樹の護り、魚の護り、日の護り、獣の護り②
「なんかこいつらを倒せる武器はないの!?」
縦横無尽に動き回るショールに抱えられたまま、イェハチは叫んだ。
「ないな。そんなの持ってたら町で捕まる。そもそも私は荒事が嫌いなんだ。逃げ隠れする方が得意だ」
飛んできた鮫を横にかわしつつ、ショールは返した。この状況にあって、腹立たしいほど淡々としている。
「あの鮫たちが最初に使った魔法……。水をまとうやつな。あれは、人間には使わないのかな?」
「あんなの使わなくたって、牙だけで人間は殺せるし!」
「なるほど確かにその通りだ」
「それよりどうするの! このままじゃ挟み撃ちにされるか、流れ弾を食らっちゃう!」
イェハチは軍艦のほうを見ながら言った。
「よく見ているな。いい戦士だ」
「『東から来た人』!」
さすがに苛立って叫んだが、ふと気づいた。鮫からの襲撃がない。
いや、向かってくる鮫はいるが、その動きが鈍い。
「効いてきたな」
その一匹をゆるりとかわしながら、彼はつぶやいた。
見ると、その一匹だけでなく、海中の他の鮫も動きが鈍くなっている気配がした。
イェハチはショールを見上げた。
「何かやったの?」
「痺れ薬というやつだ」
ショールはしれっと言った。
「あんたの服に咲いた花の?」
「そう。作るのに時間がかかるし、本当なら効くのも時間がかかる。あれだけでかい生き物ならなおさらだ。しかしでかいだけに、大口開けたところに蜂の群れを突っ込ませるのはわけない。ましてあれだけ激しく動き回れば……」
しかしそのショールの視線の先に、鮫の横顔が現れた。またしても、目の上にただれた傷がある鮫だ。
イェハチは槍を握りなおした。
しかし鮫どもは、今度は口を開けて襲い掛かってはこなかった。
代わりに、金属を金属で引き裂くような、奇怪で甲高い声が、海から響いた。
「呪いの歌……」
イェハチは、力が抜けゆく腕に、必死の気合を振り起し、槍を握りなおした。
歯を食いしばりながら思考を保つと、自分たちの背後、軍艦の方から向かってくる鮫の気配も感じた。
だが、
「不用意だな」
ショールは低く言うと、腰の短刀に手をかけた。
そして、ほんの少し、ほんの少し刃が見える程度に抜いた。
抜いたその時の、かちりという小さな音が鮮明に耳に響き、赤みのある刀身が、陽光を反射して光った。
イェハチの体から嘘のように脱力感が消えた。そして、
「…………!?」
不快な歌は、ただちにそのまま、ただの甲高い悲鳴になった。
鮫たちはその頭を水上に突き出して反り返っていた。左目の上に傷がある鮫など、他の鮫に食らいつく勢いで、海面に水柱を立てながらのたうち回っていた。
イェハチは、驚いて目を見開いた。
「何をしたの!?」
「魔よけの刀だ。見えず、触れもできないものを断つ。今は呪いを断った。呪いを断てば、かけた者に相応の報いを返すことになる」
「そんなことができるの?」
「私にそういうことができる、というより、呪いとはそういうものなんだ。かける側にも大きな危険があるし、反撃の手段もいくらでもある。だから呪術者とか言われる者たちは、戦いにあってはもっと狡猾に立ち回るんだが……」
その時、聞こえるはずのない声が、耳ではなく頭に聞こえた。
(おのれ、おのれ魔法使いめ!)
怨嗟を込めた、低くおぞましい声だった。
はっとしたイェハチが見ると、目の上に傷のある鮫は、その傷から血を吹きながら海面に身をよじり、恐ろしく歪んだ表情でこちらを睨んでいる。
「鮫なら、口をきかん方がいいな」
ショールが冷淡に言った。声が聞こえたのは、どうやら気のせいではないらしい。
(殺してやる!)
「そいつは困る」
そのショールの後ろから、軍艦を襲っていた鮫たちが飛びかかってきた。
港の人々は悲鳴を上げた。
おぞましい声が頭に響いたと思ったら、ショールとイェハチが、それまでに倍する鮫たちに次々に覆われて、海の中に消えたように見えたからだ。
「ああ……」
腰を抜かしていたイェハチの母が気を失いそうになって、家族らが必死で声をかけた。
しかし皆、すぐに違和感を覚えた。一点めがけて次々に飛びかかった鮫たちが、背びれをうねらせながら散開していったのだ。
「なんだ……?」
苛立ったように、何かを探すように、鮫たちの背びれはさまよう。
「あっ!」
イェハチの弟が指をさした。その指先を追うと、軍船のすぐ横の海面が、出来物のように膨らんだ。
その水の玉の中から、彼らは現れた。
「隠れ蓑か!」
望遠鏡でそれを見たマウロが声を上げた。膨らんだ水に見えたものは、ショールの外套だった。波紋まで再現し、海と全く同じ色となっていたそれは、暗い灰色に戻る。
そしてショールは、「杖」を伸ばした。軍艦の船べり、その手すりに「杖」が巻き付いて、一息のうちに主を引き上げる。
ショールは杖を巻き付かせたまま手すりに取り付き、船べりに足をかけたが、ふたりの水兵に銃口を向けられた。
「待て!」
水兵たちの後ろから、鋭い声が飛んだ。
金の紐を垂らした赤い軍服に赤い軍帽、日に焼けた、岩のように厳つい顔の老人が歩いてきた。左右に士官らしき者たちが従っている。
ショールは手すりに捕まったまま、その老人に声をかけた。
「艦隊に重責ある方とお見受けする。この少年だけでも引き受けてもらえないか」
「わが艦隊は、助太刀の勇士を拒んだりはせぬ」
老人が目くばせすると、銃口を向けていた水兵たちが、すぐさまイェハチを引き上げてくれた。
「君も早く」
老人は船べりにしがみついたままのショールを急かした。
「いや、間に合わない」
船に衝撃が走った。立て続けに轟音が響き、船体が大きく揺れた。怒り狂った鮫たちが一斉に突撃してきたのだ。
「うわあ!」
イェハチや彼を助けた水兵、老人たちが、大きく傾いた船の上によろけて、危うく海に落ちそうになる。
ショールの「杖」は、主の手を離れて彼らに巻き付き、甲板のウインチに取り付いて、海への落下を防いだ。
しかしショールの手は船から離れ、その姿は鮫の待つ海へと落ちたかに見えた。
「『東から来た人』!」
すぐさま船体の傾斜が戻り、「杖」は主を追って海に伸びた。拘束の解けたイェハチも手すりに飛びつくように海を見た。
彼は海の上に立っていた。「杖」は、彼の手の中に杖として戻る。再び甲板に伸びるかと思いきや、彼の「杖」は左右に伸びて、海に落ちていた水兵や将校たちに巻き付いていた。
杖はそのままうねりを描きながら、彼らを甲板まで持ち上げた。
「こ、こいつはクラーケンの足か!?」
飛ぶように甲板まで運ばれながら、将校のひとりが叫んだ。
その間にも、一度軍艦から離れた鮫たちが、ショールにその牙を向けようと、背びれを翻してきた。
「危ない!」
イェハチが手すりを乗り越えようとするのを、水兵がふたりがかりで止めた。
だが、そんな鮫たち目がけて、横合いから一筋の炎が飛来した。
イェハチはそれを知っている。マー族の投げ槍だ。海面に水煙が爆ぜ、一匹の鮫が、火を噴く背中を海面でのけぞらせた。
さらに、鮫たちが戸惑いで背びれを揺らす中、喚声が轟く。
「チエロニアのために! アマーリロのために!」
鮫たちの側面をついて、小型の高速船が船尾から水を吹き出し突撃してきたのだ。
その舳先で怒りの雄たけびを震わすマーの戦士が、炎の槍を振り回す。炎は渦となり、その勢いのまま鮫の背に叩きつけられた。
「おじさん!」
戦士は、イェハチの叔父だった。
そして船は勢いを落とすことなく鮫たちの間を突き進み、船べりの衛兵たちは立て続けに銃を撃ち、爆雷を放り投げる。
水柱が立ち、鮫の血で海が染まってゆく。
その船には、
「鮫畜生ども、この時を待っていたぜ!」
礼服の上着を脱ぎ捨て銃を手にした、エドゥの姿もあった。
その後ろからも、左右を守るように、同型の高速船が駆ける。
さらにそれに続き、銛やナイフを手にした漁師やリク族たちを乗せて、十を超える漁船が押し寄せていた。
二百年にわたりアマーリロの海と大地を守り続けた男たちの、怒りの声が轟いた。




