甘露
レストラン、ラ・メゾン・ド・スガヤのオーナーシェフ、菅谷真史氏は34歳という若さにもかかわらず、世界一の呼び声も高いフランス料理人であり、僕の幼馴染である。大学院で脳のナントカについて研究した後、28歳で渡仏。その後、5年間の修行をしたあと突如として頭角を現し、ついに三ツ星レストランのシェフに迎えられた、とな。
随分と出世したものだ。大学院時代は毎日、機械をいじくり、脳波を測定して、標本を切り刻んでいたりしたのが、いまではオーブンをいじくり、温度を見極め、食材を切り刻んでいるわけだ。
いまの僕の小遣いでは、ここのディナーの一回分にもならない。今夜、ここに来られたのも、ひとえに幼馴染からの有難い招待・・・・ではなく、雑誌の「東京で味わう世界標準」とかいう企画の取材のおかげである。それでも、予約が取れないこの店を開けてもらったのは、他でもない僕からの「お願い」が効いたからだけど。
今日のレポーターは有名な俳優で、一般に食通として知られているけれど、僕らのなかでは「鉛の舌」として知られている。どんな名店で食事をした後にも、きまってコンビニでカップラーメンを買ってこさせ、「口直し」と称して、ズズッ。
その時の顔と言ったら、僕の得意技のCG合成で、レストランでの顔と交換したいと思わせるぐらいで。要は、食べた瞬間に美味しそうな顔ができさえすれば、こっちとしては砂を食べていたって差し支えない。事前に使う材料とかの情報を吹き込んでおけば、彼が適当にコメントを作ってくれる。作れなければ、僕が作る。
というのがいつものパターンであるが、ラ・メゾン・ド・スガヤだけは格別だった。あの俳優の顔が、いままでのどんなカップラーメンを食べたとき以上の恍惚感で、そのまま顔の部品が蝶になって飛んでいってしまうのではないかと思われるほどになった。演技ではない。いつもの演技とは空気が違う。なにしろ感想が止め処もなく流れ続けて洪水となり、しきりに口へ流し込まれる料理とのアンサンブルが店内に響き渡る。俳優氏も大満足だったと見え、予定していた時間より早く終わった。
「おい、荒川。おまえは少し、時間があるんだろ」
「まあな。残りの仕事は遅くなってもできるしな」
「なら、ちょっと食べていかないか。賄いで出しているのがあるから」
菅谷自身がデザインしたという店内の装飾は、蚕の繭型宇宙船といった雰囲気で、フランス料理というよりはフリーズドライの宇宙食が似合うのかもしれないSFな空間である。軽量化用の穴があけられたアルミ材を多用した内装と、色とりどりの人を包み込むような卵型のチェア。このチェアなら他の席から見られることも少ないだろう。いろんな業界人の御用達、というわけだ。
菅谷が皿を二つ持ってきてくれた。
「こっちのテーブルじゃなくって、バーカウンターの方で食おうぜ」
フランス料理でもないけど、と持ってきてくれたのは有機野菜の入ったスパゲッティーで、夜食には持ってこいの醤油ベースのさっぱりしたものだった。食べてみると、まあ美味いが、とりたてて言うほどのものでもない。まだお互い仕事が残っていたので、ペリエを一瓶、分けて飲んだ。こんなことは、小学校以来だろうな。当時はコーラとかサイダー、ラムネだったけど、いまでは超高級フレンチレストランでペリエか。
4,5年ぶりにあった菅谷は夏目漱石のようなヒゲを蓄えていた。
「どうだ。美味いか」
「まあな。でも、さっきの俳優みたいに涙を流すほど美味くは無いな。ま、賄いだからしかたがないのかもしれないが」
「いや、賄いだからって手は抜かないぜ。うちの店のレベルはこんなものさ。美味いが、とりたてて言うほどのものでもない。天才料理人が持つプラスアルファがないんだな」
「おいおい、世界的なシェフが天才じゃないって?いや、十分、美味いと思うよ。少なくとも、こんな単品のパスタでこれだけ美味いのは凄いよ」
「いや、もし天才だとしても料理の世界で天才と言うわけでは無いと思う。ちょっと見てみるか?」
菅谷はバーカウンターから、テーブル席へと手招きした。
たくさんのカラフルな卵、ガラスとアルミでできたテーブルの間を抜けていく。彼は、店の一番奥にあるテーブルで止まった。
「さてと。ちょうど僕が博士号を取った直後だったよな、日本を発つ前に会ったのは」
「そうそう。それで、突然、フランス料理の道に進む、とか言い出して」
「まあ、な。もともとウチは洋食屋だったし、跡を継いでくれ、とか言われていたんだけど」
「それで料理の道に?」
「いや、そのころに僕は、研究は好きだったんだけど、アカデミックな世界が嫌になっていてね。どこか他の道に飛び出したかった。だけど、この年で新しい世界に入るのは難しい。そこで、これを使った」
菅谷は、卵型チェアの上部を外した。ゆで卵のフタを開けるように。中を覗くと電子回路がぎっしりと埋め込まれていた。
「おまえだけに教えておきたい。隠し事はなしって、昔からの約束だからな。詳しいメカニズムは教えられないが、これだよ。僕の料理のプラスアルファは」
「なんだい、この機械は」
「人間の脳に直接、働きかけることが出来る装置でね。人が美味しいと感じる脳の部分を意図的に刺激できるようになっている。そこを刺激された人間は、何を食べても美味しいと感じてしまう。だから、そこそこの料理でも世界一だと思わせられるのさ」
「そんな、そんなことが出来るのかい」
「さっきの俳優が感動していただろう。どんな味音痴でも、この装置には関係ない。脳を直接刺激するんだからな。もし水道水を飲んでいたとしても、この椅子と装置があれば甘露になるだろうね」
突然の話だったが、確かに菅谷の研究内容と合っていたはずだ。家が洋食屋だったせいか、味覚と脳について専攻していた彼は、ついに何でも美味しく感じさせる仕組みを完成させていたのか。
「・・・だから、料理の対決番組に出ないのか?」
「この椅子がなければ、確実に僕は負ける。そうなれば、いままで築いてきた店の評判を落とすことになるんだよ」
どこかの雑誌に書いてあった「僕の料理という芸術は、甲乙をつけて比較するためのものではない」という彼のコメントを思い出した。
実際に僕がチェアに座ってパスタを食べようとしたら止められてしまった。またカウンターに戻って残りを平らげ、もう一皿お代わりした。別に、そんな装置が無くったって十分、美味いと思った。
結局、中身を見せてくれたのは、あの一脚だけだった。他の椅子にも入っているのか本当のところ、よくわからない。そんな装置が実在するかどうかも。あいつは昔っから僕のことを騙しては面白がっていたからな。
社に戻ってから彼のレストランを記事にするときに、いろいろと考えたが、僕は、それを彼一流のユーモアだと結論付けて、いつもどおりの原稿を書いた。いつもより、心なしか原稿の出来栄えは良かったと思う。