朝霧山遭難事故調査報告書・5~ヒトガタ~
今回は色々と込み入った事情のため、実地調査の記事ではなく先月に三度目の取材となったマタギの今井義三氏の話を記載する。
あれ以来朝霧山周辺には訪れるだけで、山自体に登っていないのが現状だ。理由は後述する。
さて、マタギにはマタギの間に取り交わされる厳しい戒律が存在する。その代表として狩猟時には女性に近づかないこと、日に4匹以上の熊を狩猟してはならない「四つ熊」、そして前回解説した12人で猟に入ってはならないことなどが挙げられる。
都合が合わなくてどうしても12人で猟にいかなければならない時、偶然山で鉢合わせた者同士をあわせると12人になってしまったような時、その場合は即座に木で人形を作り、狩猟人数を13人にするなどして忌み数を避けてきた。
「こりゃあ朝霧の話でねぇ。大串のマタギの話だ。でも俺も知ってんだ。ここいらじゃ有名な話だで」
その日、大串山に連なる金倉岳に巻き猟に入った10人のマタギがいた。シカリ(注釈:マタギの頭領)の寺井という男は朝霧のマタギもよく知る戒律に厳しい人間だったという。
「若いのとよく言い合ったよ。ウチのシカリが寺井のジサマじゃなくて良かったってな」
朝霧山山塊では大きく分けて朝霧マタギ、大串マタギ、入沢マタギがいた。朝霧山塊にある三国峠がだいたいのテリトリーであり、それぞれが何を言わずともお互いの狩場を守っていた。主に朝霧マタギは朝霧山、間口山、鶏頭山付近を狩場としており、今井氏は花燃ヶ岳から先は禁足地だと先輩から言いつけられていたそうだ。
「寺井のジサマは大串の狩場荒らされたら何すっか分かんねってな。でもよう、実際会ってみたら温厚な人だったな。ま、俺ぁ朝霧の人間だ。大串の奴らにしか見せない顔だってあるだろよ」
大串マタギは当時朝霧山山塊では一番マタギ人口が多かった。高齢化の波はあったものの後継者は絶えることがなかった。
その中で、一番若い男二人組がいた。彼らはまだ下っ端も下っ端でまずは山を歩くことから始めなければならないと狩猟は任されず、主に木こりのような仕事をさせられていたという。
当然まだマタギの戒律も頭では分かっていたが重要さを知るまでではなかった。
そんな彼らはとうとう好奇心に打ち勝てず、黙って先輩たちの跡をつけることにした。
「今じゃ迷信の一言で片付けられちまうんだろうが、ところがどうしてこの迷信ってのは当たっちまうんだな。四つグマも、12を忌み数にすんのもそうだ。冒したら授かりもんもねぇし、誰かしら酷い怪我だってすんだ」
季節は深まった秋。熊は冬眠に備えて山を歩き木の実などを求める。現在と違い、昔は豊富に餌があったため猟期ともなれば熊に出会うのは必然的でもあった。
そしてこの日の前回もその前も授かりものとしていたずを撃つことができた。
しかし今日は歩き通しても気配さえない。
シカリの寺井は誰かが戒律を破っていないか疑ったが、誰もがかぶりを振るばかりだった。
ちょうどその時、勢子をやっていた者が叫んだ。
「おうい!後ろの方で若い奴付いときとったど!」
勢子が連れてきたのはマタギ見習いの若い衆。それもちょうど二人だ。現在山に入っているのは十二人になる。
「寺井のジサマのことだ。そりゃあこっぴどく叱られただろうさ。でもそんなことよりこの状況がマズい。んだもんで人形を作ったわけさ」
これがもう一人の人間ということになり、結果として山の神の怒りを避けるのである。
それから無事に熊を仕留めることができた。
一度尾根の広くなった場所で熊を捌き、熊の肉や内臓を分けていく。
マタギの間ではマタギ勘定と呼ばれる風習があり、通常なら熊を仕留めた者やシカリを務める者が報酬を多くもらいそうなものであるが、マタギ勘定は猟に参加した者全てに平等に報酬を分ける。もちろん今回黙って付いてきた若い衆にも全員と同じ分の肉を貰った。
そこで一人の男が気付いた。
「まだ肉貰ってねぇの誰だ?」
周りを見渡しても誰も手をあげない。笹の上にある肉は誰の前にあるわけでもなく、包まれることもなくそこにある。
「おかしいな。だってよぉ……ひい、ふう、みい、よお……」
一人一人の顔を確認しながら指を指していく。
「あれぇ……っかしぃな。さっき13人おらんかったか?」
「なーにをばっかなこと言っとんだ!12人だったら山の神様に怒られちまうだろ!13人であってんだ!」
「馬鹿はオメェだ!13人じゃなくて12人であってんだ!一人は人形でねか!!」
「そうだそうだ!!12人であってんだ!もうろく始まっちまったか!?」
一人がそう返すと笑いが起こった。だが報酬をより分けた男は何度も彼らを見回して何かを呟いていた。
「いやぁ……だってよぉ……さっき……」
この時はただの笑い話だった。問題はそれからだった。
「この人形はいろんな呼び方あるけどよう。ウチじゃヒトガタって言ってたな。ほれ、大串の奴らはマタギも多くて意外と12人で行くようなこともなかったんだろな。ウチは人も少ねぇし人も選んでられねぇ。申し訳ないなって思いながらもヒトガタ連れて12人で山に入ることもあった。だからみんな分かってた。ヒトガタには魂が入るから、山に降りる前に焚き火にくべるんだ。これは下でも一緒だろ?人形供養なんてのと一緒だよ」
その日は結局一人の男の勘違いということで下山。
しかしその翌日から集落での空き巣被害が相次いだという。
「空き巣つっても昔の滝元とどっこいどっこいの集落だよ。盗るもんなんかありゃしねぇ。家中荒らされてそれで終わりさ」
例に漏れず大串も閉鎖的で監視社会の田舎集落だ。大規模な空き巣となれば誰がやったのかすぐにでも分かるはずだった。
しかし犯人は見つからずに連日被害だけが重なっていったという。
村で一度会合を開き、夜警を強化するなどしたが、その夜警の翌日に空き巣が発見されるなど説明のできない事態が起こった。
ただこの時も寺井氏を始め、大串マタギは人形のせいだとは微塵も思わなかった。現代的な観点から言っても至極当然のことである。だが朝霧のマタギならばすぐに分かっただろうと今井氏は語った。
そして事件は起こった。
深夜にマタギの一人が襲撃に遭ったのである。
ここで襲撃という言葉を使ったのは他でもない。彼の妻が目を覚ますと隣には血で染まった布団と夫が横たわっていたのだ。
警察の調べでは死因は猟銃による銃殺。彼の胸に2、3発の弾痕があった。だがその日の深夜に銃声を聞いたものはなく、隣で寝ていた妻でさえ起きることはなかった。
だが傷はまさに銃弾によるものだったという。当時の新聞記事も残っていないので真相は定かではないが、今井氏は本当のことだと強調して語った。
とうとう村も子供や老人の外出を制限。疑心暗鬼の空気が高まる中、寺井氏も含めた会合が行われる。
出席したのはこの村の有力者である7名。しかし村長の妻が提供したお茶は8つあったという。
彼らが彼女のミスを不思議がる一方で寺井氏だけがこの村に起きている災厄の正体に気づいた。
そしてあの時山に入ったマタギを集める。
「あの木偶人形だ」
「寺井さんよぉ……いっくら犯人が見つからんからって人形が空き巣なんてするかいな」
「人形じゃねぇ!もう人間なんだ!俺たちは人として扱った!山の神も一人の人間として認めた!これが人間でなくてなんだ!」
その言葉にようやく他のマタギも現状を理解した。
彼らには分かっているのである。山ではありえない話ではないと。
すぐさま金倉岳へ人形の捜索が始まった。
まずは熊を捌いた尾根の開けた場所へ行く。しかし何も見つからない。人形を下げていたのはシカリだったが、シカリがいつどこで失くしたかは誰も分からないのだ。
人形は倒木を削って作ったものだ。木を隠すなら森の中というのがまさにそれだ。それらしきものを見つけても近づいてみれば木の枝というのは当然のこと。
ここは神に祈りを捧げる他なかった。
「マタギの儀式ってのは各地で違うから大串で何をやってたかは知らね。ウチはオコゼを献上するんだ。山の神様も自分よりブスな面見れば喜んでくれるだろうってな」
だが神への祈りも虚しく結局見つかることはなかった。その間様々な不幸が村に訪れたという。
「何が起こったかはよう分からん。ただあれは寺井のジサマの葬式に行った時のことだ」
人形と因果があるのかは不明だが、それまで元気だった寺井氏が病に倒れ日を跨ぐことなく逝去した。
「大串のシカリが亡くなったんだ。朝霧のマタギも入沢のマタギも総出で葬式に参加したよ。まぁ、こりぁ俺の感覚だったんだがなぁ。葬式でみぃーんな沈んでんのは分かる。けどよ、式が終わって酒酌み交わす時も大串の奴らは何にも話さなかった。別に自分のとこじゃねぇのに朝霧とか入沢の方が寺井のジサマのことよく話してたくらいのな。あぁ…なんかこれは山に入った時になんかあったんだろうなとは思ったよ」
人形の件は大串で一通り解決し終わったあとに彼らから今井氏が聞いたものだ。この時点で今井氏はこの件を知る由もなかった。
問題はそれからすぐに解決されることとなった。
行方不明の人形が見つかったのだ。しかしその場所というのが寺井氏の自宅の引き出しの中だった。
「大串の奴らはみんな言ってたよ。シカリはもうろくなんてしちゃいない。歳食ってたが、あれだけの騒ぎを起こした人形を大事にしまってるなんてあり得ないってな。誰よりも戒律に厳しい人間だ。それは朝霧も入沢も分かってる。じゃあ一体誰が仕舞ったのかなんて、んなこたあの人形が自分で隠れてたに違いない」
人形は発見と同時にすぐさま火にくべられた。
その時火を取り囲んでいたマタギたちは人形の絶叫と肉の焼けるような匂いを嗅いだという。
それからというもの人口減少で徐々に消えていった入沢、朝霧マタギとは違い大串マタギは急にその姿を消した。彼らは山に入るのをやめて畑を耕したり、林業を生業とした。
現在では柿本に高速道路のICが開通し、大串スカイラインの名称をもった県道136号が金倉岳に通っている。落差20メートルの藤滝などの観光スポットも整備されて、彼らマタギも時代に必要とされなくなった。
今井氏は咳き込みながらもタバコに火をつけて、眼前の朝霧山のピークを見てこう閉めた。
「昔の話に聞こえるがよう。今からたった45年くらい前の話だ。こんな山奥が昔と比べたら随分変わっちまえたんだ。起こることは起こる。これからもずっとな」
・あとがき
朝霧山〜大串山バリエーションルートでの縦走を歩いた記事もまた多くの反響を呼んだ。あの日以来事件の真相を追ってくれとメールが何件も届くようになっている。
まずは近況からお伝えしたい。
まず私はこの冬の期間、朝霧山山塊はおろか普段登るような山さえ登れていないというのが現状だ。
言い訳を述べる気は無いが、山を登るということに恐怖すら覚えている。
あの縦走以来度々妙な夢を見る。夢…と言って良いものなのだろうか。例えば目を開けて起きているのにも関わらず、頭の中に急に風景が飛び込んでくる感覚とでも言おうか。
そこに私は自ら藪を掻き分け何かから逃げているのか、或いは何かを探しているのか、荒い息とともに山中を彷徨しているような、そんな夢を見るのだ。
それに加えて妙な倦怠感を覚えるので半信半疑で霊能者を訪ねることにした。
名前は伏せるがとにかく彼は「低級霊が憑いている」と簡単に除霊をしてくれた。
だが一向に状況は改善されず、他を当たると「狐が憑いている」と再び除霊。結果は書くまでも無い。
我ながらあの時はどうかしていたのだ。こう言った記事を書きながらも私はオカルトに対して未だに懐疑的な目で物を見ている。
今井氏の話を聞いてようやく人が触れてはならないものがあるという認識を持っただけに過ぎない。
こうして的外れな除霊をされるとなおさらそう言ったものを信じれなくなっていく。
だが私は偶然にも彼女と会った。
知人の紹介で知り合った三人目の霊能者は名前を早乙女桃子という。
初めて会った印象を述べるのなら、あまりにも私の想像とはかけ離れていた。
彼女はまだ若く、私の息子と同じ歳だった。何やら隣に女子高生を連れていると思ったら彼女の妹だったのだ。
「姉は社会性が皆無なので依頼者の方に失礼がないようにいつもこうやって付き添ってるんです」
妹にそう紹介されると早乙女氏は金色の髪を揺らして口を曲げていた。
私がさっそく事の顛末を告げようとすると彼女は「いいよ」と私の口を塞いだ。
「……ダメだよこれ。あたしに解決できない」
「お姉ちゃん!すいません、この人いつもこうなんです」
「違うよ。本当に言ってんの。あたしの力じゃ無理だよ。悪いんだけど全く及ばない。たぶんあのクソババアでも無理だ」
彼女の言うクソババアとは彼女の祖母である岸本タキ氏の事である。
岸本氏といえば20年ほど前に流行ったオカルト番組のお抱え霊能者だったというのは私でも知っている。その孫である彼女は今までのケースとは違い、除霊は無理だと宣言した後でこう付け加えた。
「はっきり言ってあたしも初めてのケースだよ。なんだろ……これ憑いてるとか憑いてないとかそういうんじゃない。おじさん呼ばれてるよ」
「呼ばれてるってこの前のいぎょうさんみたいに?」
「あれだったら楽勝だったけど今回は違う。なんていうか……土地そのものに呼ばれてるの。誰が呼んでるとかじゃない。ある意味その土地が憑いてるって言ったほうがいい」
ここに来るまで私は経緯を話してはない。だが今までの霊能者とは違い、核心を突いてくるものがあった。
「ちょっと待って、上に聞いてみる」
そう言うと彼女は席を離れた。「上」というのを彼女の妹に聞くと上司やタキ氏などではなくつまりは神霊のような徳の高い霊が彼女には憑いているのだという。それが彼女のサポートに回ったり、助言してくれたりするらしい。
彼女が戻ってくると開口一番「やめとけってさ」と言った。
「関わるなって。やっぱりあたしじゃ荷が重いみたい。っていうか、人が関わっちゃいけない場所だって。まだ場所の詳細聞いてないけどさ……ここでしょ?」
彼女はスマホの地図を表示して指を差した。その場所こそ朝霧山山塊だったのである。
唖然とする私に特に興味を示した様子はなかった。
「よく分かんないけどさ、ここめちゃくちゃなんだよ。境界が曖昧なんだ。過去も現在も生も死もすんごい曖昧。時間の流れも気の流れも全部おかしくなってる。いや、最初っからそうだったのかもしれないけど。少なくとも生きてる人間が入っちゃいけないような場所だよ」
「ん……でもここ登山の人気スポットだって」
「本当に言ってる?……うわマジじゃん。そりゃ見えなけりゃ分かんないだろうけど、危ないことするなぁ」
頭を抱える彼女に私は朝霧山遭難事故やかつて起こったことを大雑把に伝えた。
「そりゃ、そういうこともあるでしょうよ。だってここの神様おかしいもの。現地に行って会いたいとは思えない。悪い神様とかじゃなくって、単純にここの神様はおかしい。少なくとも自然の流れを統括できないくらいにはね」
「えぇ…長いこと付き添いやってるけど、本当に神様とかそういうのが相手なの?」
「だから手に負えないって言ってるの。例えあたしがここに行って命を賭したところでどうにもならない。でっかい爆弾でも落とされてこの土地ごとなくなっちゃえば別の話だろうけどね」
彼女はこの後も朝霧山についての自分の意見を話してくれた。以下に要約する。
・朝霧山山塊は生も死も時間もすべて区切りが曖昧でそれらが逆行することが多い。
・これらはこの土地を司る神が通常の神とは違うことから起こってしまう出来事である。何が違うのかまでは分からないが一言で言えば「おかしい」のである。
・また、朝霧山には異界が存在しており、時折その扉が開くことが多い。遭難事故や行方不明事故についてはその異界に引き摺り込まれた結果によるものであり、今の私は非常に引き摺り込まれやすい体質になっている。
・さらにはこの異界と現行世界も常日頃から交差している。
以上が霊能者である彼女の出した結論だ。正直なところまだ疑わしいものもあるが今までの調査報告書で書いたものと一致するものも多々ある。
解決できないのなら私はどう身を守ればいいのかを彼女に尋ねた。
「……これはあたしの回答でもあるし、上の回答でもある。何があろうと絶対にここには行かないで。たぶん思いもよらない手段でおじさんのこと引き摺り込もうとするけど、土地自体に呼ばれてるからそこに行かなければ大丈夫。どういう経緯でここに呼ばれたのかは分からないけど、もう二度と関わらないで」
結局彼女が私に対して何もすることはなかった。だが今まで以上に納得できる終わり方になったのは言うまでもない。
それから二週間後、私は『思いもよらない手段』に出会すこととなった。
それは前回同行したKからの誘いだった。
「時間があれば朝霧山に行かないか?」
なんて事のない、単純な一文が本当にKからの誘いとは思えずに彼女に言われた通り、やんわりとそれを断ると彼は単独行で朝霧山へと向かった。
それから5日後、Kがまだ戻ってきていないと彼の奥さんから連絡が入った。珍しくKは家内に何も告げずに出て行ったのだ。私はすぐさま朝霧山への捜索願を出し救助隊の報告を待った。
しかし、あれから2週間。未だにKは見つかっていない。
後の方にちょろっと出てきた霊能者さんは僕が過去に書いた短編ホラーに出てます。