見えない聞こえない
本能的にお助け部の部室に向かっていた。
歩くことで、少し気が楽になった気がした。
いや、歩くことに集中することで、他のことを考えずにすんだ。
グラウンドの脇のプレハブ小屋に戻る。
「お助け部」
と猫実さんの字で書かれた看板が部室のドアに貼ってある。
つけたままにされた電気が磨りガラス越しに眩しいぐらいの光を放っていた。
鍵はまた、閉め忘れていた。
そのことにもなぜか、腹が立った。
勢いに任せて飛び出した自分たちが恥ずかしかった。
難聴はコミュニケーション障害である。
人に自分のことをわかってもらうというのはもっとも苦手とすることだ。
考えなしにやって出来るわけないだろう。
それだからこそ、「障害」なのだろう。
結局、麻生先生はわかってくれなかった。
『君が難聴だという証拠はあるか』
ないのかもしれない。
自分は聴覚障害の中でも軽い方だ。
もっと聞こえない人もいる。全く聞こえない人もいる。それによって話すことさえできない人もいる。
だから、いくらか聞こえている自分は恵まれている方なのだ、と思うしかない。
部室の中央に置かれたバッグを見つめていた。
教科書がたくさん入ってそうな角ばりが見えるのが、猫実さんのバッグ。そして、椅子の下に置かれた、自分のバッグ。
何にも特徴がないのがかえって目立つ。
ゆっくりと持ち上げる。音もなく。
静かだ。
意識すると、耳鳴りがした。
高くキーンという冷たい音が耳の中で響く。
全体的に「耳が悪い」のだ。
普通の人はどうか知らないが、こういった耳鳴りは日常茶飯事だ。
すっかり慣れてしまったその音と言えるかどうかもわからない何か。
皮肉にも、耳の悪い自分だけに聞こえる音。
猫実さんには聞こえないでしょう?
麻生先生にも聞こえてないでしょう?
実際には、ないのに聞こえる音。
実際には、ないのに痛む傷。
証拠は自分の中だけにしかない。
これまで聞こえなくて困ったことも全部。
証明する方法はないのかもしれない。
わかってくれた気になってただけかもしれない。
聡明な夜桜先輩ですら、自分の心をどこまでも見通せる訳ではないのだ。
ただ、今まで人を避けすぎていて、優しくされるのに慣れてなかっただけだ。
原因は難聴。
『認めるしかないんだよ。そのままの君でいいんだ。』なんて。
耳が聞こえない自分も、そのことを慰めようとする自分自身も気持ち悪い。
巧は、ため息をついた。
体温が抜け出ていくようだ。
早く家に帰ろう。今日はもう寝よう。
プレハブ小屋からから抜け出す。
空を見る。真っ黒だ。
グラウンドを横切って正門への道を歩き出した。
ふと、猫実さんの声が聞こえたような気がして振り返る。
しかしそこには広いグラウンドが横たわっているだけだ。
また見えない何かが疼く。