フィンの日常
午前7:45。
フィンはビルの地下2階にある処罰課のオフィスに足を踏み入れた。
まだ誰もいないフロアは薄暗く、わずかに残る照明がコンクリートの壁をぼんやりと照らす。
バリスタとして働く彼の朝はまず課内の清掃から始まる。
ほうきとちりとりを手に取り、デスクの隙間に溜まった埃を静かに掃いていく。
彼の穏やかな表情からは想像もつかないが、その動きはまるで舞台役者のように無駄がなく流れるようだった。
清掃を終え、カフェスペースに戻ると彼はまずエスプレッソマシンの電源を入れ、豆を挽くグラインダーの音が静かな空間に響き渡り、やがて芳醇なコーヒーの香りが満ちていく。
午前8:00。
最初の客、いや、同僚が現れる。
「おはよ~、フィン…」
あくびをしながら入ってきたのは田中。
「おはようございます、田中さん。
いつものでいいですか?」
田中はいつもブラックコーヒーだ。
「あぁ、頼むわぁ…」
フィンは慣れた手つきでコーヒーを落とし、少しして田中の席に持っていく。
「お待たせしました」
フィンが差し出した暖かいブラックコーヒーを田中はぼんやりとした表情のまま受け取った。
カップから立ち上がる湯気が彼の疲れた表情を霞ませる。
「ふぅ」と小さく息を吐いて今日もうまいと誉め言葉を呟いてもらえてフィンの顔も緩んだ。
(本当は甘いカフェラテが好みなのを知っているのは、おそらくこの部署で自分だけだろう)
口には出さないが、毎日ブラックコーヒーを注文する彼の気遣いをフィンは静かに見守っている。
山積みの書類に目を通し、PCを操作する姿。
だるそうにしているがその手は一切迷いがなく、テキパキと仕事をこなしていく。
フィンの目に映る田中は、やはりこの部署を支える優秀な人材だった。
そして静かに時間は過ぎ、時刻は8:50を少し過ぎた。
朱香以外の社員は出社している。
8:55。
朱香のために仕入れたオレンジを半分に切っているところで朱香が静かに入ってきた。
自席のPCを起動し更衣室に向かう。
それを確認してフィンはオレンジをミキサーに入れた。
オレンジジュースが完成する頃には朱香がここに到着してくれる、完璧なルーティンだ。
「おはよう、朱香。今日もいいオレンジが入ったよ」
「おはようございます、フィンさん。ありがとう」
朱香はオレンジジュースをひと口飲むと少しだけ表情を緩ませた。
この表情を見逃さないようにするのはフィンのポリシーだ。
少しでもこの血なまぐさい仕事を忘れさせる場所でなければならない。
「さて、周知事項の時間だから、よく聞けよ~」
田中の声に合わせて全員が顔を上げたり足を止め、田中のほうを向く。
朱香も自席に戻って田中に集中した。
フィンも周知の内容は聞きながらカフェの仕事を進める。
「以上、就業開始~」
田中はそう言って再び大きなあくびをした。
その言葉を合図に静かに話を聞いていた職員たちは各自のデスクに戻り、キーボードを叩き始める。
他の社員が各自の仕事に取りかかる中、田中は立ち上がり朱香のデスクに向かった。
朱香はオレンジジュースを飲み干すと、田中についていこうとする。
その時、2人の間で会話が交わされた。
「田中さん、今日のランチはお蕎麦がいいです」
「いいけど…何で蕎麦?」
「わんこそばやってみたい」
表情を変えず2人も武器庫に向かいながらランチの相談をしているようだ。
…わんこそば、見てる分には楽しそうだもんな。
「この辺でやってるところはないから普通の蕎麦で諦めろ」
そのやり取りをカウンター越しに見ていたフィンは、ほかの社員たちが一瞬顔を合わせすぐに何もなかったかのように視線を外すのを目にした。
誰も口には出さないがきっと思っている。
(なんで近場にないことを知ってるんだろう…)
この部署では言葉にしなくても伝わることがある。