確かに薬に狂ったが、作ってはいない。彼女に血涙草の薬を薦めたのは隣国の王だ。ベラ女王の持つ港を欲しがって、彼女を狂わせるために錬金術士を雇い、薬を作らせた」
その後、目論見通りに女王は狂い、国は乱れ、そして滅んだ。港町も隣国のものとなった。が、女王を狂わせた薬は、すでに巷間に流れ出て、港はそれによって腐っていた。
女王を狂わせた国も、自ら撒いた薬に蝕まれた。その後ほどなく現れたアブロヌ王によって、王も国土も港も、全て蹂躙され、滅んだという。
「そして血涙草はアブロヌ王の目にとまり、その魔女の手によって『ベラ女王の怨念』……、レッド・ベラとなった」
あまり気持ちの良い話ではなく、語るホーレスの顔も、どこか仄暗い。
そこで、それまで黙っていたショールも口を開いた。
「レッド・ベラの中毒者は、人間の善性をすべて失い、死後もあらゆる神に拒絶され、安息の地である冥府にもたどり着けずに地獄に迷い込むと言う。だが、港で戦ったあの鮫は、死に際して確かに安らぎを得ていた。あの薬は人から何かを『欠けさせる』というが、本当は『縛る』ものなのだろうな」
イェハチの叔父は嘆息する。
「それなら、死後の安らぎだけは得られるのだな」
「私の知る限り、それだけがあの薬に捕らわれた者の救済だ。だからあれは、忌むべき魔王の遺産なんだ」
翌朝、日が出るころに身支度を整え、暑くなる前に出立した。
木々は密度を増し、土の地肌も目立たなくなる。
「わが帝国にもありそうな風景になった」
ホーレスがつぶやく。
「こっちに」
マーの戦士らは、少々傾斜の厳しい丘に案内した。
「ここから森がよく見える」
丘の上から行く先を眺めると、木々の海、まさに樹海が広がっていた。濃い緑が、かすむ彼方まで広がっていく。
マウロがその風景に目を細める。
「確か、この森は大陸を横断していたな」
「ああ、南北の長さも、チエロニア本国をそのまま飲み込めるほどだと聞いている」
衛兵の長が重く言う。
「しかし、ここからどうやってバルカ族を探すのか……」
彼らは狩猟採集民で、決まった場所に定住することなく、森の中を移動しながら暮らしているという。
「それは大丈夫だ。向こうはもう、気づいている」
つぶやくショールに、全員が目をやった。
彼は森の手前を杖で指した。
「象……?」
木々の間に隠れながら、二匹の象がこちらを見ていた。
象たちはゆっくりと動き出し、その姿をはっきりとさらし、そして、向かって右手、西の方角に、草をかき分け歩いていく。
速足で丘を降りてその後を追うと、象たちは遠くからこちらを眺めていた。
そして誘うように、西へと向かう。
衛兵の長は顎に手を当てた。
「バルカの呪術師は動物を操るというが……」
「そして象は、大地を通して千里の先も知る、か……」
ほどなく海が見え、波打つ岸壁の上に達した。象たちは、断崖と森の間の緑の草地を歩き、そして緩い丘陵を登り、再び森に向かう。
ショールらが丘の頂近くに来た時に、異変は起きた。
「なんだ……」
周囲の草地から、無数のものの気配がした。
立ち止まり、あたりを見回すと、羽虫が一斉に飛び立った。
「吸血バエだ!」
威圧するかのように波打つ羽音を響かせ、黒煙のごとく空を覆い太陽すら陰らす。ハエの群れは、ショールらを取り囲み、渦のように周囲を飛び回った。
象の姿は、いつの間にか消えている。
「罠か!?」
衛兵と海兵の魔術士が、腰の短杖に手をかけたが、
「待て」
ショールに止められた。
「バルカの魔術士だろうか?」
マウロも緊迫した表情でショールに問いかける、
「誰何されている。お前たちは何者なのかと」
ショールは背負う荷物の中から、赤みのある黒い石を取り出した。フ・クェーンから譲られた黒曜石だ。
それを掲げると、ハエの群れの威嚇するような勢いは弱まり、包囲も緩くなる。
ショールは森に向けて歩を進め、立ち止まった。そしてわずかに開いた口から、人間のものでない「声」を発した。
「f……q……」
その声が響いたとき、その場にいた者の脳裏に映ったのは、火の川の中州にひとり佇む、フ・クェーンの姿だった。
ハエたちは霧散していった。
「フ・クェーンの使い、か?」
一行の耳に、今度は確かな人の声、流暢とは言えないが、確かにチエロニアの言葉が聞こえた。
声の聞こえた先を見ると、すぐ近くに生えている一本の木の上で、木の葉の間に隠れるように豹が伏せ、こちらを眺めていた。
豹は枝の上に立ち、しなやかに草地に降りる。そして、森に向かってゆっくりと歩み、そして止まる。振り返った顔は、ついて来いと言っているようだった。
ショールらは無言でその後を追う。
密林の入り口で、その豹は足を止め、こちらに体を向け、座り込んだ。
その豹の傍らの木から、一人の男が現れる。
「もう一度、聞く。フ・クェーンの使い、か?」
固い発音だった。
子供のように背の低い、黒い肌の男だ。この大陸の先住民を描く絵にありがちな、半裸同然の姿をしている。草や動物の皮で作ったらしき腰布のほかは、首飾りくらいしか身に着けていない。
「ショール・クランという。フ・クェーンの依頼で、人狩りにさらわれた人々を追っている。バルカの民が助けを求めているとも聞いた」
男はうなずいた。
「待っていた」
豹はその男の足に頬をこすりつけ、森の中に入っていった。