2 まさかの奴隷
泣きながら目が覚めた。
私は数日前の出来事を夢として見ていたらしい。
でも全て現実であるのは、この部屋のくすんだ灰色の天井と金属の檻が嫌でも教えてくる。
「くそぅ……もっとなんでもいいから言い返してやればよかった」
頬に付いた涙の跡をゴシゴシと擦って、悪態を吐きながら起き上がった。
ペラペラの毛布一枚を与えられているだけだから背中が痛い。
異世界に連れてこられてもう3日経っていた。
多忙な両親も少しは心配しているだろうか。もしかすると私が帰っていないことにもまだ気が付いていないかもしれない。
私はちょっとだけ自嘲気味に笑う。
大学入学直前の春休みだった。
第一志望は落ちちゃって、第二志望の大学だったけど、これからのキャンパスライフを楽しめばいいやって思っていたのに。
女子校出身で彼氏なんて一度もいたことがない。高校の時には友人がいたけど、春休み中に遊ぶ約束すらしていなかった。在学中は仲良くしていても卒業したら「またね」で縁が切れてしまうかも、とは薄々気が付いていたとはいえ、私はこのまま帰ることが出来ないならもう家族や友人とも、もう2度と会えないということだった。
もしかしたら私がいなくても、あっちの世界では誰も気にしていないのかもしれない。
そんな暗くて憂鬱な気分になるのも無理はない。私はとにかく不安で堪らなかった。
今私がいるのは奴隷商の牢屋のような場所だった。
薄暗くて埃っぽいだだっ広い部屋を檻で区切ってあるだけの場所。トイレみたいな桶が置かれているところだけ目隠しの布がかかっている。
桶だよ、桶!
あり得ない状況でも選択肢がなきゃどうとでもなるのだと私は知った。
当然衛生的にも最悪だ。鼻はもうとっくに麻痺してしまっていた。
私は家から出た時のまま、着の身着のままだった。長袖カットソーとスカート、それからスニーカー。カットソーだけでも寒くないのは幸いだった。手に持っていたはずの鞄はいつのまにか無くなっていた。この世界に来るときに落としてしまったのだろうか。
鞄の中には私がこれから通う予定だった大学に提出する書類が入っていたはずだ。
私の名前、各務紗奈と書かれた書類と、それから財布やスマートフォン。今は何も持っていないから私が各務紗奈だと証明出来る物は一つもない。それが一番不安で怖かった。
この牢に連れて来られるまでは、知らない外国に拉致された可能性も残されていた。もしくは全てがお芝居だとか、テレビの企画だとか。一般人の私がそんなのに巻き込まれるはずないのは分かっていても、異世界に連れてこられたと思うよりはよっぽど信憑性があった。
けれど、ここは紛れもなく異世界であることを私は既に理解していた。
私の横に寝そべる子供がううんと呻く。
私よりずっと小さなシルエット。
私が来るより少し先にこの檻に入っていた子供だ。
彼女の名前はレク。
まだ5歳からそこらの幼い少女まで、こんな劣悪な環境にいた。そしてその理由こそ、ここが異世界である証拠と言えるのかもしれない。
レクの頭には、髪の毛と同じ薄茶色をしたウサギのような長い耳がある。
おもちゃでもなんでもない、本物の耳だ。私の耳より少し上側にあるレクの耳。彼女は獣人と呼ばれる種族なのだそうだ。レクもまた攫われてここに連れてこられたらしい。
私がここに来た初日、そう語ってトイレらしき桶の使い方も教えてくれた。
そのレクだが薄暗くてもわかるほど顔を真っ赤にしている。ペラペラの毛布にくるまったまま起き上がりもしない。さっきの私のように悪夢でも見ているのかと思っていたが、どうも具合が悪いようだ。
「う、うーん……苦しい……熱いよぉ……」
「レク、どうしたの?」
「サナおねえちゃん……レク、からだ熱いよぉ……」
「熱があるの?」
「んー……」
額に触れば驚くほど熱い。
「ど、どうしよう……」
私には震えるレクに自分の毛布を掛けてあげることしか出来なかった。
「おい、飯の時間だぞ」
カンカンと金属質な足音を立てて奴隷商の下っ端のような男がやってくる。大きくて髭もじゃの男だ。怖いけれど、この檻に入って以来やってくるのはこの男だけだった。
食事と言っても野菜屑っぽいものが浮いた薄いスープに歯が立たないほどに硬いパンを一切れ。それを1日2回だけ与えられる。量も少ないし、味のことは何も言いたくないほど最悪だった。それを檻の中まで入ってくることさえなく、手前から棒で皿を押し込まれる。
それでも具合の悪いレクのことを訴えるには食事を持ってくる今しかない。
「あ、あの、レク……この子が熱を出しているんです!く、薬を……」
私は格子に飛びつき、なけなしの勇気を出して訴えた。
レクは息をするだけでも辛そうに毛布に丸まっている。
男は訝しそうな顔で檻越しにレクの方を覗き込んだ。
「ああん?あー、こりゃ駄目だな。ったく、ガキは弱くてなんねえ。そいつの種族は獣人の中でも弱っちいし、雌でもガキ過ぎて買い手も付かないんだ。病気の獣人を欲しがるやつはもっといねえ。そんなガキに与える薬なんざねえよ」
「そ、そんな……」
私達はこんな檻に入れられてはいても、一応は売り物でもあるはずだ。だからあっさりと見捨てるような男の言い分が信じられない。
「おめえも異世界人ってもただの人間みたいだし、売れ残ってそいつみたいに干からびたくなきゃそのガキから離れてな。熱病が感染りゃ娼館すら買っちゃくれねえよ」
「娼館……」
私はゾッとして一歩下がる。これから具体的にどうなるか、怖くて想像もしたくなかった。だが、娼館に売られてしまうのかもしれないと聞かされて、恐怖に体が強張っていく。
「異世界人の娼婦なんて珍しいからな。まあ、客に信じてもらえればの話だが。俺も試したことねえし、前もって男の喜ばせ方でも教えてやろうか?」
男は下卑た目で私を舐め回すように見た。それが気持ち悪くて顔を背ける。
男は本当に私に手を出すつもりはないみたいで、あっさりと引き下がった。
「んじゃ、そのガキの分は要らねえな」
男は二人分ではなく一人分の食事だけを檻に押し込む。私は慌てて格子に飛びついた。
「ま、待ってください!せめて食事くらい……」
「そんな状態なら長く保ちゃしねえよ。飯も食えるもんかい。食えたとしても無駄だ」
「お願い、待って……!薬を……レクを助けて!」
私は懸命に格子の隙間から手を伸ばしたが男は返事もなく去っていく。
私はヘナヘナとその場に座り込んだ。
レクは相変わらず助けを求めるように、苦しそうに呻いていた。
食事は本当に一人分しかない。自分に与えられた分を食べても足りないくらいの量だ。それをたった一人分だけ。
絶望的な状況に、じわりと涙が浮かぶ。
あの男は私にレクを見捨てろと言っているのだ。
私は首をブンブンと振った。
そうだとしても、私はこんな小さな子供を見捨てることなんて出来っこない。
私は決心して自分の分の食事を寝ているレクのところまで運んだ。
「レク、ご飯だよ。少しでも食べて?」
「や……ぁ……」
「スープを一口だけでもいいから飲まなきゃ」
なだめすかしてようやく一口だけレクにスープを飲ませることができた。
けれどそれでレクが良くなるはずもない。薬もないのだから。
「ど、どうしよう……看病するって言っても、何もないし……」
せめて余った布でもあれば水に浸して額に乗せてあげることはできるが、強く引っ張ってみてもカットソーの袖が取れたりはしないし、毛布も千切れない。
無駄な足掻きで息が切れただけだった。
(私が本当に聖女だったら良かったのに……)
アンドレアは聖女は豊穣を司ると言っていた。でも聖女というくらいなんだし癒しの力があってもおかしくない。けれど私には聖女にはあり得ない闇属性魔法とやらの適性しかないと言っていた。
でも、その闇属性でいい。レクが苦しんでいるのを少しでも緩和してあげたい。
私は祈るように目を強く閉じた。
次の瞬間、目蓋の裏に強い光が走った。




