1-15
オベールロワイヤルの昼下がり。
市場の喧騒は少しずつ熱を帯び、
遠くでは祭りの準備の太鼓が控えめに鳴っていた。
クレージュは〈ブラハム堂〉の店先で、
焼き立てパンの入った籠を抱えていた。
「クレージュ、次の配達は市場通りだ。
あんまり寄り道すんなよ」
「しませんよ! ……多分!」
「おい」
フレイが目を細める。
「“多分”のときは、だいたい寄り道するんだよ」
「いや今回は本当にしません!」
そう言いつつ、
胸の奥が不思議とそわそわしていた。
(……なんでだろ)
理由は、もう自分で薄々気づいていた。
(また……会える気がする)
昨日までなら「偶然」で片づけていた気配。
けれど今日は違う。
胸の奥で、何かが“近づいてくる”と告げていた。
◆
一方その頃――
王都の中央広場に足を踏み入れたリシェルも、
同じように胸の光が温かく揺れていた。
「殿下、顔が緩んでいますよ」
「えっ、そ、そうですか?」
「ええ、とても。
“誰かを探している顔”をされています」
「っっ……!」
リシェルは慌てて頬を押さえた。
(だ、だって……今日こそ、話せるかもしれないから……)
昨日からずっと、
胸がざわざわして落ち着かなかった。
「殿下、今日はあまり長く歩き回ることはできません。
昨日から不穏な影が街に増えています」
「……はい。気をつけます」
それでも、
視線は自然と市場通りの奥へ導かれる。
(あの人……いるかな)
◆
そして――
二人の足は、まるで決められたように同じ方向へ向かった。
市場通りの角。
露店が風に揺れる布を並べ、
子どもたちが駆け回る賑やかな一角。
その中心で、
クレージュとリシェルの視線が重なった。
「……っ」
「……」
ほんの一瞬だけ、
世界が音を失ったように静まる。
胸の奥で、
六彩の光と白光の魔力が小さく揺れ、
互いを“見つけた”と告げていた。
◆
動いたのは――
クレージュのほうが少しだけ早かった。
配達籠を抱えたまま、
ぎこちなく、しかし真っ直ぐに歩きだす。
(話せ……話せ……話せ俺……!)
足は震え、心臓は喉までせり上がっていた。
距離が近づくたびに、
胸が熱くなる。
そして――
「えっと……!」
声が出た。
◆
リシェルはびくっと肩を揺らし、
両手を胸の前でそっと握りしめた。
「は、はい……!」
声がわずかに上ずる。
二人は向かい合い、
気まずさと嬉しさの混ざった空気の中に立った。
「えっと……その……」
視線が泳ぎ、言葉が詰まる。
「前から……何度か、お見かけしてて……」
クレージュがどもる。
リシェルの胸が、きゅっと鳴った。
「そ、それで……その……」
一度息を吸い、
クレージュは正面を見た。
「……気になってました」
一瞬、時が止まった。
リシェルは、言葉の意味を理解するのに
ほんの少しだけ時間がかかった。
「……え」
頬が、じわりと熱くなる。
「……わ、わたしも……」
声が震える。
「何度か……すれ違って……
そのたびに……胸が、変で……」
自分でも何を言っているのか分からない。
それでも、言葉は止まらなかった。
ほんの少し沈黙が流れ、そして
二人は笑ってしまった。
「……はは」
「……ふふっ」
笑った瞬間、
胸の奥の光が小さく触れ合うように揺れた。
◆
リシェルの方が、少しだけ勇気を出した。
「あ、あの……お名前……聞いてもいいですか?」
「っ……あ、えっと!
クレージュです! クレージュ=ブラハム!」
背筋がぴんと伸びる。
「わたしは……」
リシェルは迷った。
本当の身分を言うべきか。
でも、言えば彼を困らせてしまう。
だから――
「わ、わたしは……リシェ……です。
リ、リシェって呼んでください……」
「リシェ……?」
クレージュがその名を口にした瞬間、
リシェルの胸が柔らかく弾けた。
「はい……!」
「リシェさん、ですね。
すごく……綺麗な名前だ」
「っ……!」
頬が一瞬で熱くなる。
彼の声で自分の名前が呼ばれた。
ただそれだけで胸がいっぱいになる。
◆
だが、そのやり取りを
物陰からじっと見つめる影があった。
「……初めて言葉を交わしたか」
黒鴉の羽の男が、
フードの奥で笑う。
「白光と六彩。
揃って動く時は、もう近い」
「計画を早めるか?」
「そうだな……
王女が“心を寄せ始めた”なら、なおさらだ」
男の手の中で、
黒い羽根がゆっくりと舞い落ちる。
「近いうちに……王都は大きく揺れるぞ」
◆
クレージュとリシェルは、そんなことも知らずに
まだ少しぎこちない会話を続けていた。
「そ、その……パン……いつも買ってるんです。
ここのパン、すごく美味しくて……!」
「本当ですか!?
うちの店、そんなに有名じゃないのに……!」
「わたし、あの丸い甘いパンが好きで……」
「丸い甘いパン……あっ、ハニーボールですね!
あれ、俺がこねてるんですよ!」
「えっ……! ほ、本当ですか……!?」
胸がまた跳ねた。
(この人の作ったパン……わたし、ずっと食べてた……)
ただそれだけのことが
どうしてこんなに嬉しいのだろう。
◆
「殿下」
「!?」
背後から、フランソワーズが声を掛けた。
リシェルの護衛としての警戒が滲んだ声音。
「殿下、そろそろ戻りますよ」
「っ……は、はい!」
リシェルは慌てて振り返る。
(もっと……話したいのに……)
胸がきゅっと締めつけられた。
「えっと……また……会えますか?」
勇気を振り絞ってリシェルが言うと、
クレージュは驚いたように目を見開き、そして笑った。
「はい。
また……会いたいです」
「……!」
その言葉だけで、
どんな宝石よりも胸が光る気がした。
◆
リシェルがフランソワーズに連れられて歩き始める。
クレージュはその背中を見送りながら、
胸の奥がぽかぽかと熱くなるのを感じていた。
(また……会えるよな)
白い光が遠ざかり、
市場の喧騒が少しずつ戻ってくる。
だが――
その日の会話は、二人の心に一生残る出会いとなった。




