アマーリロへ②
幹道から横道に入ると、すぐにカミロの宿がある。入り口は解放され、中の声が通りにも漏れ聞こえてくる。
「遅かったね、カミロ」
カミロの母が、エールを運びながら声をかけてきたが、その後ろにエドゥやボレア親子、そしてイェハチにショールが入ってくると、思わず足を止めた。
「なんだい、見たことないお人も……」
「あの、母さん。フ・クェーンが、イェハチとこの人をウチに泊めてって……」
「はあ?」
カミロの父と姉も、カミロの言葉が耳に入った酒場の客たちも、一斉にカミロ達を見た。
ショールが連れてきた牛と、フ・クェーンから貰ったという黒曜石を見たときには、荒くれ者も恐れないカミロの父が、口を間抜けに開閉させて、しばらく言葉もなかった。
「と、とにかく、この牛と石は大事に預かろう。フ・クェーンの贈り物に何かあっちゃ一大事だ」
東から来た遭難者と、イェハチとを宿で預かることも即座に了承した。
そして店の裏に引かれたその牛を、学者先生は興味深げに見ていた。
エドゥは酒場のテーブルを一つ借りて、ショールと向かい合った。
「んであんた、これからどうする気だ?」
「大学を含めて、いくつか連絡を取りたい所がある」
「郵便局はあるから、手紙を船に乗せて送るといい。今はちと、届きづらいだろうが……」
なぜなら、「海の悪魔」がいる。
そう、エドゥは言った。ショールの隣に座っていたイェハチの表情が動いた。
ショールはかすかに眉を動かした。
「『海の悪魔』?」
「そう、そいつが湾の出入り口でたむろしている」
「我々が乗ってきた船も、そいつに襲われてね」
同じテーブルに座ってきたマウロ・ボレアも言った。
「船の修理はもうすぐ終わるが、航行の安全が確保できない状態だ。チエロニアの軍船に護衛を頼むこともできるが、護衛料が高くてね」
「軍船が護衛とは、クラーケンかシーサーペントか?」
ショールの言葉に、マウロは手を振った。
「そんな外洋の化け物、ここらの海には出たりしないよ。ここにいる悪魔は、鮫だ」
「そう、鮫だ」
大きな声がショールの後ろのテーブルから響いた。足の悪い魚屋の親爺だ。いささか酔っているようだ。
「言っとくが、ただの鮫じゃないぞ。やつらの牙は船を食い破る。それに奴らは魔術も使う」
「鮫が魔法を?」
「そうだ。奴らは水をまとって海から飛び出す。大砲のようにな。その威力は、くろがねの船にも穴をあける」
「あれは確かに魔法だった」
マウロは鋭く目を細め、顎をさすった。
「人間以外でも、本能的に魔法を使う動植物はいるが、そういう代物ではないように見えたな。洗練され、制圧や破壊に特化したものだった。それこそ大砲に付与する元素魔術のような。あんな力、野生では過剰だ」
「それが、人の船を狙うと?」
「そうだ。アマーリロ湾に出入りする船をな」
「それと、奴らはセイレーンのように呪いの歌を歌う」
また魚屋の親爺が言うと、その隣の老漁師も身を乗り出した。
「いやいや、セイレーンの歌なんて上等なもんじゃない。ありゃあ、鉄板に爪を立てたみたいな歌声だ。ああ、いや、そもそもありゃ歌か……?」
「とにかく、そいつが耳に入ると、どんな恐れ知らずでも、思わず力が抜けちまうんだ。そこを襲ってきやがる」
また親爺が言った。ショールがマウロを見ると、彼は黙ってうなずいた。彼もそれを聞いたようだ。
「おかげで、宿で出すものにも困ってねえ」
カミロの母が、口をはさんできた。
「漁船も狙うから魚も手に入りづらくなっちゃったし、小麦とか香辛料とかも入ってこなくて、どんどん値上がりしちゃってね」
「そりゃあ、南の商人が買い占めやがるからだよ」
そう言った魚屋の親爺を皮切りに、漁師たちが次々声を上げた。
「食い物だけじゃねえ。木材だの燃料だの、外が頼りの物はどんどん値上げしやがる。家の修理もできねえ」
「そういやあ、こないだペペの店が火ぃ付けられたよな。あいつ、いつもの値段でモノ売ってたら、いちゃもん付けられたって話じゃねえか。ありゃぜってえ、奴らの仕業だろうぜ」
「今じゃ外からモノを仕入れるのにも、護衛料上乗せで、とんでもないカネがかっちまうから、小さい店ほど干上がってるって話だもんな。護衛頼んでるのも、南の大商家とその関係の船ばかりだ」
するとある漁師が、
「おい、その南の連中、護衛料を免除されてるって聞いたぜ」
「お前も聞いたのかよ! やっぱ噂は本当なのか?」
「俺らも近場でしか漁ができねえから、稼ぎが減ったしな。今度のことで得をするのは、南の商人どもと艦隊の提督閣下だけってな」
ショールは話が一度落ち着いたところで、ぼそりと言った。
「『海の悪魔』とやらは、本当に鮫なのか?」
その言葉に、みな黙った。
「あれは、僕たちがやったと言う人もいる」
「おい、イェハチ」
絞り出すようなイェハチの言葉を、エドゥが鋭くたしなめた。別の席の漁師からも声が飛ぶ。
「そんな馬鹿な噂、気にしてんじゃない」
「そうだ、そうだ」
酒場の漁師たちが、みな沸きかけた。
イェハチは、十歳の少年とは思えないほど低く、重く言う。
「気にしてない。そんなことよりも僕にとって重要なのは、あいつらが僕の父さまを殺したことだ」
酒場が打たれたように静まった。
「奴らは僕が狩り殺す。父さまの仇だ」
その目に、鬼気が宿っていた。
友人のカミロも息をのんだ。
「丘の上から奴らを見て、フ・クェーンは言った。あれには人間の意志を感じるって」
それについては、聞いた誰も驚きを見せなかった。
「僕は父さまの仇を取る。鮫を狩る。操る者がいるならそいつらもだ」
「イェハチ」
エドゥがそんなイェハチに、強く、だが幾分痛ましげな目を向け、その肩に手を置いた。
「奴らは必ず排除する。お前の言うように操り手がいるのなら、そいつらにも必ず報いを受けさせる。その時にはお前も一緒だ。だが焦るな。お前に何かあっちゃ、おふくろさんたちが悲しむ」
それから自分の胸を叩き、力強く言った。
「そもそもいくらマーの戦士でも、俺たちの船なしじゃ海では戦えんだろう。だから俺たちを頼れ」
その言葉に漁師たちは湧きあがり、杯をかかげた。
「そうだ、俺たちを頼れ!」
「マーの勇者とアマーリロの荒くれ者が手を組んで、乗り越えられなかったものはない」
「俺たちは連邦王国の艦隊も、アブロヌ王の騎馬軍団も追い返した! きたねえ外道魚なんぞにいいようにされて、ご先祖様に顔向けできるか」
漁師たちの言葉に、イェハチの顔からも、幾分かは暗い影が抜け落ちたようにも見えた。
その様子を見ながら、ショールは水を一口飲んだ。
その日の夜、カミロ少年はいささか疲れた顔で屋根裏の自室に戻った。狭いながらも自室のある子どもは、この辺では珍しい。
ちなみに、マー族のイェハチは、家族全員同じ空間で過ごすのが当然なので、私室という概念が薄い。宿の個室を用意されて、少々戸惑っていたが、今日の所は一度集落に戻った。
カミロの宿に厄介になりながら、港の警護に参加する。その報告を母親にするために。
ショールもまた、あの後酒場に来た役人に総督府まで連れていかれた。エドゥも一緒にお目付け役に連行されている。
ショールが戻ったのは昼過ぎだ。無事に、町への滞在を許されたという。
だが、カミロの父やなじみの客たちに、ひそかに要請があったようだ。
「あの客人におかしな点があれば、すぐに教えてほしい」
当然そうなるだろうな、とは思う。
ひょっとしたらイェハチも、彼の監視をフ・クェーンから命じられたのかもしれない。
カミロから見たショール・クランという人物は、ちょっと近寄りがたい……、はっきり言えば不気味さがあった。無口でぼうとして何を考えているのか分からず、夜中に廊下でばったり会えば、幽霊と思うかも。そんな雰囲気がある。
気になるのは、フ・クェーンの言葉だ。「星の影」という言葉。エドゥらにそのことを話したが、フ・クェーンの言うことは理解が難しく、そのことは一度頭から離した方がいいと言われた。実際、直接話を聞いたはずのカミロにも、よく意味が分からない。
カミロ少年はランプの灯をともした。
彼には趣味がある。読書だ。貸本屋で借りた小説本がテーブルにある。そのくらいの趣味を許す余裕は、この宿にはあった。
そんなカミロにはひそかな夢がある。自分もいつか本を書くことだ。
あのショール・クランという人は、どこからどう旅をして、ここまで来たのだろう。
ショールは役所から帰ってきて、まず学者先生に捕まった。彼が連れてきた牛や魚について、しつこいくらいに質問されていた。魚は大河の魚だが、牛についてはこの辺りのものでなく、もっと北の、モンゴ山とも違う高い場所にいるものだと、学者先生は言っていた。
カミロも実はショールの旅について興味があった。少々勇気がいるが、できれば彼に取材をしてみたい。そんなことを思いつつ、今はテーブルの本を開き、別の物語を楽しむことにした。