涙もろいアラサー女の私が異世界に迷い込んだ話
私はKAGOME派
私がその世界に迷い込んだのは、三十四歳の誕生日を迎えた朝だった。
その日、私はなんとなく朝日が見たくて、夜明け前に生まれ育った故郷の街並みを見渡せる小高い丘に登ったのだ。
息を切らせてようやく丘の頂に登ったものの、街を囲む山々の向こうにまばゆい朝日が輝いたそのとき、涙腺の緩みきった私の視界はあっという間に涙でぼやけてしまい、楽しみにしていた日の出の瞬間は結局見れずに終わってしまった。
帰り道、私は孤独に麓への道を歩いた。ゆるゆるに緩んだ己の涙腺を恨めしく思いながらとぼとぼと歩いていると、枝分かれした小径の先に見慣れないトンネルがあることに気が付いた。
三十四年もこの街に住んでいたのに一度も気付かなかったなんて。
慣れ親しんだこの街に未知のものがあったことを知って、ちょっぴり胸がわくわくした。
腕時計を確認して、家を出る時間までまだ余裕があることを知って、私は意気揚々とトンネルをくぐったのだ。
トンネルは思ったよりも長かった。じめじめとした土に足音が全て吸収されてしまうようで、自分の呼吸と心臓の音以外に何も存在しないその空間は、日常から切り離された異世界のようだった。
やがて前方に溢れる光が現れて、私はようやくトンネルを抜けた。そして驚いた。
目の前に欧風の——ドイツの片田舎に似た街並みが広がっていた。私ははじめ、その街を新しいテーマパークか何かだと思った。けれど、街へと続く砂利道を歩いているうちに、おかしなことに気が付いた。周辺の山の樹々が、住み慣れた街のものとは明らかに違っていたのだ。
私は慌てて元来た道を駆け出した。そんなに歩いていないはずなのに、横腹が痛くなるまで走っても、あのトンネルには辿り着けなかった。
私は途方に暮れて、砂利道の真ん中で立ち尽くした。漠然とした不安はあったけれど、そのときは特に悲しいとか怖いとか、そういった感情はなかった。けれども私の視界はあっという間に涙で歪み、あたたかい雫がぼろぼろと頬を滑り落ちはじめた。
私は昔から涙もろく、子ども向け映画のちょっとした感動シーンでも号泣するタイプだった。歳を取ると涙腺はさらに緩み、涙もろさは加速して、三十も半ばの今では日常の些細な出来事にも涙するようになってしまっていた。
一度泣き出してしまえば感情もあとからついてくるようで、私はひっくひっくと喉をしゃくらせながら、街に向かって砂利道を歩きはじめた。
ようやく街の入り口らしきアーチ状の門が見えたところで、道の傍に建っていた掘っ建て小屋から若い男が姿を現した。
男は不審者を見るような目で私をじっと睨め付けて、それから私をつま先から頭のてっぺんまで観察して、太い眉を顰めて言った。
「この国の者ではないな。一体何処から来た」
そんなこと私が聞きたい、と私は思った。途方に暮れたまま事情を説明すると、彼は僅かに考え込んで、それから彼の家に招待してくれた。
街の片隅に建つ彼の家へと向かう途中、彼はぶっきらぼうに私に告げた。
「この国では涙を流すのは恥ずべきことで、泣くなんて以ての外だ。気をつけたほうがいい」
***
彼の家族は皆優しくて、見ず知らずの私に良くしてくれた。
行く宛もなければ持ち金もなかった——小銭は持っていたけれど、この世界では通用しなかった——私に、彼らは温かい寝床と美味しいご飯を与えてくれた。幸いなことに言葉は通じたので、三日ほど彼らの世話になったあと、私は街の食堂で住み込みのアルバイトをはじめた。
食堂にはたくさんのお客がやって来た。昼食の時間になると、彼も同僚と顔を出した。
散々世話になったのに彼の名前すら知らないことに気がついて、私は彼に名前を尋ねた。
彼の名前はハインツといった。私が好きなケチャップと同じ名前だった。
どうやら彼は国境警備の仕事を任されているようで、一日中あの掘っ建て小屋で暇を潰しているみたいだった。
彼は毎日のように同僚と昼食に訪れた。私ははじめ、彼とその同僚は昼食のためだけに店を訪れているものだと思っていた。けれど、十日ほど過ぎた頃、ようやく本当の目的に気が付いた。
食堂には私のほかに可愛い女の子の店員がいて、彼女は私にとても懐いてくれていた。あるとき彼女は私に相談を持ちかけてきた。
それは長年に渡る、彼女の恋の話だった。
彼女は国境警備を務めるハインツの同僚に想いを寄せていた。そしておそらく、それは向こうも同じだった。
私はハインツと結託して、お節介ながらにふたりの仲を取り持った。その甲斐もあってか、ある晴れた昼下がり、ハインツの同僚は彼女に指輪を贈り、プロポーズした。
そのときのふたりがとても幸せそうだったから、積もり積もった長年の想いが実ったことに感動して、私は泣いた。
彼女は泣きそうになりながらありがとうと言ってくれたけれど、店先で泣くなんてみっともないと大将に責められて、私はその日、食堂をクビになった。
***
私の次のバイトは道沿いにある小物屋の店番だった。お店には色々な物が売っていて、時折ハインツが物資の買い出しに訪れた。
店の主人は年老いた犬を飼っていて、私はよくその犬と一緒にお昼を食べていた。私は実家でも犬を飼っていたから、家の犬を思い出して、ちょっぴり寂しくなって泣きそうになったりもした。
ある朝、店の主人に頼まれて、私が餌をやりに店の裏手に向かうと、その犬は小さな小屋の中で死んでしまっていた。
老衰だった。仕方のないことだった。それでも私は悲しくて、店先でぼろぼろと涙をこぼして泣いてしまった。
たまたま通りかかったハインツが街ゆく人の目から私を隠してくれたので、そのときは誰にも涙を見られずに済んだ。けれど、次の日もまた次の日も、死んだ犬のことを思い出しては涙が溢れてしまい、私はまたみっともないと責められてバイトをクビになった。
異常に涙脆い私には、この世界は厳しすぎた。
事あるごとに私は泣いてしまい、街中の店という店を転々としているうちに、やがて働き先がなくなって。途方に暮れた私は、ふとあのトンネルを思い出した。
元の世界に帰りたくて、私は砂利道を歩き出した。
日が暮れて夜になっても、私は立ち止まることなく砂利道を歩き続けた。吹き付ける風は冷たくて、手がかじかんで唇が震えた。お腹もとても空いていて、何も持たずに街を出たことを後悔した。
いつかトンネルに辿り着くはずだと信じて夜明けまで歩き続けたけれど、新しい陽の光のもとで私の目に映ったのは、街の入り口の、砂利道の傍に建つ掘っ建て小屋だった。
私はその場にへたり込んだ。私が歩いて来た砂利道は、どこまで進んでもこの街に繋がっているようだった。
トンネルがあったはずの道の先を振り返り、私は呆然と立ち尽くした。凍え切ったからだに朝日が沁みた。冷たい風にぶるりと身を震わせたところで、私の肩にふわりと温もりがおりてきた。
振り返るとハインツがいた。彼はひどく表情を曇らせていたけれど、私の肩をコートで覆い、冷えきった手を握って、おもむろに口を開いた。
「街を出るのか」
彼の問いには答えることができなくて、私は黙ってうつむいた。
帰りたかった。歳を重ねて涙もろくなっていく私が泣いても許される世界に。
私が黙っていると、ハインツは少し困ったように目を逸らして、それからぶっきらぼうに言った。
「行くところが無いのなら、俺の家に来ればいい」
彼の言葉は、意外にもすんなりと私の胸に落ちてきた。けれど、私は素直に頷くことができなかった。
「私はすぐに泣いてしまうから、きっとあなたに迷惑をかけるわ」
「構わない」
「あなたが良くても私は嫌よ。あなたに恥をかかせたくないわ」
涙腺の緩みきった涙もろい私が蔑まれるこの世界では、私は普通に生きることすら許されない。悲しくても嬉しくても、辛くても苦しくても、泣くことができないなんて耐えられない。
私は悲嘆に暮れていた。良い歳をして簡単に泣くなんて情けないことだと思うけれど、こればかりはどうしようもないのだから。
うつむいたままの私の頭にハインツが優しく触れる。躊躇いがちに、彼はその言葉を口にした。
「それなら言い方を変えよう。俺と結婚してくれないか」
***
そうして、若くもない、何の取り柄もない、この世界では恥さらしと罵られるだけの私にも、素敵な旦那様ができた。
ハインツと私の結婚式で、私は嬉しくて泣いてしまったけれど、彼は私を責めたりしなかった。彼はただただ幸せそうで、すすり泣く私を見守ってくれていた。
彼はいつも無愛想で、この世界の人間らしく涙を見せない人だったけれど、情に厚く優しい人であることを、私はちゃんと知っていた。
彼の妹が結婚したとき、私は感動して泣いた。けれども彼は泣かなかった。
私たちのあいだに赤ちゃんが生まれたとき、私は嬉しくて泣いたけど、やっぱり彼は泣かなかった。
彼が可愛がっていた愛犬が死んだときも、彼の両親が亡くなったときも、私はいつも泣いていたけれど、彼は決して涙を見せなかった。
「きみが代わりに泣いてくれるから、俺は恥をかかずに生きていられるんだ」
いつだったか、彼が私に言った。
私はこの世界で一番の恥さらしだったけれど、私が泣くことで彼が恥をかかずに済むのなら、いくらでも代わりに泣こうと思った。
この世界には、泣きたくても泣けない人がきっと大勢いるはずだから。
だから私は、彼らのために泣こう。
私だけは、泣かずにいられない人々の味方でいよう。
私はきっとそのために、この世界に招かれたのだ。
***
あたたかいベッドの上で、私は宙を見上げていた。傍らには愛する夫と三人の子どもたち、そして七人の孫がいる。
涙もろい私は、子どもが生まれても孫が生まれても、嬉しいときも悲しいときも、楽しいときも辛いときも、いつも泣いてばかりだった。
私の傍に腰掛けて、しわくちゃになった私の手を握る夫に向けて。私は精一杯の掠れた声を絞り出した。
「泣いてばかりでごめんなさいね……」
この歳になると涙も枯れてしまうようで、あの頃のようにぽろぽろと涙がこぼれることはなかった。けれど、夫はいつものように私の目尻を指先で拭ってくれた。
「泣いてばかりのきみだから、子供たちも孫も、きみの前では泣くことができた。皆、きみに感謝しているよ」
「そう……それならよかった」
呟いて、私は穏やかな気分で目を閉じた。
夫があの言葉をくれてから、私はいつも皆に言い聞かせてきた。
辛いときは泣けばいい。悲しいときも悔しいときも、泣きたいときは泣いていい。
私だけは、あなた達の涙を馬鹿にしたりしないから。
私にだけは、あなた達の涙を見せてちょうだい、と。
けれど今、私の手を握る夫の顔を見て、私ははじめて思った。
繰り返し口にしてきたそれらの言葉を、ひとつ残らず取り消してしまいたい、と。
「泣かないで……私、幸せだったわ……」
私の命の灯火が、深い闇の奥に消えていく。
残されたちからを振り絞って、私は重いまぶたを開けた。
深々と皺の刻まれた彼の眦から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
初めて目にした彼の涙は、どんな宝石よりも美しくきらめいていた。