「ペリュニリスの放浪記」②
マウロはすぐには答えず、無言で彼女を見据えていた。窓の外、寄せて引く波の音が一度、二度と聞こえ、三度目が引いたとき、マウロは、軽く息を抜きながら表情を和らげ、ソファーに背を預けた。
「彼を、ご存知でしたか」
ベランダから涼しい風が入り込んで、白いカーテンを揺らした。
「彼とは、どのようなご関係で?」
「かつての友人でした。私達はこの八年の間、彼の行方を追い続けていたのです」
哀愁を帯びた、暗い声だった。そして彼女はその視線を窓に向け、遠くを見るように少し目を細めた。
「少し癖のある黒い髪に、夜のような黒の瞳。肌は浅黒くて、顔立ちは彫りが浅いとも深いとも言えず、どこの人種ともつかないものでした。彼は自分の出自も知らなければ年齢も分からないと言っていましたが、最後に会った彼の容貌は、少年の殻を脱いだばかりのものでした。今は三十を越えたくらいでしょうか」
「なるほど、彼だ」
マウロは、うなずくように軽く視線を下げ、つぶやいた。ミレイアはマウロに視線を戻し、続ける。
「八年前、島船が世界各地で目撃されはじめ、その情報が帝国に届く中、島船を追う一人の旅人の姿もまた浮かび上がりました。その詳細が明らかになるにつれ、気づいたのです。その旅人が、十三年前に死んだと思われていた、古い友人なのではないかと」
「十三年前……」
「以後、私は彼の行方を追い続けた。私と同じ、彼の旧友たちとともに。しかし四年前、ナイア川を遡って暗黒大陸の奥地に入っていった所で彼の消息を聞かなくなりました。再び彼の噂を聞いたのは、昨年、暗黒大陸西岸、アマーリロに島船が現れた時です」
そこでミレイアは、マウロをからかうように、小さく笑った。
「あなたも、同じ頃にアマーリロにいたのでしょう? だから分かったのです。この本にあなたが関わっていることをね。この本が出たのも、そのすぐ後のことですしね」
「は……」
マウロもまた、空気を解くように笑った。
「なるほど、よくわかりました。確かにこの本の主人公『ペリュニリス』とは、アマーリロで私が出会った人物であり、あなたのご友人と同じ人物でしょう。この本は、その彼の旅をもとに書かれたものです」
ミレイアは小さくうなずいた。
「彼とは、その後も?」
「いいえ、アマーリロで別れて後、その後彼がどうしているかは、風の噂に聞くだけです。ほんの二週間ほどの間の付き合いです」
「アマーリロで会っただけと?」
「ええ」
ミレイアは首をかしげ、膝の本に目を落とした。
「それでは疑問なのですが、この『ペリュニリスの放浪記』は、彼の旅を元にしたものですよね? ここに書かれている各地の記述は、彼から詳細を聞いたのではないのですか? これだけの情報を、アマーリロに滞在したわずかな期間で聞き出したと?」
「ふむ」
マウロは、部屋の隅に控えていた侍女に、「アルマ、あれを持ってくるように」と言いつけ、再びミレイアに顔を向けた。
「それについては後ほどお話しましょう。見せたいものもありますので」
澄ました笑顔だが、その深い瞳の奥に、宝物を人に見せつけたがる少年のような光があった。
「実は、彼について尋ねてきたのは、あなたが初めてでして。その本の出版に私が関わっていることに気づいた者は他にもおりましたが……、いや、不愉快な連中ばかりでした。この私がその本に書かれた土地を冒険したものと勘違いして、あれこれ聞きだそうとしたりね。中には、勝手に人の屋敷に忍び込もうとした輩までいた」
「あらあら」
「正直、あなたがその本を見せてきたときはどうしようかと思いましたよ。よりにもよって『白のミレイア』に目を付けられたかとね」
「あら、私を何だと思ってらしたの?」
「ご自分で分かっておいででしょうに」
ふたりは低く笑い合った。笑い終えたとき、部屋の扉が開き、息子のホーレスが侍女とともに入ってきた。その手には、皮ひもでくくられた、本の束があった。
「やあ、まさか彼について尋ねてきた最初の人が先生だったとは」
「あら、ホーレス君、あなたもアマーリロにいたの?」
「はい、父と一緒にアマーリロで彼と会いました。その時これを手に入れたわけです」
ホーレスはテーブルの上で紐を解き、本を並べた。全部で6冊。いずれも1/6などと小さく隅に書かれているだけの紺色の革表紙で、本そのものは比較的新しく見えた。
「これは、人類の宝となるものです」
マウロは一冊を手に取り、ミレイアにすすめた。
「ただし、その価値が分かる者は、まだごくごく少ないでしょうがね」
ミレイアは本をめくった。その本に最初に書かれていたのは、暗黒大陸北岸、古きナイリア国の風景だった。魔法による写し絵も多くつけられている。人々の姿かたちやその生活、信仰、建築や芸術、そして歴史についての記述やその考察も記され、その人々が生きる土地の風土や動物、植物についての記載も豊富にある。
本の記述はナイリアの都市を離れ、偉大なるナイア川を遡り、南へ。大河に切り裂かれた荒涼の砂漠には、点在するオアシスの町や、ナイリアの影響から外れた遊牧の人々がいた。彼らの文化に関する記述も、そこには微細に書かれていた。
ミレイアは続きの本を手に取った。著者はナイアの川をさらに遡り、砂漠から岩山を越えて草原の王国へ。さらに進んで広大な湿原に入る。危険な生物が蠢き、見上げるような背の高い草々が迷路のように立ち並ぶ沼地。そしてそこに生きる人々の描写で、二冊目の本は終わっていた。
「これは、彼の記録ですか? 六冊全てが」
「そうです。原本は、アマーリロのとある少年が持っています。エルゲ語で書かれたものですが、それを我がローレア語で書き写しました」
「先生の持ってきた『ペリュニリスの放浪記』も、あの人の旅をもとに、アマーリロの、その少年が書いたものなんです」
「え? これはあなたたちが書いたものではないと?」
これはミレイアにも意外だったようだ。マウロは苦笑いした。
「ええ、実のところ息子の言うとおりです。とある学者が、これの原本の翻訳をその少年から頼まれていたところを、我々も手伝いましてね」
そして少年は、その訳本を手に『ペリュニリスの放浪記』の元となる物語を書いた。それを買い取って帝国に持ち帰り、旧知のヤン・クランストン社にも見せたところ、面白いということで、出版物としての修正を加え、レッドリーフ社に持ち込んだという。
「ちなみにヤン・クランストン社も、我々よりも以前から彼のことを知っておりまして、彼が記した別の記録も所有しています」
マウロは顎をなでながら言った。
「その写しをもらい、件の少年に渡して、その『放浪記』の続きも書いてもらったりしたわけですが……。はっきり言って、これほどこの本が話題に上るとは思いませんでした。それも、必ずしも歓迎できない意味でね」
「しかし僕らは、こうも期待したんですよ。ひょっとしたらこの本を読んで、あの人を知る人間が帝国でも現れるんじゃないかとも。まさかそれが先生だとは」
ホーレスは笑った。
「彼は自分のことをあまり話さなかったのですが、ひょっとしたら帝国に住んでいたんじゃないかとは思ってたんです」
「と、言うと?」
「左手の小指に、指輪がはまっていた。結婚指輪。帝国の習慣です」
これを言ったのはマウロだった。朗らかな声は少し抑えられていた。ミレイアの表情から微笑が消え、彼女は軽く視線を下げた。
「そうですか。やはり彼の旅は……」
ボレア親子も、表情を改めた。
「件の少年は、彼からその旅の目的を聞いていました。あなたもご存じのようでしたな」
マウロはため息のように言葉を吐いた。
「あなたが最後に彼と会ったのは、十三年前であるとおっしゃいましたな。十三年前と言えば……」
「そう、私が彼の行方を気にかけているのは、私達が償いようのない罪を、彼に、いえ、彼らに対して負っているからです」
ミレイアの言葉は、懺悔のようにも、自分自身に向けたもののようにも聞こえた。
「彼の行方を捜して、それからどうしたいのか、正直私にも分かりません。彼も、決してこの国には戻らないでしょう」
彼女は顔をあげた。礼拝にのぞむかのような静謐な表情だった。
「彼について、教えていただけませんか? あなたたちがアマーリロで見た彼のことを」
マウロはうなずいた。
「彼は現在、ヨレン王国テルセニア大学に在籍しています」
「ヨレンに……」
「彼は調査研究員という身分をもって、国々を旅しています。今の世に身元の証明もなしに文明国を旅することはできない。もっとも、彼は未開の地も平然と踏破していますが」
「私の知る彼は、忍び隠れる技に優れてはいましたが、危険な未開の地を渡り歩くほどの力はなかったように記憶しています。今の彼がどのような力を持っているか、あなた方はご覧になりましたか?」
マウロは少し考え込んで、
「彼は、本物の魔法使いでした」
そう言った。
「昨今よくいる、固定された知識によって道具や機材を開発・整備し、パスワードとしての呪文や、ボタンだの引き金だのでそれを操るだけの、エンジニアのような魔法使いではありません。彼の魔法もまた、ほとんどは所有する道具を操るものでしたが、それは深い精神の作用によって力を自在に発揮する、そしてかつ、特異な性質のものでした」
ミレイアはうなずいた。
「もっとも彼は、魔法使いとか呼ばれることを嫌がっていましたが……。とにかく、われら十神教の国々では、ただ身に付けているというだけで、国家や各教団に目を付けられかねない特殊な魔法の知識や道具を、彼は持っていた」
少し視線を下げ、思い起こすように語った。
「ただし、強さだとか、恐ろしさだとか、そういうものを感じさせる魔術ではありません。破壊や制圧よりは、防御や反撃、攪乱といったものの手段としてそれは用いられていました。いずれも我々の魔法体系とは異なる、それも非常に高度なものです。そしてその中でも最も特殊なものが……」
「魔法を食べるという、白い光。あるいは、白い炎」
ミレイアはつぶやき、マウロはうなずいた。
「噂には聞いていましたが、あなた達は実際にそれを見たのですね?」
「ええ、見ました。アマーリロで。まさに魔法神オハリアの乗騎、ペリューンの力です。我らが十神教の神話のみならず、各地方で形を変えて語り継がれる、白い炎の体と三つの星雲の目を持つ神獣の力でした。私達があの時アマーリロを訪れたのは、島船の噂を聞いたのもありますが、島船を追う白い炎の魔法使いの噂を聞いていたからでもあります。そして、期待以上のものが見れた」
「この『ペリュニリス』という主人公の名は、ペリューンから取ったのですか?」
「アマーリロで、ツァン諸族の古き大英雄、かのフ・クェーンが彼を呼んだ名を元に、件の少年がつけた名です。その本来の発音は、人間の口からはとても発せられないようなものでした。フ・クェーンは、精霊による彼の呼び名と言っていましたが。その意味は……」
少しの沈黙の後、
「同じく、人間では発音できないような名前の精霊の、その『影』、という意味だそうです。そしてその精霊の名、そしてそれを聞いた時、私の頭に浮かんだイメージは、ペリューン、と、聞こえ、見えました。あるいは同じ存在なのかもしれません」
「ペリューンの影……」
「そして、彼は『島船』とともにこうも呼ばれていた。『星の影』と」
「星の影……。星の光という意味?」
「それは東洋の表現ですが、違う意味のようです。精霊の使う言葉で、神霊の遣いや化身といった意味を持つとか。もっとも本人にその自覚はまったくありませんでしたが」
「そう評されるだけの力を、彼が持っているとして……。一個の人間としては、彼はどのような人物でしたか?」
マウロはまた少し考え込み、低く言った。
「人として、何かが欠けていた」
それを聞いたミレイアの表情に、憂いの影がよぎった。
「彼はその旅の中で、様々な知識や力を得たようですが、恐らくそれと引き換えに、くぐり抜けた試練によって彼の精神は大きく傷つけられたのでしょう。3年から4年もの間、正気を失っていたとも言っていました。彼は何と言うか……。人として当然持つべき感情の一部を欠いていたように感じました。時には幽鬼のように虚ろにさえ見えた」
マウロは言葉を選ぶように、顎に手を当て、考えながら話した。
「またしても、フ・クェーンの言葉を借りますが……。いや、あの方は実際に『見えた』らしいのですが……。彼の魂は、『砕けていた』などと言っていましたな。いや、どういう意味なのか、実際に何か見えたのか、私にも分かりませんが……」
「ですが先生、彼は善人です」
重くなっていた空気に水を差すように、ホーレスは口をはさんだ。父とミレイアの視線を受けて、少し尻込みしかけたが、それでも続ける。
「あー、確かに幽霊のような……、もしくは機械のような人でしたが、彼は確かに善い人でした。それははっきり言えます。彼はその力を振るって多くの人の命を救い、そのために自分を危険にさらすことにも躊躇しなかった」
そこまで言って、自分をまじまじと見る父とミレイアの視線に怯んだのか、言葉に詰まって頭をかいた。
「確かにまあ、英雄とかそういう言葉は似合わないような、おかしな人でしたが……」
「ふふ……、そうですか」
ミレイアはマウロとともに小さく笑みをこぼし、ホーレスにうなずきながら、話を促す。
「ではホーレス君、聞かせていただけますか。アマーリロでの彼のお話を」
それを受けてホーレスは勢いづいたのか、やや大げさな手ぶりで一礼した。
「かしこまりました、先生。彼の……、ショール・クラン氏のアマーリロでの物語について。お話ししましょう」




