逃避か追走か
「すいませんちょっとトイレ行ってきます」
そう言って巧さんは乱暴にドアを開けて出て行った。
「どうしたんですか!」
「ちょっと浅野!」金子先生も叫ぶ。
呼び止めようとしたが、構わず廊下の先に走って行ってしまった。
面談室のドアがガタンと言って閉まる。
そのとたんに寂しさが、サッと影をさした。
何も言えなくなってしまった。
絶対、トイレじゃないよね。
私は確信する。
さっきの麻生先生のセリフ。
『君が難聴だということを証明できるか』
あれのせいだ。
言った本人の方は、無表情で椅子に座ったままだ。
誰も何も言わなかった。どうしたらいいのか探り合っているような時間。
金子先生の方を見るとばつの悪そうな顔をして腕を組んでいる。麻生先生にはっきり物を言えなくて、じれったそうだ。
やや暗めの照明が、先生の顔にくっきりとコントラストを作って一層、表情が不機嫌に見えた。
そして私と目が合うと、意思を汲むように麻生先生に向き直って、
「信じてやらないんですか」
と言った。
それに麻生先生はぶっきらぼうに返す。
「急に難聴だと言われて不自然に思ったからだ。本を買わせるためにそう言った可能性も考えるべきだろう」
腕を組んで、こちらを睨みつけてくる。
「それに、彼女とは話せてたと思うが」
「違います」
怒りで勝手に口が動いていた。
「話せてたからって、なんともないわけじゃないです。
もうちょっと理解しようとしてあげてもいいんじゃないですか。」
頭が熱く痺れたようになっていた。大人に刃向かう自分というものになれていなくて、受け止め方がわからないのだ。
非現実的な気分をさらにかき乱すように心臓が、激しく動き出す。
「そもそも、理解されようとせずに逃げたのは、彼の方だが」
「ぐ」
それは先生があんなこと言ったからじゃないか。
言い返そうとしたのに、声が出ない。
ぐっと握った手からじわりと汗が滲んできた。悔しさから出る黒い感情が心を蝕む。
どうしてこんなに頭が堅いの。
痛いぐらいに唇を噛み締めて必死に押し殺す。
麻生先生は何も言わない。
きっと私が熱くなって何か言ったところで揚げ足をとる気だ。冷静にならなきゃ負ける。
このまま何も言わずに巧さんを待つか、勝負に出て私1人で説得するか。
駄目だ。
難聴でもなんでもない私が言ってもいささか説得力がない。それに巧さんはどこに行ったかわからない。
体から冷や汗が出る。首の裏が、じっとりと湿って不快だ。
「早くしてくれないか。」
高圧的な声で、催促される。
それでも緊張で何も言葉が出てこない。
この感覚は、同じだ。
私が、小説を書くのをためらうのも、怖いからだ。
努力が、崩れてしまうのが怖い。必死に勇気を振り絞って、ここまで来たことが無駄になることが怖い。
「あ、あの」
声を発したとたん、ぶるりと体が震えた。
『残念ながら、落選とさせていただきます』
怖い。こわいよ。
出来上がったはずの私の城は、崩れかかっていた。完成したつもりだったんだ。本当は欠陥品なのに、そのことに目をつぶって完成したつもりになってたんだ。
積み上げてきた私が一番知っている。
そして一番先に、崩れ落ちる音を聞くことになる。
トランプタワーのように、息を吹きかけただけで、壊れてしまう。跡には、紙くずだけ残る。
「猫実。」麻生先生の声が冷徹に響く。
「もう下校時間だ。どうせ君は、本なんかいらないんだろう。彼に振り回されてご苦労だったな」
「ちょっと麻生先生、」金子先生が、諌めるように言った。
「もう帰りたまえ」
麻生先生はそんな彼女を無視して、切り上げようとする。
悲壮な金子先生の顔と目があった。
いつもは元気そうに見えるショートカットが信じられないぐらい似合ってない。
とっさに目を背けて、背中を向ける。
「そ、そうですねっ。ではさようなら」
言い終わらないうちに、足がドアに向かって走っていた。
「おい、猫実待てって!」
金子先生の叫びを後ろに聞いて、暗い廊下を走っていく。
ずんと重い澱がたまっているかのように頭が痛い。
できることなら、忘れてしまいたい。
何もかも。
自分が大嫌いだ。