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クレージュとリシェルのほんの一瞬の出会い。
この一瞬から物語が進みはじめます。
朝の王城は、透き通るような静けさに包まれている。
白い石壁に差し込む柔らかな陽光。
遠くの庭園からは小鳥の囀り。
まるで世界がゆっくりと目を覚ましていくようだった。
王女リシェル=フォン=オベールは、
窓際の椅子で白銀の髪をゆっくりと整えながら息を吐いた。
「……今日は、歩きたい気分ですね」
誰に聞かせたわけでもない独りごと。
しかし、胸の奥で小さく波紋が広がっていく。
理由はわからない。
ただ──今日は街を見たかった。
城の外の空気を吸って、風を感じて、人々の顔を見て。
“なにかに出会える予感”がした。
思いつきでも、気まぐれでもない。
説明のつかない胸のざわめきだけが、
リシェルの背を軽く押していた。
◆
「殿下、支度は整いましたか?」
扉の向こうから聞こえるのは、
騎士フランソワーズ=クレマンの落ち着いた声。
「はい。すぐ行きます」
扉を開けると、
銀髪の女騎士が静かに一礼した。
「本日は南門から市場を軽く回り、
その後は商業区を中心に視察する予定です」
「すべて回らなくていいですよ。
ゆっくり歩くほうが好きですから」
「……殿下は本当に自由ですね」
フランソワーズはそう言いながらも微笑む。
幼い頃からずっと側にいた彼女にとって、
リシェルの気まぐれは今さら驚くことではない。
「では、参りましょう」
◆
王都オベール・ロワイヤルの朝。
石畳に馬車輪の音が響き、
露店には焼き菓子や肉串の匂いが漂い、
街の人々の笑い声があちこちで弾ける。
「……やっぱりこの街は素敵ですね」
「殿下、あまり前を見ずに歩くと危険ですよ」
「ふふっ、気をつけます」
城の窮屈さとは違う、
外の世界の色と活気。
リシェルはそれが何より好きだった。
人々の視線が王女に気づいてざわめくが、
フランソワーズが最小限の護衛線を引くことで、
彼女は自然な形で街を歩ける。
◆
市場通りへ近づいたときだった。
「殿下、馬車が通ります。一歩下がってください」
「はい」
フランソワーズに促され、
通りの端へ下がる。
商隊の馬車が何台も列を成し、
樽や布が積み上げられている。
その合間──
リシェルの視線がふと吸い寄せられた。
(……?)
大通りの向こう側。
パン屋の前で、
茶の髪の少年が店先を掃除していた。
目をこすりながら、
朝の光の中で水を浴びているその姿は、
どこか不思議な透明感があった。
(誰……?)
名も知らない。
見たこともない。
それなのに──胸がきゅっと鳴った。
視線をそらそうとした、その瞬間。
少年がふと顔を上げた。
目が合う。
(……っ)
一瞬だった。
本当に一瞬。
それだけで、胸の奥に温かい何かが走った。
少年の瞳は驚いたように見開かれ──
次の瞬間、馬車の影がふたりを分断した。
「殿下? どうかされましたか?」
「な、なんでも……ありませんっ」
リシェルは慌てて姿勢を正した。
頬がほんのり熱い。
胸の高鳴りがまだ止まらない。
(今の……誰?)
そんな感情が胸を締めつけていた。
◆
「おいクレージュ! そこ、もう少し水まけ!」
「あ、はいはい……!」
フレイに怒鳴られながら掃除をしていたクレージュは、
ふと顔を上げた拍子に視界の隅に“白い光”を感じた。
(……え?)
通りの向こう側。
護衛に囲まれた少女がこちらを見ている。
白い髪。
薄い青の瞳。
朝の光を浴びて、
まるで淡い光そのものが形を取ったように見えた。
(すげぇ……)
息を呑む。
誰だか知らない。
けれど、目が離せなかった。
次の瞬間──
馬車が割り込み、少女の姿は消えた。
「……誰だったんだろう」
そう呟いた声は、
自分でも驚くほど静かだった。
◆
視察を終えて城へ戻る馬車の中。
リシェルは窓を見つめながら、
あの瞬間を思い返していた。
(……本当に、不思議)
たった一瞬。
ただ目が合っただけ。
それなのに、あんなに心が揺れるなんて。
「殿下、本日の視察はいかがでした?」
「とても……良かったです。
なんだか、胸が少し楽になりました」
「それは何よりです」
フランソワーズは相変わらず冷静だったが、
横顔には小さく優しい笑みが浮かんでいた。
◆
同じ頃、〈ブラハム堂〉の店先でも──
(……あの子、誰だったんだろう)
少年は、
初めて見る少女の姿を思い返していた。
白い光を纏うような存在。
名も知らぬ王女と、
身分も知らぬ少年。
ほんの一瞬の交差。
けれど、それが二人の灯火になり──
その小さな光が未来の運命を揺らすことを、
まだ誰も知らなかった。
お読みいただきありがとうございます。
二人の出会いがこの先物語を大きく動かしていきます。
引き続きお楽しみくださいましたら幸いです。




