海と炎の戦士たち③
ショールは鎖でぶら下げた鏡に鮫の姿を写すように、すっと、前に掲げた。
その鏡の中の白い曇りが晴れ、鮫と、それが纏う水の魔法を写した。
その時、鮫が白く輝いた。
「な、何だ!」
鮫の体から水流が霧散した。代わりに、白く半透明な、炎のようなものが、鮫の体から広がった。
エドゥらは最初、鮫が何らかの魔法を使ったのかと思った。しかし違った。
その白い光は瞬く間に消え、入れ替わるようにショールの持つ鏡から、同じ白い炎があふれ出した。まるでクラゲのように半透明なそれは、船をも飲み込み広がった。
その炎は、人も物もすり抜け、触れることもできなければ、熱のようなものも感じない。実体のない幻のようだった。それでも人間の持つ五感以外の感覚によって、その強い力をエドゥらは感じ取った。
「セニョール、こいつは一体……!」
エドゥのその言葉に返事はなく、代わりにショールの口から、人間のものとは思えない「声」が出た。
「r……k……」
それは、遠くで稲妻が鳴るような、地鳴りのような、巨大な何かがうごめくような、そんな「声」だった。
(こいつは……)
エドゥには覚えがある。イェハチの叔父もだ。初めてこの男と出会ったあの日、フ・クェーンが荒野に向けて放った「声」に似た轟き。
たゆたう白い炎が、突然渦を巻いて収束し始めた。火花のような、花びらのようなものを激しく散らせながら、鏡を中心に燃え上がる。
そして鏡は、白い炎の中心にあって、黒いうろとなり、赤と青の無数の光の粒を放つ。その粒子は円を描いて波を打つ。
エドゥからは見えないが、正面から見たその波は、黒の瞳孔と青の光彩、赤の縁を持つ、人間の瞳のような形を作っていた。
『q……h……!』
そしてその「瞳」から、ショールが発したのと同じ「声」が、より強く、稲妻のように発せられ、湾へ、荒野へと轟いた。
白い炎がはじけ、無数の花びらとなって散った。
それと同時に、戸惑う鮫に、陽炎のような、色のない力が襲い掛かった。その力は空間を無視して、鮫そのものから発動した。
ショールの杖が伸びた。錯乱し、海面に顔を出した鮫の口の中に入り込み、そして、エラを突き抜けて軌道を変え、再び口の中へ入り、鮫を捕らえた。
「このまま港へ」
「何だって!?」
ショールの言葉に、エドゥは面食らった。その時には、白い炎は完全に消え去っていた。
「奴から重さを消した。奴は今、その辺の小魚程度の重量しかない」
「はぁ!?」
「時間はない。あの程度の『火』では、せいぜい5分程度だ。その間に奴を陸に引き上げ、心臓を刺す。それで終わりだ」
その言葉が聞こえたのか、鮫は狂ったように頭を振り、船に向かってきた。イェハチの叔父が反射的に槍を構えた。
「突くな、殴れ」
杖を戻しながらのショールの言葉に、イェハチの叔父は逆袈裟に槍を振り上げた。
その咄嗟の一撃は、大口を開けて船ごとかみ砕こうとする鮫の上あごに当たる。
そして鮫は飛んだ。
引っかかるように当たったそのひと振りだったが、鮫の巨体は飛沫の尾を引きながら、冗談のように空高く飛んで行った。
「…………!?」
エドゥたち、港の人々、軍艦の水兵たちに、殴った本人ですら唖然とした。
鮫はゴルフの玉のように空を舞って影を落とし、そして、港目掛けて飛んでいく。
「おいおいおい……」
高度を落とす鮫が迫るのは、カミロ一家やイェハチの家族らのすぐ近くだった。
「に、逃げろ!」
その場にいた人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ、しかし、足の悪い魚屋の親爺だけが逃げ遅れた。
気づいたカミロが悲鳴を上げた。
「ああっ、おっちゃん!」
「うおお、くそったれ!」
その親爺の上に、鮫が落ちた。
「…………」
皆、親爺の悲劇に声もなかったが、
「なんだこりゃあ、綿みたいに軽いぞ」
その親爺が、軽々と鮫を持ち上げたものだから、そろって後ずさった。
そこにエドゥの声が、拡声器を通して響く。
『そいつが軽いのは魔法の効果だ! 5分しか持たねえ! その間にそいつの心臓をぶっ刺すんだ!』
唖然としていた港の人々が、その言葉で目が覚めたように一斉に動いた。
「銛だ、銛持ってこい!」
鮫を放り投げた親爺が叫ぶ間もなく、槍を持った兵たちが駆けてきた。何人かの漁師も銛や手作りの槍を持って駆けつけ、それ以外にも角材や棒など持った人々が押し寄せたが、
「…………!」
その騒ぎで目を覚ましたのか、それまで身動きしなかった鮫が突然跳ね出した。
「この野郎!」
咄嗟に何人かが抑えると、重さを失った鮫は身動きかなわなくなったが、代わりにガラスを傷つけるような甲高い声を上げた。
すると、それまで漁船らに追い立てられていた、鮫たちの位置を示す蜂の群れが、一斉に港へ向かった。
「いかん!」
エドゥらの船は、慌ててその後を追う。
鮫の声に怯んだ港の人々も、迫る鮫たちに気づき、悲鳴が上がり、岸に近い者から逃げまどい始めた。
だが、その時、赤い光が港の人々を照らした。
突然、彼らの目の前に炎が広がった。それはまさに、炎の壁だった。
その壁は、一陣の風のように、海を目指し、港を駆けた。その炎と熱は港の建物を避け、人々の間をすり抜ける。ただし、大鮫の巨体のみは容赦なく焼かれ、鮫は悲鳴とともに跳ねた。
そして炎の壁は海へ抜け、迫る鮫たちを示す蜂の群れに達すると、海面に火柱を上げて爆ぜた。炎が爆ぜるや鮫たちの体は海上に吹き飛び、水しぶきすら瞬く間に煙となって散った。
炎の壁はそのまま駆けて、エドゥらの船を避け、軍艦を避け、瞬く間に水平線の彼方へと広がりながら消えていった。
まさに、風ひとつ吹く間の出来事だった。
唖然としたエドゥらが港を見ると、人々が道を開けていた。そしてそこに現れたのは、小柄なツァンの老人だった。
「フ・クェーン……」
古き英雄は人々が開けた道を杖を鳴らし悠然と歩く。
その杖は、ごつごつとした木を枝をそのまま切って作ったかのようで、鉤型に曲がった先端から、黒曜石をぶら下げている。
その杖の黒曜石は、赤い光をゆっくりと収めていた。放った魔法の余韻か。
彼が歩く先には、横たわる大鮫。
大鮫は炎に包まれ、その身から次々と灰のようなものが飛んでは風の中に消え、体は見る見る縮んでいった。
鮫は縮みながら横たわっていたが、フ・クェーンがあと数歩の位置まで近づいたところで、突然大きく跳ね、襲い掛かってきた。
「あっ……」
皆が息をのむ中、フ・クェーンは、小さく左手を振った。
杖の黒曜石が輝き、鮫の下から巨大な火柱が立って、大鮫の巨体は真上に吹き飛んだ。
クレーンよりも高く飛んだその体が地面に叩きつけられたとき、重さが戻っていたのか、人々が転びそうになるほどの地響きが起きた。
鮫の体はさらに縮み、小舟よりかは大きい程度になり、その身の炎は消え、焦げた皮膚からは黒煙が立ち登っていた。
海でも、もはや生きた鮫の気配はなくなり、炎の壁の一撃を受けた鮫たちが、焦げてくすぶりながら浮かんでいた。
「火産みの山の大祭司、大いなる炎の魔術師……。まさしく」
カミロの横で、マウロ・ボレアが嘆息した。
初めて見る古き英雄の力に、皆、声も上げられなかった。
フ・クェーンは、動かなくなった大鮫の前にたたずみ、港の人々は、畏怖とともに、遠巻きにその姿を見ていた。
「ドン・フ・クェーン!」
そこに兵を引き連れ、金髪の青年が駆け付けた。エドゥの兄だ。
フ・クェーンは彼にうなずいた。
「今日の所はこれで終わりだろう」
そして、その場に近づいてくる船に目をやった。エドゥの兄も同じく目をやる。
「ドン・フ・クェーン……」
真っ先に船から降りてきたエドゥにもフ・クェーンはうなずいた。
「こいつめ、抜け駆けだぞ」
横から、エドゥの兄が進み出て、弟を小突き、そして抱擁を交わした。
それから兄弟はフ・クェーンの視線を追い、船から降りてきたショールに目をやった。
フ・クェーンが無言で進み出てくると、ショールはまだ濡れたままの外套のフードを外した。
エドゥら兄弟も含め、人々はいささかの恐れと警戒を込めた目で、沈黙とともにふたりを見守った。
喧騒が遠く聞こえる中、そこだけが静かだった。
フ・クェーンは口を開いた。
「あなたがいなければ、あのマーの子をはじめ、今日のこの時に、多くの命が失われていただろう。感謝する」
その言葉に、硬い空気をほぐすかのようなざわめきが起きた。
「あなたからは過ぎたご厚誼を受けた。この地でも世話になった人たちがいる。私の手で間に合う程度のことなら、できるかぎりのお返しはするつもりでいた」
それに対しフ・クェーンは、低く、力強く返した。
「あなたはそれ以上のことをしてくれた。私はイァン族の残された長として、呪術師として、山脈の王の名のもとにあなたに感謝を示し、そして改めて歓迎する。ありがとう、『東から来た人』よ」
人々のざわめきが大きくなった。ショールに向けられる目に警戒の色はなく、新たな心強い味方の登場を歓迎するものとなっていた。
「歓迎しよう、『星の影』よ」
ざわめきが歓迎の声に変わる中、フ・クェーンは呟くように言った。
明日、明後日と夜の七時と八時に更新する予定です。ペースは少し落とします。




