2 ラプソディ
名もなき怪獣に名前と唄をくれた、旅する詩人の話。
ある朝のことです。今日も怪獣は森で孤独に過ごしていました。ですが今日はまだ一歩も巣穴から出ていません。
男が来なくなってしまったあの日から何日も巣穴で待ち続けたこともありましたが、結局男は来ませんでした。だからどれだけ待っても男はもう帰ってこないことは知っていました。
けれども、数日前にふと思ったのです。もしかして今だったら姿を見せてくれるかもしれない、と。こうして巣穴に閉じこもっていたら、あの日のようにまた優しく語りかける声が聞こえてくるかもしれないと。
結局、何年経っても信じることができずにいたのでしょう。男がもう来ないことを。
深い深い闇の中。外ではぺちゃくちゃとスズメのおしゃべりが聞こえます。きっと、今日も森は朝日を浴びて明るく輝いているのでしょう。暗くてじめじめしたこことは正反対です。
いつもなら男はとっくに来て一緒に森を歩いているはずの時間です。でも、やっぱり彼は来ません。来るはずがないのです。
「……だれか」
思わずそう怪獣は呟いていました。
人間の言葉を話したのは何年ぶりのことでしょう。声は、前にもましてガラガラです。
誰でもいい。お父さんだなんてわがままは言わない。誰か、一緒にいてほしい────
ふいに、怪獣の足に何かが当たりました。続いてキャッキャと笑う声。
どうやら小石を投げ込まれたようなのです。いたずら好きなところを考えればキツネの子どもかもしれません。
そのいたずらでさえも恋しく思えた怪獣は、「誰?」と声をかけてみした。
キャーッ。そんな声が聞こえてそれっきり笑い声は聞こえなくなってしまいました。
怪獣は、ひとりぼっちでためいきをつきました。
少し時間が経った頃でしょうか。聞いたことのない音色がどこからか聞こえてきました。
動物の鳴き声ではありません。でもずっと聞き入っていたくなるような、流れていくようなよく澄んだきれいな音です。そう、時々森を走り抜けていく強い風の音にとてもよく似ています。
導かれるように怪獣は巣穴から出ます。太陽のまぶしさに目をしばたたかせましたが、それもすぐ慣れました。
森を歩いていると途中でシカに会いました。リスにも会いました。でも、音に聞き入っていたり、怪獣と同じように音に向かっていったり。誰も怪獣には気づきません。
音の正体は一本のコナラの木の下にいました。羽のついた茶色の帽子をかぶった人間が、木でできた素朴な笛で何かを奏でているのです。
一瞬怪獣はお父さんかと思い、気づかれないように木に隠れながらそっと近づいてみましたがどうやら違うようです。でも、とても優しそうな目をした男でした。
近くで見ていると突然、その男が笛の音を止めてぱっとこちらを振り返りました。
「あっ」
慌てて近くの茂みに飛びこみましたが遅かったようです。男は目を丸くして怪獣のいる茂みを見つめていました。
怪獣は男が逃げてしまうと思いました。でも男は逃げる様子もなく、それどころか茂みの中の怪獣にほほえみかけています。
「やあ、こんにちは。驚かせてしまったかい?」
「……だれ?」
怪獣は頭だけ茂みから出して人間の言葉を使って尋ねてみました。
「おお、君は人の言葉がわかるんだね! 私はただのしがない吟遊詩人さ。さ、怖くないからおいで」
誘っているつもりなのでしょうか。吟遊詩人は肩にかけた大きなカバンからパンを一切れ出して怪獣に向かってひらひらさせています。
……あの人は僕を怖くはないのかな?
そう思いつつも怪獣はおそるおそる吟遊詩人の方へ近寄っていきました。
「いや~、街の人々の中でこの素晴らしく壮大な自然の良さをわかってくれる人は少ないんだ。国を救った英雄の話や王宮の儚い恋の話の方が好きみたいでさ」
吟遊詩人は、こちらから聞いてもいないのに自分の事をよく語りました。どうやら彼は街で伝承や英雄を唄うことよりも、海や山の自然の風景を見ながら唄を作ることの方が好きなようなのです。
彼は笛を使って、大空を自由に舞うトンビの唄を吹いてみせてくれました。そして怪獣は、その美しく心地よい音の流れにゆったり身を任せるのです。
ひとしきり吹き終えた吟遊詩人は「君の事も聞かせてほしいな」と人の言葉を話すふしぎな怪獣の事もよく知りたがりました。目をキラキラ輝かせるその姿はまるで子どものようです。
「え、え……と?」
怪獣は一瞬、困惑してしまいました。意思の疎通はできても、彼のように語れる自信はありません。それでも怪獣は、記憶を辿りながらなんとかバラバラの単語をつなぎ合わせていきました。
自分が嫌われ者であること、そんな自分を愛してくれた人間のこと、その人間がある日突然来なくなってしまったこと────ここまで喋ったのはおそらく初めてでしょう。あの男もどちらかといえば無口な方でしたし、何より話し相手も長い間いませんでしたから。
吟遊詩人は相づちを打ちながら、怪獣の言葉を真剣に聞き取ろうとしてくれました。そして、怪獣も話し終えると彼は何やら考えながら、カバンから今度はリュートを取り出して弦を指で弾いていきます。
何をしているのだろうと怪獣は思いました。吟遊詩人が適当に音を出しているように見えたからです。
それからしばらくして、吟遊詩人は細い目を大きくして嬉しそうな声を上げました。
「できた! 君と君の話をモデルにしたんだ。一見怖いけど、とても優しい心を持った怪獣の唄さ。怪獣ははかつて自分を愛してくれた男を捜して旅に出るんだ。そして苦難の果てに君はその男とついに巡り会う。彼の見た目はすっかり変わってしまったけれど心はそのままで、君を優しく抱きしめてくれる。そんな変わらない愛の唄だ。聴いてくれるかい?」
なんと吟遊詩人は怪獣の語った話を元に一瞬で唄を作り上げてしまったのです。怪獣がうなずくと、さっそく彼はリュートを弾きながら透明な声で唄い始めました。
一つの音が連なって旋律となり、それが彼の声と合わさって物語となる。恐ろしい怪獣の話なのに、とても優しい音色が流れていく。長い唄のはずなのに、時間も旋律とともにあっという間に流れてしまいます。
唄が終わった後、吟遊詩人は興奮した調子で言いました。
「いい感じだ! さて、名前はどうしよう? 名前……そうだ、君の名前はなんていうんだい?」
「なまえ?」
名前が怪獣にはありませんでした。動物たちはみんな「ヤツ」と呼んでいましたし、男と話すときはわざわざ名前なんて呼び合わなくても伝わっていましたから。
「……ないみたいだね。なんなら、私が君の名前をつけてみようか」
怪獣はうなずきました。
「そうだな……これは狂詩曲のつもりで作った唄なんだけど────そうだ。《怪獣のラプソディ》。ラプソディという名前はどうだろう!」
ラプソディ。怪獣にその意味はよくわかっていません。でも、響きが素敵だと思いました。それに、自分だけの名前を誰かがつけてくれるなんてなんだか嬉しいではありませんか。
だから怪獣も喜びを表すためにこくこくうなずいてみせました。
「気に入ってくれたようで私も嬉しいよ、ラプソディ」
それを見て吟遊詩人も満足げな顔で笑いました。
「……さて、唄も作ったし、休憩はここまでにして私もそろそろ行こうかな」
……えっ?
ラプソディの戸惑いをよそに、吟遊詩人はおもむろに立ち上がります。
「なぜ? なぜ?」
いなくなってしまうの? せっかく会えたというのに。
でもそれをどう言葉にしたらいいのかわかりません。
「吟遊詩人は一つの場所に留まらないんだ。その風景を心に刻んで、唄を作ったらまた旅に出なきゃ」
衣服をつかんで引き留めようとするラプソディに吟遊詩人は言います。
「出会いもあれば別れもあるさ。でもきっと、またいつか会える日が来るよ」
「いやだ」
あの男は戻って来ないのです。いつまでたっても、ずっとずっとずっと。吟遊詩人もいなくなってはまた孤独になってしまうのです。
「そうだ。私と君の友好の証にこれを預けておこう。また出会うその日まで持っていてくれないか?」
吟遊詩人が差し出したのは笛でした。ラプソディは自分の巨大な手で壊してしまわぬようにそっと受け取りました。
「君にかつて親切にしてくれた人と君が再び会える事を心から祈っているよ。それじゃあ、また会う日まで」
そう言って、その日のうちに吟遊詩人は森からまた旅立っていったのです。




