カミロの宿で②
そこに、外から大勢の人間が近づいてくる気配がした。漁師たちでもやってきたのかと思ったら、違った。
「あの、イェハチは……」
イェハチの母だった。他にも、イェハチの父が他に娶ったふたりの妻と、イェハチの弟、妹たちを連れてきた。
「あらあら、わざわざどうしたの」
カミロの母が迎えた。
「あの子にこれを……」
イェハチの母は、牛乳の入った壺をよこしてくれた。他に、イェハチがお世話になっているからと、牛乳を発酵させて作ったヨーグルトやバター、干し肉などを子供たちに持たせて持ってきてくれた。
「ちょっと、いいのよこんな……。あの子の世話には、フ・クェーンから牛とか石とか、頂戴してるわけだし」
「私たちからの気持ちだから受け取ってちょうだい。それで、あの子は……」
「イェハチなら、港の警備についてる」
エドゥが口を挟んだ。
「心配するな、あいつのことはみんな気にかけて面倒見てる。あいつ自身だって、立派なマーの戦士だ。頭だっていい」
それでもやはり、母親として心配なのだろう。カミロ達は知っている。この母親が産んだ子は、イェハチひとりしかいないことを。
「それでみんな、何か食べていくかい?」
カミロの母の言葉に、子供たちは目を輝かせた。
イェハチの母らと兄弟らは、そのまま軽い食事をごちそうになった。
子供たちは、「東から来た人」ことショールにも興味を持った。彼に頼んで、伸び縮みする杖や、蜂の出る琥珀などを見せてもらい、はしゃいだ。
エドゥの発案で写し絵も撮ってもらったが、初めての写し絵に泣き出す子もでてしまった。
「そういえばクランさん、今まで撮ってきた他の写し絵とか、あるんですか?」
好奇心から聞いたカミロに、エドゥはいたずら子のような笑みを浮かべた。
「なんだお前、まだ見せてもらってなかったのか?」
「え?」
「いやな、このお人がこの町に入ったとき、当然、どこからどう旅をしたのか聞いたわけだ」
エドゥがそういう間に、ショールは「ちょっと待て」とカミロに目配せし、二階の自室に戻っていった。
「その時、あの人の日記とか、撮ってきた写し絵なんかも見せてもらったんだよ」
「へえ」
「まあ正直、かなりの眉唾だと思ったけどな」
ショールが鞄をかかえて戻ってきた。皮が痛んでペラペラになった鞄だった。入っていたのは、五冊ほどの日記と、写し絵の入った封筒だった。
ショールはテーブルの上に、その写し絵を広げた。
「わあ……」
見たこともない風景が、数えきれないほど広がった。
アマーリロよりもずっと荒涼とした砂漠に立つ、巨大な三角錐の建物と、岩でできた神々の巨像。乾いた都市に流れる、ヤシの木が立ち並ぶエメラルドグリーンの川。これらは大陸の北岸にある、古きナイリア国だろうか。
鮮やかな青い衣を纏い、馬にまたがって草原を駆ける人々。黒い肌の若者が乗る、小さな小舟の向こうには、巨大な壁のように生い茂る葦。怪しげな七色の湖。桃色の水鳥。
カミロは夢中でそれらを眺め、イェハチの家族らは、恐る恐るといった風に一歩離れて眺めている。
「これ、どこのどんな風景か、聞いてもいいですか?」
両手に写し絵を持って、カミロは目を輝かせた。
「一日二日では終わらないだろうな」
「あら、時間はあるんじゃない?」
カミロの姉も写し絵を手に言った。砂漠に生きる小さな狐や、猫の写し絵だ。愛くるしい動物に興味があるようだ。
「かまわないよ。旅の話なら時間の許す限りしよう」
カミロは屈託のない笑顔を見せた。この少々大人びた少年にしては珍しい表情だった。
そんな時、エドゥのお供をしていたローブの女性が何かに気付いて、腰のバッグから、一枚の木の板を取り出した。
金で模様が彫り込まれていて、中央に丸いガラスがはめ込まれ、その中に液体が入っているようだ。
『こちらアルファーロだ。エドゥ様はおられるか?』
ガラスの中の液体が波紋を出しながら、低い男の声を響かせた。
魔法使いの間では珍しくない道具だが、マー族の母子たちは驚き、小さな子は母親の陰に隠れた。
エドゥはそんな子供たちに笑いかけた後、
「エドゥだ。どうした」
『エドゥ様、今すぐ総督府にお戻りください。本国から緊急の連絡が入りました』
「本国からだと?」
『アマーリロに、本国からの使者が入ります。おそらくはビジャール提督の件かと』
エドゥとその従者たちは緊張とともに顔を見合わせたが、カミロの一家やマー族の母子には雲の上の話で、よく分からないまま、エドゥらをただ見ていた。
「それで、いつ来るんだ?」
『それが、本日中にと……』
「何だと」
エドゥたちはさらに顔を見合わせた。
「分かった、すぐに戻る。それで、誰が来るんだ」
『カンタルイ伯がおいでになります。船は第二艦隊から三隻。提督のアルフォンソ・レイダ卿も同行なさっておいでとか』
「カンタルイ伯か。厄介事にならなければいいがな……」
エドゥはつぶやきながら頬をこすった。
「とにかくすぐに戻るから、礼装の準備をしておいてくれ」
『かしこまりました』
エドゥはカミロ一家やイェハチの母らに向かい、
「聞いての通りでね、急いで戻るよ」
そう言って、あわただしく帰っていった。
外まで出てそれを見送るカミロ達の後ろから、声がかかった。
「何やら、面白そうなことになっているようだね」
見れば、ボレア一家が戻ってきていた。
「あらお帰りなさい、お昼は?」
「ああ、大丈夫だよ女将さん、済ませておいたから」
その会話の横で、カミロはふと、酒場の中のショールを見た。
彼はテーブルに目を落とし、じっと考え込んでいるように見えた。ややあってテーブルの上の写真を片付け、カミロの父に言った。
「すまないご亭主。私も支度をして出かける」
「え、どこにだい?」
そのショールの様子に、いつもと違うものを、カミロ達は感じ取った。何か、緊張感のようなものだ。
「港へ」
「どうかしたのかね?」
マウロ・ボレアも怪訝そうに声をかけた。
「勘だ。虫の知らせというものだ」