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オタクの恋、オタクな恋

作者: 佐田直貴

プロローグ


 谷沢秀樹はオタクである。

 ラノベが好きで、ギャルゲも好きで、アニメも好きで、秋葉原も好き。フィギュアには金銭的問題が立ち塞がり手を出していないが、その内出す予定だ。平凡だとは口が裂けても言えない、高校二年生である。

 外見こそ悪くないものの奥手である彼は、今まで恋というものをしたことがなかった。女の子を可愛いとは思うものの、ラノベやギャルゲで見るような『恋』という感情まではいかなかったのだ。

 ――つい、この瞬間までは。

「ご、ごめんなさい」

 放課後。『今日はアニメ化したラノベを買いに行こう』と意気揚々と教室を出たところで、秀樹は一人の女性とぶつかった。

「あ、いや、こっちこそごめん」

 慌てて謝り、彼女とぶつかったときに散らばったプリントを拾う。

「はい、これ」

 そしてようやく相手の顔を見た秀樹は、思わず硬直してしまった。

 ――可愛いい。

 その一言で全てが説明できる容姿であった。しかしそれでは味気ないので好きなラノベ風に描写するならば、透き通るような雪の肌に、形のいい輪郭をした顔、眉はキリッと自然な感じで、茶色の瞳は可愛らしく輝いている。鼻はスッとしていて、唇はストロベリーマシュマロのように弾力があっておいし――いかん、これはギャルゲ的だった。

 秀樹は慌てて浮かんできた単語を振り払う。

「えっと、どこか打った?」

 彼女は心配そうな顔で秀樹の顔を覗き込んできた。秀樹は慌てて身をかわす。

「いえいえ大丈夫ですどうかお気になさらずそれではっ」

 動揺しまくりの声で取り繕い、その場を去った。

 バクバクと波を打つ心臓を押さえながら、早足で家へと一直線。買おうと思っていたラノベのことすら、忘れてしまっていた。



 恋が、こんなにも苦しいものだとは知らなかった。

 住宅街も寝静まった深夜一時。胸の鼓動を抑えられないまま、秀樹は天井を見上げていた。ベッドに入って早二時間、一向に眠れる気配はない。十六歳にして初めて味わう恋というものに、どう対処していいのか全く検討もつかないのだ。

 それは待ちわびたラノベ新刊発売前夜とも、長い間並んでようやく順番が近づいてきた夏コミとも違う、期待感と焦燥感が混じったような、楽しいようで苦しい衝動だった。

 彼女は誰かと付き合っているのだろうか。腕を組んだり、手を繋いだり、キスをしたりするのだろうか。

 そう考えるだけで、胸がギュッと締め付けられる。ギャルゲで気に入っていたキャラが他のキャラとくっついてしまった時の様な、好きだったラノベが連載終了してしまった時の様な、言い様のない喪失感と虚無感に襲われる。

 嫌だ、彼女のそんな姿は想像したくない。

 だけど、どうしたらいいのかも分からない。

「うー、うー」

 秀樹は唸った。寝返りを打って、カーテンの方を見る。

 すると、隣の家の電気が微かに灯っているのに気がついた。

 窓と窓を挟んで三メートル。手は届かないけど、声は届く距離にその部屋はある。

 向井梓。

 幼馴染の存在を思い出した秀樹は、藁にもすがる思いで携帯を手に取った。

『明日、一緒に学校行かない? 相談したい事があるんだ』

 急いで打ったメールを送信。やはり起きていたのか、返事はすぐに来た。

『分かった。七時半に家の前』

 素っ気無い返事だったが、それだけで胸の焦燥が少し楽になった気がした。スウッとした安心感を覚え、秀樹は『ありがとう』と返信を打ち、ようやく襲ってきた睡魔を受け入れて眠りにつくのだった。



 翌日は、快晴だった。春の太陽が程よい暖かさと匂いを運んでくれる朝だ。はやる気持ちをなんとか抑え込みながら、秀樹は隣家の玄関を必死に眺めていた。

 携帯で何度も時間を確認する。まるで、アニメの第一話放映を待ちわびている時のような高揚感。

 十分ほど経つと、隣の家の玄関が開いた。スラリとした脚と、漫画のようなバランスのいい体躯が現れる。サラサラと流れる長い髪は太陽の光を浴びて茶色に輝く。

 女子にしては高めの身長は、秀樹より少しだけ小さい一六五センチ。整った顔立ちの中でもひときわ目立つ眼はキリッと鋭く、ギャルゲではツンデレフラグな顔である。

「梓っ」

 時間通りに現れた幼馴染に秀樹は手を振った。梓は片手を上げ、クールな足取りで秀樹に並ぶ。

 二人で家の前を離れたところで、梓が口を開いた。

「話って何? 悪いけど、今年の夏コミだったら一緒に行けない。ネットの人とコスプレ参加するから」

「あ、そうなの? って、コスプレ? 梓って隠れオタでしょ。そんなことしてネットで画像出されたら困るんじゃない?」

 秀樹は首を傾げた。美人で気が強いように見える彼女だが、繊細であるということは昔から知っている。オタクということを隠している彼女にとって、画像が出回ると言うのは致命的なはずだ。

 そう、秀樹が普通(?)のオタクならば、梓は隠れオタクなのだ。

「夏コミの後に近場で、仲間内でやるだけよ」

「そっか、それなら安心だ」

 ホッと一息つく秀樹。幼馴染が傷つくような姿は見たくない。

「……それで、夏コミじゃないなら、話って何」

 少し照れたように、ぶっきらぼうに梓が訊きなおした。心の準備が出来ていなかった&気の強そうな眼で見つめられた秀樹はビクッと体を跳ねらせる。

「え、と……その、さ」

 大きく息を吸う。バクバクと踊り狂う心臓を押さえながら、秀樹はキッと深刻そうな顔をして、梓に言った。

「好きな人が、出来たんだけど! どうすればいいかなっ?」

 朝の住宅街に、気合の入った秀樹の声がエコーした。



 胸がこんなにも苦しくなるなんて、思わなかった。

 梓は頬杖をつき、窓の外に視線をやった。教師の声をBGMにして、朝の出来事を回想する。

 真っ先に秀樹の「恋をした」という声が蘇ってきた。どうすればいいのか分からなくて、でもどうにか行動したいと、真面目な顔で言った幼馴染。

「分からないのはこっちだバカ」

 声には出さず、口だけ動かした。

 今まで一緒に漫画やアニメを追いかけていた幼馴染の顔が浮かぶ。部屋の窓を開けて本を交換したり、DVDを貸し合ったり。いつでも繋がっていられると思っていた。いつでも手を伸ばし合えば届く距離にいてくれた。

 ――ずっと、好きだった。

(どうしよう……)

 体を机に預ける。

 秀樹が他の女と仲良くしているところなんか見たくもない。ギャルゲやアニメに感じているであろう『萌え』とは絶対的に違う『恋』。そんなものを、自分以外に向けて欲しくない。

 でも、あいつが苦しんだり悲しんだりしている姿は、もっと嫌だ。

「――今日は、四月十九日か。出席番号十九……男子渡辺、女子向井、この問題を解け」

 名前を呼ばれた梓は体を起こす。黒板の前に立って、数式を分解。

(恋にも、数学みたいに決まった答えがあればいいのに)

 好きな漫画のセリフを思い出しながら、苦悩した。



 秀樹が恋をした相手は、クラスメイトだった。名前を中田芽衣といい、クラスでの人気も高い子だった。

 授業中、三列ほど離れた窓際の席に座っている芽衣を、秀樹は眺めていた。

 凛とした横顔がとても綺麗で、窓から差し込む春の陽光が彼女の魅力を更に引き上げている。あんまり見つめるのは気持ち悪いと自分でも分かっているのだが、どうしても目が離せなかった。気がつけば視界の隅に彼女が居て、彼女の声が聞こえるだけで鼓動が強くなる。

「じゃあ今日はここまでなー。日直は教材を戻して置いてくれ」

 教師は教卓に置かれた教材に手をやった。地理の授業だったので、地図や資料を使ったのだ。

 挨拶が終わると芽衣が教壇に上がり、片付けの準備をはじめる。日直なのだろう。

(あれ、もう一人の日直は……?)

 秀樹は首を傾げた。日直は男女一名ずつのはずである。クラス替えをして一ヶ月にも満たないため出席番号も曖昧だったが、必死で記憶を探った。

「あ……」

 そして思い出した。今日は男子で欠席者がいる。戸崎という名前の男子だから、中田である彼女と一緒の日直でもおかしくない。

 そう思った時にはもう、何の確信もないのに秀樹は席を立っていた。

「えっと、手伝おうか?」

「え?」

 うわーあ僕は一体なにをしてるんだ――。

 心の中は動揺しまくりだったが、平静を装う。ギャルゲの主人公は、こんな時に噛んだりなんかしないのだから。

「男子の日直、いないみたいだから」

「あ、うん、戸崎くんなんだけどね。今日休みなの」

 やっぱり! 

 自分の予想が当たったことで、秀樹の高揚は増した。もちろん、彼女の笑顔が可愛くてという理由もある。

「じゃ、じゃあ手伝うよ! 一人じゃ大変だし」

 声が上ずっていたが、そこはご愛嬌。恥ずかしくて目も合わせられない秀樹は返事を待つことなく、丸まった地図を数本抱え上げた。

「え? あ、ありがとう、谷沢くん」

 背後で聞こえた声に、秀樹は幸せそうに顔を歪めるのだった。



「よし、と。終わりだね。谷沢くんのおかげで、一回で済んだよ」

 抱えていたダンボールを降ろして、芽衣が笑う。社会科準備室の中、秀樹の心音は最高潮に達していた。

(ふ、二人っきり……中田さんと、二人っきり……)

 普通なら、ここで『閉じこめられるフラグ』が立っていたりするのだが、いかんせん現実はそんなに甘くはない。

 あっさりと二人は資料室を出る。

「それにしても谷沢くん、凄いね。あんな大きな地図を何本も抱えられるなんて」

「あ、うん、ああいうのは運び慣れているから」

 アニメのポスターでね。

 とは言わない。

 秀樹は自分の趣味が特殊である事を理解している。もちろん、隠しているわけではないのでバレている人にはバレているが、わざわざ言う必要性は感じなかった。

 芽衣も冗談だと受け取ったようで、笑っていた。

「あはは、運び慣れるものじゃないよー。でも、本当に助かった。一人で運んでいたら、休み時間なくなってたかも」

「い、いや、勝手に手伝っただけだから」

 何故こういうところで上手い言葉が言えないのか、と自分を恨みながら、しどろもどろにつまらない受け答えをした。

「ううん、凄く嬉しかった。ありがとね、谷沢くん」

 もう一度礼を言われて、思わず秀樹は顔が赤くなってしまった。笑顔が可愛すぎる。

(大丈夫……アニメを見ている感じでいこう。落ち着け、落ち着け)

 この子は画面の先にいるアニメのヒロインなのだ。いや、もしくはギャルゲの選択肢で正解を選んだ時のヒロインなのだ。喜んだ顔をされても、萌えこそすれ、決して緊張することなんかない。ほら、僕は主人公になりきればいいんだ。ここでなんでもないことのように、クールな選択肢を決めれば好感度アップだ。

「いや、じぇんぜん構わないから」

 噛んだ。もうダメだ……。

 あまりに情けなくて、恥ずかしくて。秀樹は噛んだ事に対するフォローを諦め、手を振ってそそくさと教室に逃げ戻った。

 


 放課後、結局芽衣との会話はあの休み時間だけだったことに情けなさを感じつつ、秀樹は昇降口の脇で梓を待っていた。

 相談に乗ってくれた梓へのお礼として、何か食べ物でも奢ろうと思ったのだ。今日の自分の行動に対する意見を訊いてみたい、というのもある。それによりクラスのオタク仲間との交流を断わってしまったが、今はそれどころではないのだった。

「あ、梓」

 携帯で事前にメールを送っておいたため、梓は昇降口を出るとすぐに秀樹の方に向かってきた。両手をブレザーのポケットに入れ、背筋を伸ばして歩く姿は凛としていて、男子の目を惹いている。しかし本人はそんな視線を全く気にすることなく、むしろしかめっ面にも近い表情で秀樹の隣に並んだ。

「それで、どこ行くの?」

「駅前の緑川堂のケーキ、おいしいって言ってなかった?」

「……奢ってもらえるなら、食べるわ」

 嬉しそうな声色なのに、素直には頷かない。けれど表情は緩和する。秀樹はそんな幼馴染の様子にクスッと笑ってしまう。

「……それで、好きな人とはどうだった?」

 駅前商店街への道すがら、梓がおもむろに口を開いた。

「うん、梓に朝言われたとおり、中田さんが困っている時に声を掛けてみた。それで、教材を運ぶのを手伝った」

「オタクなのに、行動は早いのね」

「はは、オタクなのは関係ないよ。……でも、好きな人と話すのは、凄く緊張するんだね。全然うまくいかなかった」

「……それは、慣れればいいのよ」

「梓は、好きな人いるの?」

「――っな!」

 ズザ! と音を立てて、梓の歩みが止まった。商店街を歩く主婦が怪訝な顔をして二人を追い越していく。

「なな、な何よ、いきなり」

「いや『慣れれば』って言っていたから、梓も好きな人と話すのは緊張するのかなぁって」

「……私に好きな人いたら悪い!?」

「いやそんなこと言ってないけど!」

 慌てて秀樹は両手を振る。

「えっとごめん。もしかしてそういう話ふられるの、嫌だった?」

「そんなことない、けどっ。驚いただけよ」

 乱雑に言うと、梓は茶色い髪をなびかせ顔をそらして歩き出す。不機嫌そうな顔ではあるが、実際怒っているわけでない事は、少し膨らんでいる頬からみてとれた。

 秀樹はホッと一息つく。そして同時に、グッと自分を奮い立たせた。ふと訊いてみたい事が浮かんだのだ。

「じゃ、じゃあさ、梓はその好きな人に何かしてあげたいとか思う? もしくは、何かして欲しいとか勝手な事を思ったりするっ?」

 期待を込めて秀樹は訊いた。

 自分は中田さんに何か喜ぶことをしてあげたいと思うし、逆に中田さんにこっちを振り向いて欲しいと思う。そんな自分勝手な願望に、共感が欲しかった。

 共感がもらえれば、もっと積極的にいける気がした。

「私、モンブランとショートケーキね」

「え?」

 しかし返ってきた答えに唖然。そして気がつけば、いつの間にか目的の店の前まできていたようだった。

 周りに人はいなかったが、往来の場で必死に叫んでいた事を思い返し、秀樹は恥ずかしくなる。

「持ち帰りでいいから」

「……うん、ごめん」

 お礼にと誘っておきながら、結局自分だけが興奮してしまった。秀樹は本当に情けない思いで店へと向かった。

「秀樹」

 背中に声が掛けられる。

「私は、好きな人が笑ってくれたら、それだけで嬉しくなる」

「……うん、僕もだ」

 振り返った秀樹の顔が、自然と緩んだ。それを見て、梓もフっと口元を歪めた。

 幼馴染のありがたさを感じながら、秀樹は梓が以前に好きだと言っていたプリンを追加で注文した。



 マクラを、ベッドの上に投げつけた。ボフっと音を立てたそれを追いかけるようにして、梓は自分もダイブした。ベッドが軋む音がし、長い茶髪が巻き散らかる。

「あー……」

 気だるい声が口から漏れた。好きなはずのモンブランも、ショートケーキも、せっかく買ってくれたプリンも喉を通ってはくれなかった。

 ギュッとシーツを握り締める。

「私、メチャクチャ嫌なヤツだ」

 ゴロンと半回転する。天井を見上げ、ため息を吐く。

 モンブランもショートケーキもプリンも。秀樹から貰ったものなら何でも嬉しいはずなのに、今日だけは何も感じなかったのだ。

(あいつが、中田芽衣のことを想いながら買ったケーキなんて、食えないよ)

 思うだけで胸が苦しい。苦しいのに、何もないような喪失感。

 これはあの時と一緒だ、と梓は思った。何もかもを失くした日。全てを失って、代わりに大事なものを手に入れた日。

 全てに絶望して、

 ――谷沢秀樹に、恋をした日。



 梓は昔から、自分は他の人と違う、と感じていた。それは決していい意味ではなく、むしろ自分が異常なのではないかという不安だった。

 ままごとに興味はなく、鬼ごっこにも興味はない。あるのは、ヒーローごっことアニメの人形集め。

 小さい頃こそ、男と女の隔たりはなく疑問に思わなかったが、小学校に入り成長するにつれて、差異を実感していくようになった。

 そして十歳を迎えたとき、ついに自分の異常を確信した。

 当時、同じクラスのとある男子が好きだった。谷沢秀樹といつも一緒に遊んでいる元気なヤツで、何度か一緒に遊んだこともあった。

 ある日、秀樹がそいつを家に連れてきた。

 バカみたいにドキドキしながら、部屋を綺麗に整頓して、二人の到着を待っていた。チャイムが鳴ると全速力で玄関まで走り、あたかも偶然かのように澄ました顔で迎えた。

 でも、二人を部屋に案内したところで、世界は終わった。

 男は唖然として部屋を見回していた。部屋の中は、漫画や人形、アニメビデオで一杯だった。

 自分は、それに何の疑問も持っていなかった。もちろん他の女の子と違うということは認識していたから、彼女達と遊ぶ時はリビングだった。でも、男の子はこんなの気にしないと思っていたのだ。秀樹の部屋は似たようなものだったし、部屋にあげるとむしろ喜んで物を触っていた。だから、この子も喜んでくれるはずだ。そんな、甘い考えを思っていた。

 結果は、酷いものだった。

 翌日からクラスメイトの男子に蔑まれ、からかわれた。泣くと女子が庇ってくれるけど、確実に雑談をする機会は減っていった。教師は困ったような顔をしてみんなを止めるだけ。その表情は、仕方ないと言っているようにも思えてしまった。

 何が悪いのか、全く分からなかった。

 誰でもいいから助けて欲しかった。こんな時に限ってヒーローは現れてくれない。ヒーロー人形のせいで嫌われたのなら、一体何を信じればいいのかも分からない。

 一人、公園で人目を盗んで泣く日が続いた。泣いて、泣いて、泣いて、何もなかった顔をして帰る。それだけの日々。

 ――そんなある日。地獄の日々を終わらせる、本物のヒーローが現れた。



「……寝てた」

 梓は目を覚ます。体を起こすと、不自然な格好で寝ていたのか腰が少し痛かった。机の上の時計を確認すると、三十分ほど寝ていたようだった。

「って、何泣いてんだ、私」

 苦笑して、目元を拭った。懐かしい夢を見ながら、泣いてしまったらしい。

 ――あの頃胸に空いた穴は、今はもう塞がっている。

 オタクだという事を公言する気はないけど、こういう趣味をやめようとは思わなくなった。

「全部、あいつのおかげなんだけど」

 梓は呟いて、机の上に飾ってある怪獣の人形を手に取った。掌に収まるくらいの、小さな贈り物。

「バカだな、私は」

 強くなったつもりで、結局は何も変わっていない。全てを失う事が怖くて、沈黙を守っている。

 ――でも、だからといっても、やはりこの気持ちを伝える気にはなれない。

 これもまた、自分らしい一つのカタチなんじゃないかと、思っているから。

 



 秀樹が中田芽衣に恋をしてから一週間。彼女への想いはどんどんと強まるばかりだった。しかし、一向に縮まることのないお互いの距離に少しばかりの不安も抱き始めていた。

『明日、一緒に学校行かない?』

 秀樹はベッドに腰掛けてメールを送信した。あて先はもちろん、隣の家の幼馴染だ。

 ここ一週間、秀樹はそれなりに頑張っているつもりではあるものの、自分のしていることが正しいのかという確信は持てないままでいた。何せ、人に恋をするということ自体が初めてなのだ。胸に溜まった気持ちをぶつけたいという思いと、それを言う事に対しての不安が寄せては返す。それはある意味、進学した最初の段階でオタクである事を公言しようかしまいかの葛藤とも似ていた。

 言ってしまえば楽になる。しかし、はずせば残るものも得られるものもない。

 この一週間、秀樹はすべてにおいて必死だった。中田芽衣を視界の隅に捉えながら、彼女が困っている時はなんとかして役に立とうと思案した。

 学級委員の彼女が、HRで文化祭実行委員が決まらなくて困っていた時には立候補したし、部活と委員の集まりが重なってしまい困っていた時には代わりに出席した。

 ――もちろん、そんな不自然な行動によって周囲は秀樹の想いに気付いているかもしれないが、秀樹にとってそれは然したる問題ではなかった。

 中田芽衣が喜んでくれるのか。それだけが気になっている。

 気持ち悪くはならない程度で近づいているつもりだが、盲目になっているという気分も捨てきれない。彼女の前でどもる事はなくなったが、うまく話せるわけではない。

 不安だけが募っていく。同時に、あの可愛らしい顔だけがどんどんと浮かんでくる。

 片手に持っていたラノベを床に置いた。今日は読書をする気にはなれないと思い、ベッドに倒れこむ。

「恋って、大変だ」

 ラノベやギャルゲの世界で知っていると思っていたもの。

 それは現実ではどうしようもなく辛くて、でもやっぱり楽しいものなのだと思い、秀樹は苦笑した。



 メールの返信をして、梓はカーテンの向こうを眺めた。明かりが灯っており、まだ秀樹が起きているのが分かる。

 ここ一週間ほどは向こうも必死だったようで、自分に連絡をする余裕もなかったようだ。しかし、今連絡が来たということは何かあったのかもしれない。

(一体、あいつは今、どういう気持ちでいるんだろう)

 目を細め、秀樹の姿を想像してみる。

 喜んでいるのだろうか、苦しんでいるのだろうか。果たして明日の話とは、どんな内容なのだろう。

 秀樹のことを考え出すと止まらなくなる自分がいる。梓は胸元をギュッと握った。

 ――どうでもいい。

 この一週間、そう思うようにしてきた。あいつの一挙一動にビクビクする自分が嫌で、自分の気持ちなんて捨ててあいつさえ幸せならばそれでいいじゃないか、と思えるように努力した。

 しかし、出来なかった。

 どうでもいいと思いたいのに、それを心が許さなかった。恋なんてくだらないと言いたいのに、口はそれを紡がなかった。どうしようもない感情なのだと、この一週間で知るはめになった。

 答えなんて分からない。正しさが分からない。

 ただただ、好きだという気持ちだけが心に渦巻いている。この一週間、ずっとそうだった。

 ――やはり自分はあいつに恋をしているのだと、確信してしまった。



「――というわけなんだけど、どうかな」

 翌朝、秀樹は梓にここ一週間の自分の行動を包み隠さず話した。梓は春の陽気を浴びながら、茶色に輝く髪を掻き揚げた。

「いいんじゃない?」

 内心、複雑な気持ちで梓は頷いた。その時の状況や秀樹の気遣い等、この一週間で秀樹がしてきたことは、決して迷惑などではないと言えるものだった。むしろ、梓個人がされたなら歓喜雀躍ものである。

「そっか」

 梓の返事を聞いて、秀樹はホッと一息ついた。男の行動に対しては厳しい――と勝手に思い込んでいる梓に合格をもらえるのは、素直に嬉しいものだった。

「でも、あんたがそこまで積極的に動くとは、思っていなかった」

 梓が付け加えた言葉に秀樹はきょとんとした。

「オタクだから、もっと静かに恋をするのかと思っていた」

 ぶすっとして顔をそらす梓に秀樹は苦笑した。

「ああ、うん、僕自身もビックリしているんだけどね……でも、うん、なるほど。逆に僕がこんなオタクだから積極的にいったのかも」

「どういうこと?」

「いやほら僕、公言オタクだから。恥を知らない」

 ふざけて秀樹は言った。ここで梓が『少し恥を知った方がいい』とか『オタク気質と恋心を一緒にするな』とか言うのを期待していたのだが。

「……そうかも」

「えっ、頷くの!?」

 梓は素直に頷き、そして秀樹のツッコミに口元を緩める。

「私も同じだから。やっぱりあんたは、強いよ」

 ふわっとした笑顔に秀樹は一瞬見惚れた。梓の言っている真意こそ分からなかったが、ドクンと胸が波を打ち、ゾクゾクっと体が震えた。

「――どうしたわけ?」

 すぐに怪訝そうになった梓に秀樹はボウッとしたまま答える。

「いや、なんか、今の梓が、凄く可愛かったから」

 思っていた事をそのまま口に出した。

 ボフンと梓の表情が硬くなり、カッと目を開いた。

「な、は、恥を知れ! 何をこんな往来で言い出すわけ!?」

 真っ赤な顔になった梓はそのままズンズンと秀樹を置いて去っていった。慌てて秀樹は追いかけようとしたが、肩が追ってくるなと怒っていた。

「……後で謝らなきゃ」

 秀樹は額に手をやった。梓は基本的に恥ずかしがり屋である。往来の場で可愛いなどと突然異性に言われては怒るのも、無理はないだろう。

 しかし梓のそういう部分にも、秀樹は好意を持っている。

「……僕って浮気症なのかな」

 中田芽衣に抱くソレとは少し違うようで、しかし似ている気持ちを抱えながら、秀樹は呟いた。



 顔が熱い。

 梓は朝の事を思い出しながらポンポンと頬に手をやった。しかし一向に治る気配はなかった。

 思い出すたびに胸がドキドキして、きっと大した意味ではないと分かっているはずなのに、高揚感が抑えられない。

 二時間目の休み時間に、朝は悪かったという趣旨のメールを送っておいたところ、何故か放課後に一緒に帰る約束になった。

(大した意味はない、大した意味はない)

 自分に言い聞かせるが、朝の件が尾をひいているのか、一向に心音は安定しない。

 ――もう放課後だと言うのに。

(ぐはー、どんだけ耐性がないんだ、私は)

 これではもし付き合うなんて事になった暁には一体どうなってしまうのか。いや、そんな事はないともちろん分かっているんだけど、でも、ねえ?

 自分でも何を思っているのか分からないまま、梓はバクバクとした身体を動かし、玄関へと向かう。今日は文化祭実行委員を決めるのに時間がかかりHRが長引いてしまったので、廊下を歩く生徒はかなり少ない。あいつは昇降口にいるはずだ、あまり待たせてはいけない。と、急ぎ足で秀樹の教室の前を過ぎ去ろうとしたところで――

『谷沢くんでしょ?』

 ビクッと身体が跳ねた。丁度秀樹のことを考えていた事もあり、思わず立ち止まって教室内に耳を傾けてしまう。他の生徒に怪しまれないよう、まるで待ち合わせをしているかのように、その教室の壁に身体をそっと預けた。

『絶対芽衣のこと、好きだよね』

『そ、そうかな……』

 教室の中からは、数人の女子の声が聞こえた。恐らく恋話でもしているのだろう。

『絶対そうだよ、あからさまじゃん! 今まで休み時間にメガネ掛けたヤツラと変な話しかしてなかったのに、最近になって何かと芽衣に構うしさ』

『だよね。つーか、あからさまに見ている時とかあるし』

 女達の声には少なからず、嫌悪感とも呼べる感情が混ざっているようだった。梓は胸の中がスッと暗くなっていくのを感じた。

『でも、いい人だよ?』

 恐らくこれが中田芽衣の声なのだろう。優しい声色。他の女子連中とは違い、嫌悪が混じっていないところに嬉しいような、嫉妬のような複雑な感情が湧く。

『なに? じゃあ芽衣ってばアイツのこと好きなの?』

『マジで? それはさすがにやめた方がよくない? オタクだよ』

『好きとかじゃなくて、いい人だって言っただけだよー』

『だよねだよね、超ビビッたわー。さすがにオタと付き合うのは嫌でしょ』

『ってかさ、アイツん家とかどうなってんだろうね。アニメとかの人形とかで一杯なのかな。DVDとか漫画とかも、「これは保存用だから開けないのさ」みたいな』

『キモ! さすがにひくんだけど! っていうか詳しいなアンタ、知ってんのかよっ』

 そして響く笑い声。

 梓は真っ暗になった視界の中で、ギュッと拳を握り締めた。

 ……分かっている。秀樹の趣味が、他の女から見れば嫌悪の対象になること。

 そして知っている。自分達の趣味が、一般的にはそう思われても仕方ないこと。

 それでも――それでもそれは、好きだと思っている人の前で言われて、バカにされて当たり前のことなのだろうか。そんなに、悪いことなのだろうか。

 子どもの頃に味わった苦悩が蘇ってきた。

 好きな人に変な目で見られたこと、世界のすべてに拒否されたような感覚。その中で、アイツに言われた、たった一つの何気ない言葉。

 ――自分はまだそれを実践できていないけど、あいつは常に実践している、くだらなくも熱い一言。

 梓はスウッと息を吸った。言わなければ気がすまない。例えこの行動で自分がどうなろうとも、どんなにからかわれようとも、このバカな連中に一言怒鳴っておかなければ気がすまない。

 背中を預けていた壁から身体を剥がし、目を開けた。

 そして教室の扉に手をかけた

「待って」

 怒りに震える梓の目が捉えたのは、自分の腕を止めた、秀樹の悲しそうな笑顔だった。



 教室の前から一言も話すことなく、二人は家路についた。

 自分の部屋のベッドの上、秀樹は『これからどうすればさらに近づけるのか』などと相談しようとしていた自分を情けなく思った。

「結局、こんなもんなんだよね」

 呟いた言葉は虚空に消えた。ひたすらに虚しく、胸が軋んでいる。

 見上げる天井は白。しかし時々光景は滲み、その度に目元に手をやる。

 多分、分かっていたのだ、こうなることくらい。

 釣り合うなんて思えなかったし、彼女に注目した一週間、どれだけ彼女が人気者かというのも分かっていた。自分みたいなオタクが入る余地など、最初からなかったのだ。

 それにしたってまさか、忘れ物に気がついた時に限ってあんな話を――

 いや、もう全てが、どうでもいい。

 もう好きにすればいい。自分を嘲って、蔑んで、笑えばいい。見下して、バカにして、いっそ嫌いだと正面から言ってくれれば――

「嫌だ……」

 どうでもいい、どうでもいいはずなのに、それでも彼女に嫌われるのだけは嫌だった。頭の中ではその度に色んな考えが浮かんでくる。

 こんなくだらないことに何を。とか、どうせ今だけの想いだ、とか。

 その全てを肯定し、否定した。

 もう頭の中がグチャグチャで、どうしたらいいのかも分からなくて。

 それでも結局、確かな事は一つだけあるようだった。それは――



 梓は携帯電話を片手に、ずっと悩んでいた。隣の家の電気が灯っているのを確認しては、携帯を見下ろす。その繰り返しから抜け出す事はなかった。

「一体今更、何が言えるのよ」

 学校で自分の振り上げた拳を掴み、秀樹はただ一言『いいんだ』と言った。諦めと悲しみを滲ませながら、それでもあいつは自分を気遣ったのだろう。

(大バカヤロウだ)

 梓は思った。なんてバカで、損をするヤツなのだろう。いつだってそうなのだ。あいつは他人の事を気遣ってばかりで、自分本位になるとすぐに弱気になる。普段自分に正直なくせに、そういうところだけ甘い。

 ――梓は机の上にある、小さな人形を手に取った。

 それは、自分が独りで泣いている時、突然来た秀樹がくれたもの。小さな怪獣は百円のガチャガチャで当てたもの。でも当時の自分達には十分に痛い金額である。

『ほんとは、ヒーローをあげたかったんだけど』

 と苦笑いをしながら差し出してくれた。今でも鮮明に浮かぶ、あの言葉。

 梓は携帯を投げ捨てた。

 振り返り、窓を一気に開け放った。

「バカヤローー!」

 そして叫んだ。隣の家に向けて、夜の住宅街に自分の声が響くのなんておかまいなしで。

「何勝手にへこんでんだお前はー! あんたはそんなヤツじゃないだろ! 私に言った言葉を忘れんじゃねー!」

 はあはあと息を切らせ、向かいの部屋を睨みつける。三メートル先、慌てた顔でカーテンを開けた秀樹が現れた。

「あんたいつも言ってんだろー! 好きだから好きだって言うんだって! 私に言ってくれただろ! 好きな事を好きになるのは悪くないんだって!」

 子どもながらに考えてくれたのだろう言葉。

 今でも思い出せる、秀樹の声を浮かべながら、梓は涙を流した。

 絶望した日、どうすればいいか分からなかった時、突然現れたヒーローは言った。

『僕は、好きな事を正直に好きになる梓ちゃんがすごいと思う。好きなものがあるって、すごいと思う。僕もいつか好きなものを見つけたら、梓ちゃんみたいに、一生けんめい追いかけたいと思うもん』

 そしてニコリと笑い、ガチャガチャのカプセルを差し出してくれた。

『ほんとは、ヒーローをあげたかったんだけど』

 そして、更に言った。

『好きな事を好きって言って、悪いことなんかないよ。……ほら、行こう。一人でいたって、つまらないよ』

 なんとなしに言った言葉なのかもしれない。けれど、その一言は確かにあの時の自分に響いてくれたし、勇気を与えてくれた。

 だから今度は、自分が少しだけの勇気を与えてあげたい。

「好きな事を【好き】って言って、何が悪いんだボケー!」

 夜七時。家族団欒の時間とはいえ、聞こえる人もいるかもしれない中で、梓は叫んだ。

「好きになるって悪いことか! 好きになるのに資格とか要るのか! 好きになるってそんなにくだらないことなのか!」

 そんなことはない。好きになるっていうのは、本当にどうしようもない気持ちで、胸が張り裂けそうになったり、くだらないことでへこんだり、喜んだり、一所懸命になって後で悔やんだりもするけど、それでも止められない感情のはずだ。

 ――少なくとも、自分はそうだ。

「好きなら好きって言えー! それが、秀樹らしさだろー!」

 一気に叫び、梓は息をついた。キョトンとして自分を見つめる秀樹を捉えながら、精一杯の涙と勇気を振り絞る。

「好きなら好きって言え、バカ……。そんなことも言えずに悩んでいるあんたなんか見たくないんだよ。私は、その、何かを好きだってことを公言している、あんたを、その……尊敬しているんだから」

 言うだけ言って、窓を閉めた。カーテンも閉めて、電気も消す。

 階下から聞こえてきた母の怒った足音を感じながら、あーあ、とため息を吐いた。

 しかし、胸はどこかスッとしていた。



 秀樹はただ唖然として、向かいの窓を眺めていた。

 梓があんな大胆な行動に出るなんて思っていなかったし、何より、嬉しかった。

「そうだ、そうだよね……」

 梓の言葉を噛み締めると、笑いすら浮かんできた。

 何をくだらないことで悩んでいたのだろう、自分は。そうだ、分かりきっている事じゃないか。

 周りに何を言われようとも、くだらないと嘲笑されたとしても、結局ただ一つ、確かなモノ。

「好きなものは、好きなんだよね」

 好きだから仕方ないのだ。この感情は殺せるものじゃないし、仕舞いこめるほど自分は強くない。

 きっかけは単純な一目惚れ。それこそラノベの絵買いにも似ている。それでも、正直な想いは確かに、ある。

 自分が好きなラノベを見つけたらどうするか。簡単だった。それ以上を知ろうとするし、より近づこうとする。好きだと公言する。

 彼女を作品と例えるのには罪悪感も湧いたが、つまりはそういうものなのだと思えることが出来た。

 好きなものは、好きなのだ。好きだから、関わりたいのだ。

 それだけのことであり、悩んでも仕方ないのだと秀樹は気付いた。

「ありがとう」

 秀樹は呟いて、前の窓を見つめた。今度、この窓からお礼のDVDでも渡そうかと思っただけで、自然と笑顔が戻ってくる。

 自分はオタクなのだ。ならばオタクらしく、好きな事を誇ろう。

 秀樹は早速用意を始めた。



 翌日、いつもよりも早めに学校に着いた秀樹は、中田芽衣の下駄箱に手紙を入れておいた。なんとも古典的だとは思うものの、それ以外の方法は分からなかったので仕方ない。

 手紙には『放課後、教室に残ってください』と書いてある。いつ誰がくるか分からない裏庭よりは、ドアで仕切れる教室の方が安全に思えたからだ。

「よし」

 気合を入れるために、自分の頬を叩いた。後悔はないし、きっとこれからもしないはずだ。

 結局、気持ちを言わないまま彼女の傍にいようという状況が、自分には向いていなかったのだ。好きだったら好きと言うしか能のないオタクの自分なのに、一体何を悩んでいたのか。

 放課後、教室。自分の机に座り、苦笑ものの十日間だったなぁと秀樹は振り返った。

 恋をして、相談をして、ドキドキして、不安にもなって。ある意味、この一週間はラノベの主人公だったのかもしれない、と思った。学校で恋をして、つまらないことで不安になったり嬉しくなったりして、くだらないことなのに一所懸命であって。

 憧れていた物語に自分が居た。それは一瞬のようで、長くもあった。

「って、何で今にも終わりそうな感じなんだ」

 まるで振られるフラグじゃないか。

 自分の思考に苦笑。秀樹は佇まいを直した。中田芽衣は先ほど友人の誘いを断わっていた。今は学級委員の用事でいないが、そろそろ戻ってくるだろう。

 春の陽が沈み、教室がオレンジに染まる頃、ドアが静かに開いた。

 秀樹が振り返ると、中田芽衣が一度頭を下げて入ってきた。後ろ手にドアを閉めて、二人っきりの空間が出来あがる。

 少しの沈黙を経過してから、秀樹は口を開いた。

「僕は、子どもの頃からこんなだったんだ」

 秀樹の言葉に芽衣はきょとんとした。

「好きなものが出来ると、とことん周りが見えなくなる。それしか目に映らなくなって、それに近づきたくて仕方なくなるんだ」

 好きな漫画だったり、好きな小説だったり、好きなアニメだったり。

「そして困った事に、それを好きだと公言しなくちゃ気がすまなくなっていたんだ。……まあ、これにはちょっとした理由もあったんだけど、そんなのはもうどうでもよくて、今では言わないと落ち着かないだけなんだけど」

 最初に趣味を公言したのは、幼馴染の泣き顔を見た後だった。彼女に適当なことを言うのが嫌で、自分が公言することで少しでも勇気を与えられたら、という思いがあったのだが――それも結局はただの言い訳だな。と今では思っている。

 彼女は強い人だから自分のお節介なんてなくても立ち直っていただろうし、何より、好きな事を好きだと言う行為は、自分にとって気持ちいいものなのだ。

「って、何言ってるんだろう、僕は」

 話が逸れていた事に気がつき、頭をかいて笑った。それは嘘の笑顔だったが、これから言われる事を予想しているであろう彼女の緊張も少しほぐれた気がした。

 秀樹はスウっと深く息を吸った。

「中田さんが好きです」

 たった十音の言葉。これだけを言うのにやけに遠回りをして、何より――緊張した。

 きっと『愛している』などという高尚な言葉ではなく、大人たち、あるいは未来の自分からしたら取るに足らない、くだらない言葉なのかもしれない。

 だけど、他の人から見てくだらないものだとしても、好きだという感情はどうしようもないものだった。

 秀樹の中に迷いはなかった。

「この前、あなたとぶつかった時から好きでした。一目惚れしました。話している内にもっと好きになりました。付き合えればと思っています。中田さんのことをもっと知りたいと思っています」

 秀樹の言葉に芽衣は顔を俯かせた。何度も顔を動かしたり、拳を握ったり、声を出そうとしたりしている。秀樹は黙って返事を待つ。

 そして夕陽のオレンジが教室を染め上げた頃、芽衣は顔を上げた。

「ごめんなさい」

 夕陽を浴びても綺麗な、茶色の瞳だった。その憧れた瞳の中に、今だけは自分の姿がきっちりと映っていた。芽衣はしっかりと秀樹を見据えながら言った。

「私、中学の頃から付き合っている人がいるの。違う学校なんだけど、普段は会わないんだけど、休日だけ一緒に出かけたりして。谷沢くんが悪いとか、嫌いとかじゃないんだけど……でも、私は彼が好きだから」

 はっきりと秀樹の目を見て伝えられた言葉には、疑いようもない力があった。言い終えて気まずそうに俯いた芽衣に、秀樹は笑いかける。

「うん、分かった。……ごめんね、いきなり告白なんかして困らせちゃった」

「ううん。あの、嫌味とかじゃなくて、好きって言ってもらえて、嬉しかったです。ごめんなさい」

「はは、そう言ってもらえると少し救われるかも。呼び出しに応じてくれてありがとう。鍵は僕が閉めておくから、中田さんは先に帰って。委員会の後なのに、ごめんね」

 秀樹は言うと、顔をそらして後ろを向いた。身体を窓の方に向け、もう少し教室にいるのだと意思表示する。

 数秒後、静かにドアが閉まる音がした。振り返って誰もいなくなったことを確認してから、一人の教室で秀樹は泣いた。



 昇降口から出てきた中田芽衣を梓は呼び止めた。身長が十センチほど違う女子に突然呼び止められて驚いたのか、芽衣はきょとんとして梓を見上げた。

「こういうの訊くの、野暮かもしれないけど」

 梓は芽衣の表情を気にせず、頬を小さく掻きながら尋ねた。

「谷沢秀樹のこと、振ったのね?」

「……え? あの、あなたは」

「はじめまして。私、向井梓。谷沢秀樹の幼馴染よ。何度かあなたのことで相談にのっていたの」

「そ、そうですか。私、中田芽衣です。はじめまして」

 合点がいったのか、素直に頭を下げる芽衣を見て、梓は複雑な心境だった。

 これが、秀樹が好きになった人。秀樹の告白を、断わった人。

「昨日の話をしていた子とは、思えない」

「昨日……放課後、ですか?」

「そう。偶然、あなたの教室の前に居たの。――確かにあなたは、陰口らしきものは言っていなかったけど、こうして話してみるとやっぱり昨日の子らと馬が合うようには思えないから」

「あ、あはは。そうですね、自分でも合わないとは思っているんですけど……でも、女子の世界は怖いですから」

 自嘲的な笑顔を浮かべながら芽衣は言う。

「私はきっと、谷沢くんとは反対なんです。昔から何故か、誰かを好きだとか、何が好きだとか、はっきりと言えないんです。人の悪口には相槌を打つし、好きな人ができたら向こうから来てもらうのを待つしかないし。告白されても、いつもは曖昧にして誤魔化しちゃうんです」

「でも、今日ははっきり断わったんでしょ?」

「はい。だって、あまりにも谷沢くんが正直に言ってくれましたから。正直、尊敬もしました。だから、私も見習いたくなったのかもしれません」

「……そう。なら、いい」

「え?」

「あなたがそういう人間だったのなら、許せる。昨日、秀樹をへこました責任も、問わない」

「昨日の話、谷沢くんも聞いていたんですかっ?」

 驚いた表情で芽衣が言った。まさかあの話を聞かれていたとは思わなかったのだろう。

 当たり前だ、あんな話をされた後に告白して、受け入れられると思えるはずがない。今日の告白は公言オタクの谷沢秀樹だからこそ、持っていた勇気なのだ。

 そんな秀樹が今どんな表情をしているのかを考えると、梓は気分が重くなるのだが。

「それじゃ、呼び止めて悪かったわ」

 梓は片手を上げると、振り返ることなく、ゆっくりと校舎の中に戻っていった。



 物音に顔を上げると、教室にスラリとした体躯が滑り込むようにして入ってきた。

 入ってきた幼馴染はすぐにドアを閉めて、鍵も掛ける。

「……ドンマイ」

「いきなり、その言葉?」

 涙でくしゃくしゃになった顔を緩めて、秀樹は思わず笑った。同時に、梓も笑う。

 梓は秀樹の正面まで歩いていき、向かい合うようにして机に座った。

「泣きたければ泣けば? 私は、夕焼けを見ているから」

「わざわざ僕と向かい合って外を見るの? おかしなことするなぁ」

 笑いながら、また涙が溢れてくるのを秀樹は感じた。アニメやギャルゲ、ラノベで感動した時の涙とは違う、痛みを伴った涙。

 夕焼けの教室、オレンジの光を浴びながら、二人は静かに座っていた。

「ねえ梓。恋って、苦しいものだったんだね」

「やめたいと思う?」

「いや……また、やってみたいかも。今度は、成功フラグで」

 秀樹は笑った。笑えるくらいくだらなくて、泣きたくなるくらい虚しい。

「ん、近い内にあんたが恋を成就する事を祈っているわ」

「ありがとう。ねえ、もう少しだけ、そこに居てくれないかな」

 顔を俯かせて秀樹は言った。

「構わない。私は何でもするから。あんたが喜んでくれるなら」

 梓は言った。そして驚いた表情をした秀樹に笑いかける。

「……冗談だけど」

 梓が笑うと、秀樹も笑顔になった。


エピローグ


「朝から親にからかわれるし、散々だったよ……」

 秀樹は肩を落とした。昨日、夕方遅くに梓と二人で帰宅したのだが、一昨日夜の梓の叫びによって話題が沸騰していた住宅街で、その行動は自殺行為であったのだ。

 噂は噂に尾を付けて『あのお宅とあのお宅の子が……』という情報が流れていた。

「私だって親に色々言われたり、近所の人に笑われたりしたわよ」

 しかめっ面で梓が呟く。しかしその表情の中に嫌悪感は混じっていない。

「ま、お互い様ってことね」

「どこが!? 僕叫んでないのにっ」

「細かいことを気にする男は嫌われるのよ」

「あぅ」

 何だかんだで昨日のショックが抜け切れていない秀樹は、更に肩を落とした。

「……さすがに不謹慎な発言だった、ごめん。でもそんなにへこまなくてもさ、あ、あんたのこと好きなヤツだっているかもしれないじゃない。……ほら、隠れオタみたいに、隠れているだけでさっ」

「僕って、好きだと隠れたくなるほどダメなのっ?」

「あー、いや、そういう意味じゃない、けど」

 梓は否定するが、秀樹は更に更に肩を落とした。どうやら妙なネガティブスイッチが入っているらしい。

 しかしさっきの一言はちょっと自分の事を示唆したつもりだっただけに、梓はムッと顔を歪ませた。

 そして、秀樹の腕を取った。抱えるようにして、腕を組み合う。

「ほら、行くぞ。一人でへこんでても、仕方ないんだから」

「え? うわっ、梓、ちょっと待って! 腕が、腕が、腕に胸が……!」

 顔を真っ赤にしながら秀樹が叫ぶ。梓も同じ様な顔色だった。

「うるさい黙れ、いいから」

「よくないよ! 腕に胸が当たってる! 梓の胸が!」

「住宅街のど真ん中で、変な事叫ぶな、バカ!」

「ええっ? 梓にだけは言われたくないよ、それ!」

 ギャアギャアと騒ぎながら、二人は住宅街を横断した。

 梓の声を聞く度、秀樹は自分の胸の穴が少しずつ埋まっている事に、気づき始めながら。


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― 新着の感想 ―
[一言] 田中さんの行動や気持ちわかります。思春期の女の子は一度集団からはじき出されたら、かなり辛い思いをするし、田中さんの自衛作法は正しいです。そして、梓ちゃんがものすごく可愛いです。はやく秀樹君と…
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