問題編
乾いた破裂音が夜の街に響く。同時に、年老いた男は横に飛んだ。
放たれた弾丸は肩を掠め、そこから僅かに血が流れ出た。けれども、男は痛みを意に介さず、すぐに立ち上がって向かいに立つ女に微笑を見せた。
「危機一髪だったぜ」
その言葉に対し、パピヨンマスクを装着した女は自嘲気味に応えた。
「まさか最後の一発までかわされるなんて思いもしなかったわ」
懐かしむように、慈しむように、二人は見つめ合う。
「俺が何年、お前のケツを追ってきたと思ってるんだ?」
「かれこれ二十年かしら。気心の知れた夫婦みたいなものね」
「そうさ。お前の弾丸をかわせるのは俺だけだ」
「全国のトイレを破壊するという私の野望は、ここで終えるのね」
男は自身の懐をまさぐり、手錠を取り出した。
「一つだけ聞きたい。どうして最後のトイレは俺の家のトイレにしたんだ?」
「それは……」
女は少しく思案する素振りを見せ、それから、ゆっくりと両腕を差し出して続く言葉を口にした。
「……心のどこかで、こうなることを望んでいたからかしら」
厳かな儀式を執り行うように、男は、差し出された腕に慎重に手錠を掛け、そして言い放った。
「トイレ破壊魔・便姫、逮捕する!」
回る、回る、運命のカード。
最後の一枚が切られてゲームは終了した。それは必然と言えるであろう。物語は必ず終わるものなのだ。同様に、物語には必ず始まりがある。
さあ、便姫の放った最初の一枚について語ろう。
* * * * * *
* * * *
* *
二十年前――
風を切る微かな音と共に、一枚のトランプはテーブル中央に舞い降りた。
ライブの打ち合わせ最中であったアイドルマネージャー羽田恭子(27)とプロデューサー草部陽三(39)は、険しい面持ちでそのカードを見つめた。
「またか」
草部が零す。
次いで、羽田が開け放たれたままの窓から身を乗り出して呟いた。
「誰もいませんね」
そこはライブハウスの一階控え室であり、窓の外は駐車場になっていた。羽田の見つめる先には搬入用のトラックが一台あるだけで、怪しい物は何もない。
「羽田ちゃん、やっぱり警察に通報しようよ」
草部のその言葉を聞いて羽田は溜め息をつきながらカードを手に取った。絵柄はハートのA。裏返すと、そこにはメッセージが刻まれていた。
『本日、そこのトイレを破壊します』
羽田はそのカードをテーブルに叩きつけた。
「草部さん、通報なんてしたらアキの経歴に傷が付きます!」
「でもさ、犯人は明らかにストーカーだよ? 今はトイレを壊されているだけだけど、いずれはアキに被害が及ぶかも知れないだろ」
「…………」
「僕は通報するよ」
室内をうろつきながら携帯で警察に連絡をする草部を横目に、羽田は諦めたようにパイプ椅子に腰を掛け、頬杖をついた。
午後三時。所轄の警部・浅倉忠直(40)とその部下・宮下姫子(24)が現場の控え室に到着すると、そこには震えながら椅子に座る三嶋アキ(15)がいた。露出度の高いフレアなミニスカートを履いてはいるものの、その顔立ちは清純そうであり、いかにもアイドル然とした少女だ。
そんな彼女に対し浅倉が警察手帳を提示して挨拶をすると、その隣にいたキツそうな顔付きの女性が名刺を差し出してきた。
「アキは話が出来る状態ではないです。お話なら私が伺います」
名刺を受取った浅倉がそこに書かれた肩書きを見ながら言う。
「マネージャー? 芸能関係の方で?」
「はい。三嶋アキの担当を務めている羽田と申します」
曖昧に頷く浅倉の顔を見て、姫子は、この人は分かっていないと察し、そっと耳打ちをした。
「浅倉警部、三嶋アキさんは最近話題の地下アイドルですよ。『アキはウンチをしません!』っていう広告を見たことありませんか?」
「なんだ? その下品な広告は」
その言葉を聞かれてしまったのか、部屋の隅にいた小太りな中年男性が会話に割り込んできた。
「『アキはウンチをしません!』っていうのは、僕が考えたアキのキャッチコピーですよ……あ、申し遅れました。僕はプロデューサーの草部と言います」
浅倉は納得のいかない面持ちで草部に尋ねた。
「三嶋アキさんは排便をしないのですか?」
「いやいや、あくまでコンセプトみたいなものですよ。ほら、昨今のアイドルは身近になり過ぎて神聖性が失われつつあるでしょ。だからインパクトのある比喩的なキャッチコピーを設けただけです。実際にウンチをしない訳では……」
「草部さん! アキは本当にウンチをしません!」
そう叫んだのはマネージャー羽田であった。
険悪な空気を感じ取った姫子は、慌てて話題を変えることにした。
「あ、あの、さっそくですが事件についてお教え頂けませんか?」
羽田と草部が頷く。そうして、二人から事件の概要が語られた。
発端は二カ月前、アイドル・三嶋アキのライブ会場のトイレが破壊されたことに始まる。当初はただの悪質なイタズラと思われていたのだが、次のライブ会場において予告の記されたトランプが届いたことで、ターゲットがアキであることが判明した。その後、彼女がライブを行う度に、トランプによる予告が行なわれ、トイレが破壊されてきたそうだ。
話を聞き終えた浅倉は羽田に尋ねた。
「予告状を見せて頂けますか?」
すると羽田はテーブルの上にあるトランプを示した。そのカードには、『本日、そこのトイレを破壊します』と書かれていた。
続け様に浅倉が問う。
「今までの予告状は?」
「不愉快なので捨てましたけど、悪かったかしら?」
「羽田さん、それは証拠隠滅ですよ」
喧嘩腰の二人をなだめようと、姫子は小声で浅倉の名を呼んだ。
「浅倉警部……」
と同時に、ずっと震えていた少女・アキがお腹を押さえながら片手をあげた。
「す、すみません、化粧室に行ってきても良いですか?」
その言葉を聞いて真っ先に返事をしたのは羽田であった。
「そうね。本番前に化粧を直したほうが良いかも知れないわね」
もちろんそれは方便であろう。鏡ならば控え室にもあるので、メイクのためにわざわざ化粧室、即ちトイレに行く必要などない。
姫子はあえてそのことには触れず、アキに声を掛けた。
「犯行予告もあったので、安全のために私も一緒に行きますよ」
「俺も一緒に行こう」
そう言ったのは浅倉である。
用を足す女性に同行しようとするとはデリカシーのない男だ。否、ひょっとすれば彼は化粧直しという言葉を真に受けているだけかも知れない。
いずれにしても上長の提案を却下する訳にもいかず、姫子は小さく頷いた。
女子トイレは控え室の隣にあった。一般客が使用することのできない楽屋裏のトイレなので、個室が一つしかない狭いものだ。
さすがに個室の目の前までついて行く訳にもいかず、浅倉は、そして姫子も、トイレの入り口前でアキが出てくるのを待っていた。
その時である。銃声に似た破裂音が響き、直後、アキの悲鳴が聞こえてきた。
「アキさん、大丈夫ですか!」
叫びながら姫子はトイレに突入した。
アキは、尻餅をついた状態で、開いたままの窓を指差していた。
「そ、そこに、蝶の仮面を被った人がいたんです……」
「蝶の仮面?」
疑問を口にした時、背後から唸り声が聞こえてきた。振り返ると、そこには腕を組んで個室内を見つめる浅倉の姿があった。
「ちょっ、浅倉警部、どうして普通に女子トイレ内にいるんですか。しかも、使用直後の個室をマジマジと見るなんて失礼ですよ!」
だが浅倉はそんな意見など気にも留めず、淡々とこう述べた。
「姫子、これを見てみろ」
浅倉の視線の先、個室内には、粉々に砕けた便器があった。
「アキ、大丈夫か!」
「いったい何があったの!」
草部と羽田がアキに駆け寄る。
するとアキは我に返ったように立ち上がって、お腹を押さえた。
「だ、大丈夫です……そ、それより、他の化粧室に行ってきます」
彼女は走り出した。当然ながら姫子もすぐに後を追った。
そしてアキが二階のトイレに入った直後、再び破裂音とアキの悲鳴が響いた。
結局、ライブ会場のトイレは全て破壊された。
犯人は銃火器を携帯している可能性が高いことから、応援を要請して周辺の警備を強化、あわせてこの日のライブは中止されることとなった。
マネージャーの羽田は中止について文句を言っていたが、姫子が仮説を述べると、途端におとなしくなり、桃色のハンカチで額を押さえながら呟いた。
「……私達の中に犯人がいるですって?」
「はい。控え室の隣のトイレは窓が開いていましたが、それ以外のトイレの窓は全て施錠されていました。楽屋裏には関係者しか入れませんから、その可能性が高いと思っています」
「一理あるわね。でも、私と草部は容疑者から除外されるわ。二階のトイレが破壊された時、一階で浅倉さんと一緒にいたもの。犯人は他のスタッフ、もしくはもう一人の出演者、そうよ、あの娘が一番怪しいわ……」
「もう一人の出演者?」
「ええ。アキはまだマイナーアイドルなのでワンマンライブは少ないの。今日に関して言えば、手品師アイドル・プリンセスダリアって娘も出演予定だったのよ。あの娘ならトランプも仮面も持っていると思うわ」
「はあ……」
姫子は短く返事をし、それからプリンセスダリアのもとへと向かうことにした。
ダリア(20)は、観客のいないステージで手品の練習をしていた。
姫子は事情聴取をするにあたって浅倉の姿を探したが、見つけることが出来ず、一人で彼女と話をすることとなった。
「……ダリアさんはトランプを持っていますか? って、持っていますね」
バニースーツを纏ったダリアは、右手から左手へとトランプのカードをパラパラと飛ばしていた。
次にどんな質問をしよう。そう思った時、ダリアから声があがった。
「トイレが壊されたみたいですね。それもトランプで犯行予告があったとか」
「あ、はい、良くご存知で」
「そりゃ、ライブが中止になったんですもん。その理由くらい確認するでしょ。で、私のこと疑ってるんですか?」
「いえ、参考までにお話を伺いたいだけです……」
「どうせアキちゃんとこの羽田マネージャーが、私が怪しいとでも言ったんでしょ? あの人さ、仕事熱心なのは良いけど、ライバルを潰そうとするのはやめて欲しいよね。あ、ちなみに私は犯人じゃないですから。トランプなんて何処でも入手できるし、カード投げだって練習すれば誰でも出来ますよ」
「そういうもんなんですか?」
「人差指と中指でカードの角を持ち、スナップを利かせて投げる。コツは前に飛ばそうとするより回転させるイメージですかね。こんな具合に」
ダリアが右腕を振ると、客席に向かって勢い良くカードが飛んでいった。
「凄い!」
「もっと上手な人だと六十メートル以上飛ばしたり、野菜を切断したりも出来ますよ。あと、こんなことも出来ます」
再びダリアが腕を振ると、今度はカードが弧を描いて飛び、ステージを一周してブーメランのように彼女のもとに舞い戻ってきた。
「自由自在ですね……」
「あ、刑事さん。せっかくだからこれを使ったマジックを見ていってください」
姫子は頷き、言われるがまま彼女の手元を見つめた。
ダリアがハートのAを引き抜き、腕を振って投げる。それは再び弧を描いて彼女の左手にあるカードの束に突き刺さった。そして、ダリアが束を起こして刺さったカードの絵柄を見せると、それはハートのAではなく、ジョーカーになっていた。
「あれ! いつの間に!」
「キャー、驚いてくれてありがとう! お礼に、隠すほどのトリックじゃないから種明かししちゃおうかな。実は投げたカードは刺さっていないんです。ハートのAを普通にキャッチして、あらかじめ用意しておいたジョーカーを束から飛び出させただけなんですよ。すると、刺さったように見える」
「あらかじめ、用意?」
そう呟き、姫子は腕を組んで視線を上に向けた。その時、天井のスピーカーが目に入った。
脳裏に一つの考えが閃く。そうか。この方法ならば誰でも犯行は可能だ。それこそ、あの人であっても。しかしそうなると、蝶の仮面の人物が何者なのかが問題になってくる。
「宮下刑事、駐車場で浅倉警部がお呼びです」
突然あがったその声は、警備中の警官のものであった。
姫子は承知した旨を伝えるために大きく頷き、それからダリアに向かって一礼をして駐車場へと走った。
「俺は何もしてないっすよ!」
駐車場では、蝶の仮面を被った男が浅倉に胸倉を掴まれて叫んでいた。捕獲される際に殴られたのか、その身体は傷だらけだ。
「おい! 正直に吐け!」
「本当に何もしてないっす。俺はトイレを覗いただけっすよ!」
「それは何かしたって言うんだよ! 変質者!」
もっともな意見だ。だが、このまま放っておいては浅倉の手によってトレイ破壊よりも更に凄惨な事件が発生しかねない。そう思って姫子は慌てて浅倉を止めた。
「浅倉警部、落ち着いて下さい。まずはこの人の主張を聞きましょう」
「姫子! 俺は! 落ち着いているっ!」
明らかに鼻息の荒い彼をなだめるのは難しそうだ。
姫子は諦めて、自ら変質者(24)に話を聞くことにした。
「覗いたってことは、アキさんがトイレに入った時の出来事を見たんですよね?」
「トイレだけじゃなくて、俺はいつもアキちゃんを見てるっす。ヘヘヘ……」
殴ってやりたい衝動に駆られるが、どうにか堪えて更に問い掛ける。
「その時のことを詳しく聞かせてくれませんか?」
「俺さ、アキちゃんを常に見守ってんすよ。でね、今日は偶然にもトイレの窓が開いていることに気付いたんで、アキちゃんが本当にウンチをしないのか確かめようと思って覗いたんす。そしたら……」
瞬間、破裂音が響き、一筋の閃光が走った。
その直後、変質者は膝をついて倒れた。
「変質者さん!」
叫ぶが、変質者は身動き一つしない。彼は、気を失っていた。
「どうやら、ゴム弾の代わりに粘土状のものを額に撃ち込まれたようだな」
浅倉の言う通りであった。良く見ると、変質者の額の中央が赤く腫れ上がり、そこに土のようなものが僅かに付着している。ちなみにゴム弾とは、暴徒鎮圧の際などに用いられる殺傷能力の低い弾丸のことである。
姫子は狙撃者の姿を求めて辺りを見回した。すると、何者かが建物の影に隠れるのが見えた。浅倉もその存在に気付いたようだ。二人は頷き合い、変質者の身柄を警官達に託して、怪しい人影を追った。
ところが建物の角を曲がると、既にそこには誰もいなかった。
「逃げられてしまいましたね……」
息を切らしながら呟き、指示を仰ごうと浅倉のことを見る。彼は、特に落胆した様子もなく、おもむろにしゃがみ込んで地面から何かを拾い上げた。
「まだ温もりがある。犯人が落としていったようだな」
浅倉の手には桃色の布切れが握られていた。
それを見て、ここまでの出来事の記憶が蘇える。姫子の頭の中で複数の点が繋がり、そして一本の線が浮かび上がった。
「浅倉警部、私、犯人が分かりました」
そう言うと、浅倉は不敵な笑みを浮かべて言葉を返してきた。
「奇遇だな。俺もそう言おうと思ってたんだよ……」
――つづく