草の護り、蜂の護り、精神の洞察①
その日もカミロ少年は、朝早く起き、港に向かう。
いつもと違うのは、まず牛だ。今日からは、ショールが連れてきて、フ・クェーンを通して譲られた、毛が長く、体も角も大きな牛を連れて行く。
すれ違う人が思わず振り返ってしまうような屈強な体格の牛だが、覗き込んだ眼はとても穏やかで、知性も感じる。
実際、荷車を括りつけようとするカミロの動きを先読みしているかのように従順だった。綱を引いて小屋から出すときも、従順を通り越して、逆にカミロがリードされているような気さえした。
そして宿の前の通りに出たとき、その牛の、前の主がいた。
「おはよう」
「あ……、おはようございます、クランさん」
ショール・クランは、相変わらずの無表情だった。
「港に行こうと思ってね。一緒にいいかな?」
「ええ、まあ……」
ちょっと尻込みした。興味はあるがやはりとっつきにくい人物には変わりなく、おまけにこの男は町から目を付けられている。
「ああ、君のお母さんには話しておいた。無断で出歩くと、後々面倒そうだからね」
そう言ってショールは、外套のフードをかぶった。どうやらこの人は、自分の立場をよく理解しているらしい。
宿の入り口で足音が鳴り、ショールはそちらに目を向けた。学者先生の助手、いつもの早起きの人だった。
「おはよう。昨日はうちの先生が迷惑だったか?」
「いや……」
ショールとは、それだけ言葉を交わして、彼は散歩に出ていった。
その姿を見送って、ショールとカミロは港に向かう。
「あの、クランさんはヨレンの出身ですよね」
港に向かう道を歩きながら、カミロは話しかけてみた。
「出身、ではないが、厄介になっている」
「ヨレンって、どんな所なんです?」
「ここよりずっと北、大白海の東、黒海に面する小国だ。国土も狭く、ほぼ平地ではあるが、手つかずの湖沼地域もある。このアマーリロより大きな町も、王宮のある湖北の都と、一番大きな港町くらいだ」
「へえ……」
「小国ではあるが、元々は古代エルゲの都市国家のひとつで、それが今の地に逃れて創った国だ。西方文明の源流である古代エルゲの面影を残す国として、特別な扱いを受けることもある」
「テルセウス義勇王の国だから、ええと、強い戦士が尊敬されるとか……、武勇の国ですか?」
ショールへの警戒心が薄れ、代わりに彼の話への興味がわいてきた。
「いや、人々はどちらかというと平和と学問を好む。あの地は騎馬民族の侵入が古来から多かった。ヒッティアにも近く、あの半島で起きた大きないくさに巻き込まれることもあって、人々は戦禍に悩まされてきた。そもそもエーゲ海にあったヨレンが黒海東岸に逃れたのも、戦乱による。あの国における戦争に関する詩歌の多くは、勇壮な英雄の詩でなく、悲劇の物語だ」
「へえ……」
「テルセウス王以降、この二百年はおおよそ平和な時代が続いている。ただし人々は決して戦争を忘れてはいない。事あればテルセウス王のように勇敢にもなる」
「クランさんの大学って、どんな所なんですか?」
「代々の王が後援し、王族が学長を務めている大学でね。それでいて王家への批判が許されるほど自由で開かれた場所だ。世界有数の図書館もあり、ローレアの国々からも、アッカリアの国々からも学者や生徒が出入りし、国際色豊かでもある」
話している間に、視界に港が広がった。
「ここが港ですよ」
ショールへの距離感がだいぶ縮まったカミロが声をかけたが、彼の目は海を見つめていた。
その視線の先には、霧を纏う、不思議な城が。
(島船……)
それを見つめるショールの目……、井戸の底のような瞳のその奥に、何か、硬い意志の光ようなものを、カミロは見た気がした。
ふと、昨日のフ・クェーンの言葉を思い出した。「星の影」の話を。海に片割れがあり、それを追ってもう一つが来る。
そうは言っても何を聞くこともできず、視線を落とすと、ショールの手は、強く握られていた。その左手の小指には、鈍い銀色の指輪がはまっていた。
(左手小指の指輪……。帝国だと、結婚指輪)
ボレア親子が、そんなことを話していた気がする。ひょっとしたら帝国の人だったのかも知れないと。
ショールが、視線をカミロに戻した。
「まだ、魚は来ていないようだね」
言って、彼は市場に歩を進めつつ、港から湾を眺めた。