遠さ
走っているうちに不安になる。もしかしたらもう届かない場所に行ってしまったんじゃないか。もう助けることが出来ないぐらい、遠く手の届かない場所に行ってしまったんじゃないかと、疑ってしまう。
なんども気がぬけそうになるのをこらえて、足を前に出す。全力だ。駅までの距離を最速で走りきるスピードとペースを保つ。
スカートの中のいつも風の当たらないところまでひんやりする。
大通りに出る。広く、長い道。車のライトが暖かい色を出して連なっている。街灯の光、ビルから漏れる光が都会の夜を彩る。
そしてその先に、制服姿の少年が見える。巧さんもまだ走っている……いや、何から逃げているように見える。続かないのに全力で走ったり、休んだりしながら駅に向かっている。やっぱり、走るのは遅いし、下手だ。
私から逃れようとしているのかな。
追いかけてくるのを見越して?そうじゃなくても、単純に会いたくないのかも知れない。
そう考えたら、ずきりと心が痛んだ。
それでも足は止めない。それは自分の意思ではなくて、なんだか不思議なものに導かれているように感じる。
走れば走るほどに近づく。大きくなって行く。そしてそのたびに速く、足を強く踏み出す。思考は単純になり必要ない感覚は鈍り、もはや世界に私と彼以外、何もなくなってしまったように感じた。
「私はあなたに追いつけるでしょうか」
数学の問題のように余計なことは何もない。
あの信号を渡った先にいる。
駅前の最後の信号、逃したらもうダメかも知れない。
しかし青が点滅し始める。強引に渡ろうとするがそもそも横断歩道に入りきるまでに赤になってしまう。
「くっ」
強制的に足がとまる。躍動していた体がとまる。
そのとたん、じわりと身体が熱くなって汗がどうと吹き出して額を流れる。
慣れ親しんできたスポーツの快感が、場違いに体を包む。
もっと激しく動き出す肺と心臓。
焦燥で厳しくなる目つきで信号の向こうの学ランの彼を見る。
「巧さん!」
呼びかける。それにもかかわらず下手なフォームで走り出してしまう。気づいていないんだ。
そうだ、耳が悪いんだったな。
遠くにいるんだ。目に見えるよりずっと。
それなら私が届かせる。乗り越えてみせる。
「たくみさんっ!」
全霊で叫んだ。周りの歩いている人の顰蹙を買う。それでもいい。
それでもいい!
「たくみさんっ!」
体を折ってお腹から声を出す。昔、何気なく練習してた腹式呼吸を思い出す。
周りの冷たい視線と嘲笑に包まれながらコンクリートの地面を見ていた。
声と一緒に涙が押し出されてきた。視界が滲んで街の明かりがゆらゆらと揺らめく。汗もダラダラと出てきてもう何も見えない。
車の音が聞こえる。
信号が青に戻ったようだ。
涙を拭うのが怖くなった。目の前の景色をはっきり見るのが怖いのだ。
顔を上げた先にいるのだろうか。
その信号を渡った先に彼はいるのだろうか。
私の声はちゃんと届いただろうか。