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病院のベッドで天井を見つめながら、藤田は大あくびをした。社会
部記者として兵庫新聞社に勤めてから、ほとんど休みという休みはな
かった。たまたま自動車事故を起こして、長期入院することになり、
この十年で初めての連休気分を味わうことになった。休日は泥のよう
に眠り、戦場のような毎日の疲れを癒やした。気づけば十年。社会部
では中堅どころか、古参の部類に入るほど時間が経っていた。
長い入院生活に入るとすぐに、何もやることがなく、ついつい空想
の中に沈むことが多くなった。回想録でもつけてみようかと思ったが、
せっかくの機会に仕事のことを考えるのは億劫だった。そうすると何
もやることがない。事件のことを追っている忙しい時間の方が、幾分
かましだった。病院の天井を見つめることにも飽いていた。
仕事漬けの毎日だった。彼から事件を取ると、もはや何も残ってい
なかった。骨にさえしみついた事件記者という職務に、疑問を感じる
ことは今までなかった。これからもないと思っていた。それほど、事
件を追うことに心酔していた。自分の仕事が、自分の役割が、社会に
大きく求められていると感じられた。
いったんその緊張が解かれると、自分の役割に疑問が生じることに
なった。俺がいなくたって、事件は起こり、それをこうして記事にす
る人間がいて、新聞の紙面には日々新しい話題が提供される。自分が
追っていた重大事件の扱いも次第に小さくなっていく。こんな空しい
仕事があるだろうか。自分と遜色ない仕事をする人間が大勢いるよう
ならば、その存在意義は……。事件にしか捧げてこなかった十年間が、
急に巨大なハリボテのように感じられて、バカらしくて、無駄だった
ように思われた。もっと趣味やサークル活動に時間を費やしていれば
……。
ちょうど藤田が後悔と格闘しているときに、同僚の鈴木が見舞いに
やってきた。
「なんや元気そうやないか」
藤田の首と左手にに巻かれたギプスに目をやると、鈴木はつまらな
そうな顔をして毒づいた。藤田は軽口で返した。
「元気やで。元気すぎて骨が2、3本折れてもうたわ」
鈴木はなおもつまらなそうな調子で続ける。
「部内の噂では藤田は再起不能や、言われてんで。ほんで見に来てみ
たら、ちゃんと首がつながっとるやないか」
「アホ。首がとれたら息でけんやないか」
藤田の軽口につきあわず、鈴木は神妙な面持ちで言った。
「ちゃうで。藤田は重傷やさかい、再起不能やからついでにクビにな
るんや、言う話や。何も聞いてへんの」
あくまで神妙な顔をしている鈴木を見て、にわかに緊張した藤田は、
半身を起こそうとしたが、痛みでまたベッドに転がった。ビリビリと
した痛みが全身に走る。
「真面目な顔で何いうとんのや。こっちは顔も動かせんちゅうのに」
昨日は社会部長が見舞いに来た。職務中の怪我ということで、労災
がおりるとか、保険がどうだとか、そんな話をして、藤田の日頃の勤
労を形式ばった口調でねぎらって、いつ復帰できるのかなど将来のこ
とも話していった。クビだとか何だとかそういった話は一切出なかっ
た。時間にしてほんの20分くらいだが、上司の見舞いはうれしいも
のだった。
「そんな首切りは違法やで」
「そんなことはわかっとるわ。お前、ヤッシーに逆らったやろ」
ヤッシーとは社会部編集室デスクの安田のことである。事故前の記
事のことで、いさかいがあったのは確かだ。記事についてデスクと争
うことはよくあるではない。各々の記事にプライドを持った記者たち
が、自分の記事で食い下がることは、ままあることだった。そのまま
口げんかになってしまうこともあった。つまり、よくあることではな
いが、そんなに珍しい現象でもないのだ。
「ちょっとした口答えはあった。でも、そんなもん屁みたいなもんや
ろ」
「ヤッシーはお前を島流しにするってごたいそう立腹らしいで。今の
ところ局長がとりなしているがな、危ないとこや」
「んのゴミデスクが……!」
鈴木は冷笑を浮かべると、ぺろりと舌を出した。
「まあ、落ち着けやって。ただの噂や噂」
「お前は真面目くさった顔をして、嘘を並べたてるから好かんわ」
鈴木は普段から冗談にもならない冗談を真面目な顔をしていうとこ
ろがあった。本当かどうか調べられないことを、ぽつりと言うのだ。
それが冗談と分かるのは、いつも時間がたってからだった。影でのあ
だ名はシャレにならないギャグ製造マシーンだった。
「お前聞いたか?」
「また噂か。もうお前発信の噂は信じられへん」
「まぁ信じへんでもええ。お前が追ってた事件な、家裁に送致される
で」
「何やて?」
藤田は目を皿のようにして驚いた。見つめる先には、鈴木の冷めき
った視線があった。
「神戸の殺人・死体遺棄事件や。家裁に送致されるで」
「ホンマか……」
「ホンマや。明日のトップや」
終わった。藤田の神戸事件は終わった。家裁に送致されるというこ
とは、ほぼ物的証拠がそろい、犯人が確定したということだろう。
「証拠はそろったんか。ホンマか……」
鈴木は右手の人差指でポリポリ頬をかくと、視線をそらした。
「知らん。そろってへんちゃうのか。お前、ずいぶん熱心に追ってた
やないか」
「そやけど。物的証拠に乏しいっちゅう情報しかあれへん」
藤田は身をよじって、体を起こそうとした。多少の痛みはかまわな
かった。思うように左半身が動かない。鈴木はそんな藤田をゆっくり
と押し返した。
「黙って寝てろ」
そうして空を見つめると、答えを探すように慎重に言葉をすすめた。
「そやなぁ。あまり確かな筋ちゃうけどええか?」
藤田はゆっくりと肯いて続きを促した。鈴木は藤田の耳元に顔を近
づけると、ささやくような声で続けた。
「どうやら警察の裏で何かが動いたらしいで」
「何かってなんや」
真剣な顔をした鈴木に、藤田もささやき声で応じた。
「かなりでかい存在や。それ以上は知らん」
「何ででかい存在が動いてるんや」
「真犯人をかくまうためやないか」
「かなりヤバいやつやったいうことか」
「そやろな。多少荒っぽくても犯人特定を大々的に発表したんは……」
後はわかるやろ、と鈴木は目線で語った。
「証拠がなくとも、自白が得られれば、事件は確定するってか。少年
事件やで。そんな乱暴な……」
「少年やから、まかり通る思とるんやろな。通り魔の方は、認めとる
んやろ。ほんなら、ついでにこいつに罪をかぶせてまえ、っちゅう
ことやろな」
「アホか!」
「俺にキレたってしゃあないで。まあ、確かな情報ちゃうし、残りは
俺の想像や。ホンマはそんなことなかったかもしれん」
「あったかもしれんのやろっ。兵庫新聞は何しとんや!」
鈴木はニヤリと笑うと、つっこんだ。
「あそこにはとっくに真実がないやろ」
「せやけどお前」
「今のは部内でも言うな。本格的に首が飛ぶ」
「真実を伝えるのが新聞やないのか」
「わかるやろ。兵庫新聞はじめ、各新聞にもコナがかかっとるんや」
鈴木はそれだけ言うと、話を途中で切り上げた。
藤田は、鈴木が置いていった書籍に目を通しながら、事件のことを
思い返していた。
――あれはいったい何やったんや。初めから終わりまで、煙に巻か
れたように謎が取り巻く事件やった。犯人と称された人間もすっかり
話題に上らなくなった。もはやこれで手打ちなんか。
藤田は悔しさを噛みしめながら、ベッドで懊悩した。書籍のハード
カヴァーがきしきしと音を立てた。クソっと吐息をもらすと、本を床
に投げつけた。藤田は握りこぶしを作ると、自分の無力さに歯噛みし
た。
――絶対に暴いてやる。時が経っても……
大きな壁に向かって、藤田はゆっくりと大きな一歩を踏み出した。




