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東から来た人①

「そこの方々、ローレアの言葉は通じるか? チエロニアの言葉は通じるか?」


 男は丘陵のふもとから、それぞれの言語で声をかけてきた。張り上げた声ではなく、むしろ低く、冷淡に聞こえるほど落ち着いた声であるのに、不思議と耳に響いた。


 外套をまとい、フードをかぶり、身長と同じくらいの長さの細い杖を持っている。ぼろぼろの恰好なのは、遠目にも分かる。


「チエロニアの言葉なら分かるぞ。東から来た人」

 フ・クェーンが応えた。


「水をもらえないだろうか。私と、この牛の分とだ」

 そう言って、男は、引いてきた牛にくくりつけられた荷物から、一匹の魚を取り、かざしてきた。

「これと引き換えに」


 フ・クェーンが土地の所有者であるカミロの伯父に目をやると、皆の視線もそこに集まった。カミロの伯父は目を丸くした後、慌てたように前に出た。

「と、とにかく上がってこい」

 カミロの伯父が許可すると、男は魚を戻し、杖を片手に牛を引いてきた。



 近づいてはっきり見えた男の恰好は、港の浮浪者よりもひどいものだった。


 外套はフェルトのような素材で、おそらく毛織物だが、泥と砂塵にまみれ、深い灰色は元々の色なのかもわからない。

 外套の中では、薄汚れた麻のような大きな衣を右肩からかけ、ひざ下まで体全体を覆うようにまとい、草を編んで腰帯にしていた。履物は、草を足に巻き付けている。


 それだけを衣服としていたのかと思ったら、違ったようだ。よく見ると、腕や足には、おそらくはシャツやズボンだったものが、破れ、縮れ、ねじれた雑巾そのままに絡みついている。むき出しの浅黒い肌も泥にまみれ、血の跡のようなものも、そちらこちらにこびりついている。


 男はフードを外した。やはり砂塵にまみれた黒髪は伸ばし放しというほどではないが、少々の癖がある。髭は剃っているようなので、髪にも多少の手は入れているのだろうか。そういえば、この男からは嫌な体臭もしない。

 顔立ちは彫りが深いとも浅いとも言えず、浅黒い肌と相まって、どこの人種がいまひとつつかめない。


 そしてその黒眼は、まるで感情が見えず、深い井戸の底のようだった。

(この人の目は……)

 宿屋のカミロ少年には覚えがある。恐ろしい戦場に出て、死ぬよりひどい目にあったという兵士たち。あるいは非情な雇い主によって、逃げ場のない船の中で家畜のように扱われた船員たち。そんな人たちがこんな目をしていた。

 ただし、そうした人間に時折あるように、卑屈に目が泳ぐようなことはない。その目はまっすぐに相手を見つめ、人形のように揺るぎがない。


 年齢も読めない。髭のない顔は若くも見えるが、張り付いた深い労苦の影が、齢を重ねて見せる。


 男は無表情に、魚を差し出した。

「昨日捕った。処理はしたから、食うことはできるはずだ」

 メートル法で1メートルは超える大きさだった。

「鮭に似ているが……」

 マウロがつぶやいた。

「いや父上、これは鮭なんぞよりよほど凶悪なツラしてますよ」

 銀色の細長い流線型の体で、確かに鮭に似ているが、その頭部は丸っこく、大きな目はこの世のすべてを恨むかのようで、開いた口にはノコギリのように牙が並んでいる。


 フ・クェーンはそれを見て言った。

「大河に棲む人食い魚のひとつだ。一匹でも凶暴だが群れでワニや巨獣も襲う。獅子や象ですら恐れる魚だ」

「うえっ……」

 カミロの伯父はおののいて、思わず魚から腰を引いた。


「よし、私が買おう。その金で君は水を買う。どうだ?」

 カミロの伯父を押しのけ、商人の顔でマウロがもちかけた。

「分かった。それで頼む」

「よし。学者先生によい土産ができた」

「ちょっと待った」

 そこにエドゥが割り込んだ。


「その前にあんたの身元について確認したい。まさか追放者じゃないだろうな。もしそうなら、あんたとのすべての取引は、アマーリロの法により禁止される」

 厳しい顔で言った。


 死罪に次ぐ刑罰として、大河の先への追放がある。その罪人は、アマーリロだけでなく、チエロニア本国からも送られてくる。ツァン諸族の中でも、罪人を大河の向こうに追放する部族がある。これは実質的な死刑に等しい。それほど東の荒野、大河の先は、人が生きるに過酷な場所だった。


「俺はアマーリロ総督の息子、エドゥ・グレンコ・レンドイロだ。あんたが何者か、なぜここにいるのか、明らかにする義務がある」

「そうか、ここはアマーリロか……」

 覇気のない顔で男はつぶやいた。


「どうなんだ?」

「私は追放者ではない。そもそもアマーリロにも、足を踏み入れたことはない」

「なんだと?」

 エドゥは信じられないという顔をした。カミロにしても、どう見てもツァン諸族でもない人間が、東の荒野を超えてここまで来たとは信じられない。


「私は遭難者だ」

 まるで、散歩に行ってきたかのような口調だった。

「それなら、額を見せろ」

 追放者なら、そこに焼き印があるはずだ。


 男は黙って、眉まで伸びた前髪を上げた。そこには焼き印はない。

「……いいだろう」

 エドゥは男への警戒を緩めた。

「あんた、名は?」


 男は少しの沈黙ののち、答えた。

「ショール……。ショール・クラン」

「家名持ちか? まあ今時、珍しくもないが」

「家名というより、賜った名だ。名乗るのも久々だ」

「身分を証明するものはあるか? 遭難っていうからには無いかもしれんが、それだと身元が確認されるまで、少なくとも町には入れんぞ」

「それならある」


 ショールは右手の人差し指にはめられた指輪を見せた。丸い印章のようなものが取り付けられている。

「ヨレン王国テルセニア大学の指輪だ」

「あんた学者か」

 暗黒大陸と呼ばれるこの地に調査で入り、遭難してここまでたどり着いた。それなら説明はつく。


「よく生きてたな、あんた」

 皮肉でもなく、エドゥは素直に感心した。

「とりあえず、その魚に関する取引は認めよう。町に入るなら、まだまだ聞きたいことはあるがな」


 かくしてショールは魚と引き換えチエロニア紙幣を手渡され、カミロの伯父はすぐ近くの井戸で水を汲んだ。


 ショールは水桶を手にすると、賜杯をかかげるように天に向け、そして飲んだ。2,3度喉をならすと、今度は牛の前にそれを置いた。牛は桶に顔を入れ、夢中になって舌を動かした。


「助かった。それと、余った金で可能ならば、着るものが欲しい。ボロ布でもかまわない」


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