鬼の下緒
最後の剣客に続いて幕末の歴史です。
こちらは土方歳三を主にしてみました。
陸奥国宮城郡の青葉山城に築かれた仙台城・・・・・・・・
青葉山に築かれた事から「青葉山城」という雅称(がしょうと言い、風流な呼び名)とも呼ばれている平山城だ。
その城は、かつて独眼竜と謳われた伊達政宗公が築造してから伊達家の居城として代々・・・・時代と共に生き、そして全てを見て来た城である。
地震により何度も修復されたが、それでも要塞として聳え立つ姿は正に独眼竜の手が入った城に相応しい姿だった。
しかし、時代は流れて行き・・・・要塞としての機能を終える時が近付いて来たが、それすら仙台城は黙って見守っている。
いや違う・・・・・・・・
彼の城は仙台折浜(現・宮城県石巻市折浜)に浮かぶ蒸気スクリュー商船の太江丸に乗り込む所の男を見守っていた。
その男は年齢が20代後半か、30代前半くらいで色白で引き締まった顔立ちをしており、とても長身で洋風の軍服が実に似合っている。
ただし、腰には刃渡り2尺8寸(84cm)もある大刀が茶の石目塗りに牡丹唐草と鳳凰の文様を抜き出した鞘に納まった状態で差されており・・・・その刀に結ばれた浅葱色の下緒(鞘に結ぶ糸)を大事そうに片方の手を添えていた。
男の名は土方歳三と言い、生まれは武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)であり身分は農民である。
しかし、彼の名を知らぬ者は京の都においては居なかった。
いや、今も知られており・・・・恐れられていると同時に新政府軍からは酷く憎まれている。
いや、これも違う。
彼は敵からも味方からも恐れられていた。
彼の渾名は「鬼の副長」と言い、京の都の治安を護っていた「京都守護職」の配下にあった「新撰組」の副長を務めていたのだから無理もない。
しかし、その新撰組も最盛期に比べれば著しく隊員数が少なく、また創設期に居た同志も・・・・殆ど居ない。
先ず慶応4年1月5日に起きた「淀千両松の戦い」において六番隊組長であり、多摩から共に来た井上源三郎を始めとした14名の隊士が死んだ。
そして以前から肺病を患っていた一番隊組長の沖田総司が千駄ヶ谷の植木屋に匿われ、完全に戦線復帰は出来なくなった。
続いて試衛館以来の付き合いである二番隊組長の永倉新八と十番隊組長の原田左之助が離脱し、靖兵隊を創設した。
ここに来て・・・・・慶応4年4月3日に彼が兄と慕い、そして武士になろうと一緒に頑張って来た局長の近藤勇が新政府軍に捕えられてしまったのである。
もちろん歳三は勇を助けんと各方面を走りに走り助命せんとしたが、全て徒労に終わり・・・・板橋刑場において彼は処刑された。
方法は武士らしい切腹ではなく罪人の如く手足を縛られ、そして左右から取り押さえられる形で首を前に出す「斬首」だった・・・・・・・・
あれほど武士に強烈なまでに憧れ、京の都を護らんと動いたが「壬生狼」と陰口を叩かれた勇は、罪人として処刑されたのである。
『何が錦の御旗だっ。てめぇ等だって京の都を火に包み込もうとしやがったじゃねぇか?!いや、江戸を放火しまくったくせに!!』
歳三は歯軋りして勇の無念さと己が無力さに怒りを覚えずにはいられなかった。
しかし、永倉や原田を始めとした者達が以前から勇の態度が横柄という事で悶着があったのは確かだ。
京の都で活躍するようになってからそうだが・・・・それでも歳三にとって勇は兄であり、同志である。
死んだ今も・・・・彼の中では新撰組の局長は近藤勇ただ一人だ。
今は自分が局長になっているが、それだって歳三から言わせれば仮に過ぎない。
それは・・・・会津に残った三番隊組長の斎藤一にも指摘された。
『土方さん。貴方は会津を捨て、仙台に行き戦おうとしている。その気持ちは理解できる。
しかし、我々は武士だ。武士が二君に仕えるなど士道に反するではないか。
きっと近藤さんも同じ気持ちと・・・・思うが?』
そう言って彼は生き残った隊員と共に会津に残り、歳三と一部の隊員は仙台に行った。
仙台藩は62万石の大藩であり「奥羽列藩同盟」の盟主を務める第13代目仙台藩主「伊達慶邦」公が居る。
彼の人物ならと思い、歳三は幕府艦隊を率いて合流した「榎本武揚」と共に会議に参加したが・・・・既に同盟は崩壊寸前で、どの藩も恭順の意を示した。
会津藩とは兄弟仲である米沢藩も同じであり、仙台藩も同様であった。
しかし、歳三は・・・・まだ戦うつもりだ。
『近藤さん・・・・見ていてくれ。俺は、戦う場所が在る限り何処までも戦い続けてみせる』
あんたは無念の死を遂げた。
他の隊員も同じだろう。
『なら・・・・俺も戦う。この草木を齧り、泥水を啜ってでも命が尽き果てるまで戦い続け、あんたと新撰組の名を後世にまで遺す』
そう歳三は朧夜に浮かぶ月を見て宣言した。
しかし、同時に慶邦公の事も思い出した。
初めて会った瞬間に身体中に衝撃が走ったのは記憶に新しい。
なるほど・・・・流石は独眼竜の末裔だけあって風格が違う。
そう思ったが、口から出た言葉は恭順だったから怒りに満ち溢れたのは言うまでもないだろう。
『貴方様達は上杉謙信公や伊達政宗公の末裔で在らせられる。それなのに恭順の意を示すとは何事か?!
謙信公や政宗公なら最後まで戦い抜いた筈だ!!
しかし、貴方様達は降伏する。
主人の為に最後まで身を粉にし戦い抜くのが武士ではないのか?
道理が通らずとも信念を曲げず貫くのが武士ではないのか?!』
あらん限りの批判を歳三は家老や藩主に浴びせた。
本来なら斬られてもおかしくなかったが・・・・誰も咎めようとはしなかった。
そして慶邦公は代表するように言ったのである。
『確かに・・・・そなたの言う通りだ。
我々は徳川家康公に仕えていたが、同時に一国を預かる身でもある』
もし、ただの一兵ならば・・・・・・・・
『最後まで戦い抜き、立派に死に花を咲かせた事だろう』
だが、一国の主ともなれば・・・・それは駄目だ。
『我々は大勢の民百姓の財産と生命を護る義務がある。
これは人の上に立つ者の宿命にして、何事にも顧みてはならぬ義務なのだ。
そなたの同志である近藤殿も・・・・そなた等を助けんが為に自ら出頭したのだろう』
そして・・・・・・・・
『斬首にされたのも仕方ないと思っているかもしれん。
戦国の世においては騙すより“騙される”方が悪いと言われ、勝者が歴史を作る。
今の世も同じだ・・・・道理が通らずとも勝者が道理を変えれば問題ない。
誠に酷い話なれど・・・・それでも仕方がないのだ』
初代藩主である伊達政宗公も同じだ。
『政宗公は死ぬまで天下を狙っていた。その証拠に図上演習を立案したし、瑞巌寺という出城も設けた』
図上演習では仙台川を堰き止め、仙台南部を水浸しにする事で幕府軍の進軍を阻止し、更には狭隘地に誘い込んで迎撃する。
その一方で江戸付近において一揆衆を幕府軍後方で扇動する事により後方攪乱するつもりだった・・・・・・・・
『そして失敗すれば瑞巌寺を枕に腹を掻っ捌くつもりだと言われているが、それを止めたのは・・・・既に時代が移り変わり、仙台藩と言う一国を背負っているからと思っている』
戦国の世なら出来た事も泰平の世では出来ない。
『恐らく政宗公も痛感した事だろう。そして死ぬまで野心を燃やしつつも結局は・・・・やらなかった。
これが一国の主というものだと思う私も・・・・それに倣う』
しかし、やはり心中は複雑だ。
『如何に勝者が歴史を作るとはいえ・・・・我々にも意地がある。
そして道理も貫きたい。
だから土方歳三よ・・・・そなたに頼みがある』
我々の代わりに・・・・・・・・
『戦い続けてくれ・・・・我々では出来ない死に花を咲かしてくれまいか?』
そう言って慶邦公は自身の佩刀に結んでいた下緒を解き、両手で歳三に握らせた。
『こんな物ですまないが・・・・これで我々の願いを聞いてくれまいか?』
「・・・・慶邦公」
歳三は閉じていた眼を開けて下緒を見る。
浅葱色は創設期に着ていた制服の色だ。
その色の下緒を藩主自らが渡して頭まで下げたのだから・・・・・・・・
「伊達男は、本当だな。良いでしょう。慶邦公・・・・貴方様達の願い、この新撰組副長の土方歳三。身命を賭して叶えてみせましょう」
そう言って歳三は大江丸の中へ消えていき・・・・大江丸は仙台から蝦夷地(現在の北海道)へ舵を切った。
その光景を青葉山城は静かに見守り続け、間もなく訪れるであろう自身の最後も見守るが如く朧夜に輝く月に己が勇姿を見せ続けた。
時に明治1年(1868年)10月12日の事だが・・・・・・・・
北の果てまで行ってから僅か7ヶ月後---明治2年(1869年)5月11日、に土方歳三は世を去った。
奇しくも近藤勇と同じ享年35歳だった。
土方歳三が死んでから僅か6日後には榎本武揚が総裁の「蝦夷共和国」は新政府軍に降伏し、これにより戊辰の役は終わりを告げた。
そして時は流れること現代の平成。
長い歴史を見守り続けた青葉山城は明治4年(1871年)に本丸が破壊されたのを皮切り火災等の災害に遭い、今では三の丸の巽門のみが残されている。
しかし、それでも彼の城は己が姿を今も遺し続けている事に変わりはない。
また鬼の副長と恐れられた新撰組副長の土方歳三の愛刀も独眼竜の末裔が送った下緒と共に今も・・・・後世に名を刻み続けている。
鬼の下緒 完
現在、この下緒は越前康継に結ばれ資料館にあると友人が聞いておりますが、何れは・・・・見に行くつもりです!!