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Kev 1




 危うく見逃すところだ。

 麦っぽい植物の薄暗い根本で、黒いハードケースは影に紛れかけている。

 ゲームで見たとおりの逃走支援キット。これにはパラシュートが付いていないものの、再現性がえらく高い。エイリアンのやつ、洋ゲーのファンなんだろうか?

 アキラは〝THIS SIDE UP〟と刻印されている蓋を開ける。旅行用大型トランク並みの容量の大部分を占めるのは卵のカートン状の発泡材で、物資自体は少ない。

 迷彩柄のウェビング付きリュックサック。

 大小数種類のポーチがウェビングに留めてあるモジュラーベスト。

 アームバンド。

 ベルト付きのコンパス。

 黒い腕時計。

 小型双眼鏡。

 予備とおぼしいPDAと保護ケース。

 電池の収まった充電器とマイクロUSB。

 ヘッドフォンみたいなやつ。

 アイプロ。

 プロテインバーの紙箱。

 ゼリー飲料が半ダース。

 それから、ミネラルウォーターとスポーツドリンクのボトルが各二本。

 アキラは真っ先にスポーツドリンクを手に取る。たったいま冷蔵庫から出したみたいにキンキン冷え冷えだ。もどかしい思いでキャップを外し、半リットルの液体を一息に飲み干す。もう一本飲みたいけれど、水っ腹になって走れなくなる。代わりに、ゼリー飲料のパックを握り潰すようにしてグレープ風味の冷たいどろどろを啜り上げる。

 で……肝心の武器は?

 ピストルすらなし?

 と、物資の載った底面の隅が浮いているのが目に留まる。めくると小尾板が覗く。二重底か。どうりで土台がやけに分厚いと……

 アキラはモジュラーベストとアームバンドを脇にどけて、ほかの一切合切をリュックサックに放り込み、底面を取り払う。あらわになったのは、型抜きされた発泡材にすっぽり収まっている自動小銃。〝チュートリアル〟で使ったばかりのXM2038。今回のカービンはスリング付きだ。

 モジュラーベストはアキラの体格にはぶかぶかだが、腹のストラップを調節することで多少マシになる。五個用意されていた弾倉のうち、四個を腹のポーチに入れてフラップを閉じ、一個をカービンに挿し込む。機械的な振動音が響く。

 逃走支援キットの蓋に放り出していたPDAが控えめにヴーヴーいっている。

 タッチスクリーンに触れる前にバイブレーションが止まる。新着3。

〝警告〟と題された一件めのメッセージは短い。

   

                       【警告】

                      500m制限

   装備品から500m以上離れた状態で1800秒経過後、当該装備品は消失します。置き忘れ等に

   ご注意ください。


 アキラはふんと鼻を鳴らす。『SNAFU』にはなかった要素だ。どうやら、エリアンは技術流出をお望みではないらしい。

 二件めのメッセージも短い。アイプロ(眼球保護器具)の紹介で、ゲームでは眼球周りにヒットした爆発物や銃弾の破片に視覚を奪われないための必需品だったが、リアルでは、発射薬の燃えカスやその他異物からも保護してくれる射撃の必需品と書いてある。アキラはサングラス風の洒落たアイプロをかけ、脱落防止のヘッドバンドを後頭部にひっかける。

 三件めのメッセージは、少し長い。


                   【読み上げ機能について】

   ブルートゥース対応イヤプロ(聴覚保護器具)の支給により、メッセージの読み上げ機能がアンロ

   ックされました。イヤプロ装着時はハンズフリーで新着メッセージの内容をご確認いただけます。

                     【使用方法】

   イヤプロ装着後、新着メッセージをお報せするビープ音が聞こえた際は、マイクロホンに「スター

   ト」と命じるか、ブルートゥース対応ボタンを一度押すことで、読み上げが始まります。項目を飛

   ばすときは「スキップ」と命じるか、対応ボタンを二度押してください。読み上げを停止する際は

  「ストップ」と命じるか、約三秒間、長押ししてください。これらはPDA本体のメディアプレイヤ

   ーでも操作可能です。

                      【重要】

   イヤプロに内臓されているノイズキャンセリング回路は、鼓膜にダメージを蓄積して恒久的な聴覚

   障害を引き起こす140デシベル以上の騒音や、85デシベルを超える警戒域の音量を82デシベ

   ル以下に抑えて使用者の耳の健康をお守りします。

     *イヤプロを装着する際はヘッドストラップを調節してジェルパッドが耳をしっかりと覆うよ

      うに装着しください。また、必ず両耳でご使用ください。装着が緩すぎる場合や片耳で使用

      すると、ノイズキャンセリングの効果が正しく発揮されず周囲の騒音が聴覚障害をもたらす

      恐れがあります。

     *右利きの方は左耳側に、左利きの方は右耳側に、マイクロホンを取り付けてください。左右

      逆の取り付けは射撃の邪魔になる恐れがあります。

     *イヤプロの立体集音機構はノイズキャンセリング作動時も正常に保たれます。

     *連続使用時間はCR123電池(x2)で二五〇時間、AA電池で一三〇時間です。

      **騒音の多い環境ではバッテリー消費量が増えるためご注意ください。

      **気温が極端に低い環境ではバッテリー消費量が増えるためご注意ください。

      **音声案内の使用はバッテリー消費量が増えるためご注意ください。


 アキラは一四〇デシベルや八五デシベルがどれくらいの音量なのか見当もつかず、銃声が何デシベルなのかも知らないが、たくさん撃つと耳鳴りがする、という経験則を得たばかり。ヘッドフォンみたいなやつ――イヤプロをリュックサックから出して、右耳側にマイクロホンを挿す。ジェルパッドがぴたりと吸い付き、耳が完全に覆われて、ほとんど何も聞こえなくなる。電源ボタンを押すとアクティブモードに切り替わり、音が復活する。風や葉擦れの聞こえ方は……装着前と一切変わらない。まるで何も付けていないみたいだ。

 アームバンドを前腕に巻きつけながら、マイクに向けて日本語で囁く。

「こちら地球人、応答せよ。どーぞ」

 応答なし。

 でも宇宙人野郎が盗み聞きしているのでは?

「助けてくれてありがとうございます。でも地球に帰してください。お願いします。なんでもしますから、今すぐ家に帰してください。家族に会いたいんです。こんなところにはもう一秒もいたくありません」

 変わらず応答なし。

「せめて……質問に答えてくれませんか? 誰か知りませんけど、あなた方がぼくを――ぼくらを、この世界に連れてきたんですか? それとも、別の連中がぼくらをこの世界に連れてきて、それを見かねてさっき助けてくれたんですか?」

 だんだん腹が立ってくる。

「なあ、マジで何をさせたいんだよ? 目的は何? 目的を教えてくれたら、それと家に帰れる切符をくれるなら、上手に踊ってやる。約束がほしい。家に帰すって約束が」

 アキラは懇願し、罵倒し、挑発し――「隠れてコソコソやるしか能がないのかよ、くそ宇宙人ども!」――また懇願する。

 今度はだんだん虚しくなってくる。

 送信機能か何かをアンロックする必要があるのか、単に無視されたのか……

 けっ。

 四件めもアンロック通知だ。


                     【装備一覧表】

   装備一覧表がアンロックされました。今後は新規受領装備の情報が自動的にダウンロードされま

   す。装備の不明点などは〝EQUIPMENT〟の装備一覧からご確認ください。


 いったいどこからダウンロードされるのかはともかく――くされマザーシップだろうか?――アキラはEQUIPMENTをひらく。

 今や懐かしさすら覚えるマルチプレイの装備設定画面。この緊急時に〝WEAPON〟と〝AMMUNITION〟の項目をわざわざ開いたのは、『SNAFU』で狙撃銃や選抜射手ライフルを使っていた経験から、カービンと使用弾薬の精度が気になったせい。

 XM2038のテクニカルデータを表示して精度の欄を探す。2MOA。抜群じゃないけれど、悲観するほど悪くもない。自動小銃としては上等の部類。

 続いて、ケースレス6・8ミリ弾のBC(弾道係数)を確認する。G1BCモデルで0・5。G7BCモデルで0・256。自動小銃やSAWでばら撒く弾のくせして、砂ライフルで最初期に使っていた軍用7・62ミリ競技用弾薬のBCとほぼ同じ。

 つまりこのカービンと弾薬のコンビネーションは、射距離一〇〇メートルで直径六センチ弱の範囲に銃弾を集中させられる。デフォルトの零点規正距離/バトルサイト・ゼロの三〇〇メートルで、直径一七センチの範囲といったところか。

 もちろん、実銃でその距離を狙えるかどうは別問題。

 そしてもちろん、適切な光学照準器を備えていなければお話にならない。

 この強い風の中じゃ、ホロサイトの対応距離はいいとこ二〇〇メートルちょい。目分量で風を補正したところで外すのがオチだ。

 カービンを構えてホロサイトを覗いてみる。

 周辺光が強すぎてレチクルが見づらい。

 テクニカルデータで操作部位を確かめ、光度を上げる。

 唐突に〝ピピピ〟と柔らかい電子音がして、アキラの心臓が跳ねる。あたふたと見回し、思い出す。新着通知の合図。読み上げ機能の存在をすっかり忘れて、PDA本体を操作する。メールBOXに〝必読〟と題されたPDFが届いている。

 ひらくと、まず表紙が映る。

 上端にデカデカと『初心者ライフルマン雨宮アキラくんのためのライフル射撃ガイド』なるタイトル。レイアウトはたくさんのスナップショット。ワルサー9ミリの弾倉を力任せに引き抜こうとしているアキラ。XM2038のうっかりフルオートで尻餅をつくアキラ。MナントカSBRの連射に振り回されているアキラ。不可解そうな顔でPDAに手を伸ばしているアキラ。乳首に吸い付く仔牛のようにゲータレードをぐびぐびやっているアキラ。下の隅に、どこか見覚えのある〝DON’T PANIC!〟のロゴ。

 マジざけやがって……

 いつどこで撮ったんだよ、こんな写真。

 しかし射撃ガイド?

 実際的な興味からアキラは目次に目を走らせる。

 今すぐ参考にできそうなチャプターがチラホラある。ゼッタイ読めと言わんばかりに蛍光マーカー風に強調表示されているチャプタータイトルもある。ぱっと目についた〝各射撃姿勢の共通ファクター〟をアキラは頭出しする。簡明な説明文を拾い読みし、何十点にも及ぶ模範ポーズのイラストを眺めてから、ほかのチャプターも拾い読みしてみる。

 なるほど……これだけでわかった。

 まさにぼくがやっていたように、ど素人が実銃をなんとなくのイメージで好き勝手に撃つと、当たるものも当たらなくなる。

 現実問題、さっきの騎馬突撃じゃ、命中弾が少なすぎて肉薄され、焦りまくって連射に頼り、その反動を制御できずますます焦り、にもかかわらず〝狂気の一分〟的な乱射でどうにかこうにか突撃を阻止できたのは、純粋にツイていただけの話で……

 またぞろ交戦状態に陥ったとき、乱射で切り抜けられるかどうかは極めて怪しい。

 それでいくと、このふざけた表紙の『射撃ガイド』は福音、救済だ。

 しかし悲しいかな、『射撃ガイド』を基に素人射撃術を矯正している余裕が、アキラにはない。

 水車小屋のほうに集まっていた軽騎兵が追ってきているかもしれない。

 本格的な人間狩り部隊が編成されてそっちも追ってきているかもしれない。

 EK1に着いてから何分経った? 五分? 一〇分?

 動かなきゃ。

 どんどん距離を稼がなきゃ。

 アキラは地球の配達業者みたくPDAをアームバンドに取り付けると、カービンのスリングを肩にかけてEK2への移動を開始する。

 相変わらず風が強い。

 生い茂る麦っぽい植物をかき分けて走るアキラの動きをマスクしてくれるほどに。

 とはいえ、風は終始、強まったり弱まったり、吹いたりやんだりする。

 視点の高い軽騎兵に見咎められるのを警戒して、風が弱まるとアキラは移動速度を落とし、やむとその場にじっとする。

 その僅かな無風休止で、移動中の思いつきを試してみる。

 タスクバーのメディアプレイヤー。

 いけるか?

 いけた。

 ドラッグ&ドロップで、PDF丸ごとでも、チャプター単位でも突っ込める。

『射撃ガイド』の強調表示チャプターを上から順にメディアプレイヤーに取り込んで、再生をタップする。女性ニュースキャスターを彷彿とさせる平坦な抑揚の日本語がイヤプロから流れ始める。周囲の物音がわからなくなるほど大きくも、案内が聞き取りづらいほど小さくもない程度に、ボリュームを調節する。

 交戦地帯でハイテク二宮金次郎スタイルの即席学習を敢行するのはあまり賢いとは言えないが、マルチタスク人間のアキラは、音声案内と周囲の物音、どちからか一方を疎かにすることなく、耳を傾ける。

 音声案内は〝安全規則〟で始まる。たとえ未装填でも装填してあるかのように銃器を扱うこと。はいよ。撃つつもりのない物体ないし方向へ銃口を向けないこと。はいよ。実際に射撃を行うまでは安全装置をかけておくこと。はいよ。射撃を行うその瞬間までトリガーには触れず、人さし指を斜め上に伸ばし、ふとした弾みで指がトリガーガード内に入る危険が低いレシーバーまたはフレームに添えておくこと。アキラはそうする。

 音声案内が〝ライフル射撃の基礎〟の朗読に移る。

 その途中で風がやむ。

 ふたたび吹き始めるまで、聞いた部分の実践にあてる。

〝ライフル射撃の基礎〟は大雑把に言って二段階。

 ハードウェアの調整と、ソフトウェアの調整。

『射撃ガイド』を参考に、アキラは伸縮型ストックのラッチを押して1ポジションずつ伸ばしては片膝立ちでカービンを構え、六段階の伸縮をすべて試す。小柄なアキラでも五段階の伸長がしっくりくる。この〝しっくり〟が大切らしい。『ライフル射撃ガイド』によると――

 射手の体格に応じた銃器本体の調整は、無理のない一定かつ安定した射撃姿勢による照準、NPOAナチュラル・ポイント・オブ・エイムの土台になり、NPOAは、いつ何時でもチークレストのまったく同じ一点に頬を置くストックウェルドの土台になり、ストックウェルドは、ライフルの精度を最大限に引き出す射撃技術の土台になる。

 実際に撃ってみるまでわからない部分もあるが、少なくとも、デフォルトのストック長よりもカービンを楽に構えられるようになったし、ホロサイトの〝窓〟の中央に緑色のレチクルが落ち着くようになった。ストックウェルドね。〝銃床に溶接〟とは上手いことを言う。左手が銃把に、左頬がチークレストに、左目がドットに溶接された感覚が……しないでもない。

 念のためにストックの伸縮を変えてみる。

 やっぱり五ポジがしっくりくる。

 次に、二点スリング。留め具をカービンの右側面に付け直してから、バットストック側のアジャスターで少しきつい程度に全体を短くし、カービンを楽に構えられるか確かめ、銃身を安定させるに足る張力がスリングにかかっているか確かめ、カービンを肩から提げたときに小尾板の高さが自然と乳首と鎖骨の中間あたりに落ち着くか確かめ、都度、ハンドガード側のクイックアジャスターで長さを微調整する。

 風が吹き始める。アキラは移動を再開する。

 数分後に訪れた無風休止でソフトウェア/肉体の調整に取りかかる。その準備として、外界の情報をより多く取り込んで身体反応に直結しているとかいう〝利き眼〟の診断。

 ぎっちょなら照準に使うのも左目かと思いきや、時折、利き手と利き眼は左右反対のことがあるらしい。念のために診断テストをやってみる。両手の親指と人差し指で三角形を作り、その真ん中に遠い物体――いま使えるのは千切れ雲――を収めて、左目を閉じる。千切れ雲は三角形のフレームの中。右目を閉じる。雲がフレームから外れる。利き眼は右。器用な手と器用な目が左右バラバラの〝交錯優勢〟。

 となると、これまでの逆をやることになる。

 右目で狙い、右手で撃つ。

 右手に持ち替えてカービンを構える。左目よりクリアというか、とてもしっくりくる。右手で銃把を握るのは少し違和感があるものの、まあ、問題なし。頬付けの際に接触したマイクロホンを左耳側に移し、スリングの留め具をカービンの左側面に戻す。

 で、ここから本格的に肉体の調整。やることが山ほどあるため、二つ三つ調整しては風と共に移動し、風がやんでは調整の続き、と複数回に分割する。

 約二〇分かけて一二〇〇メートル移動したとき、音声案内が一巡する。

 ちょうど風も弱まる。

 アキラは辺りの物音に耳を澄ます。

 危険が迫っている兆候はない。

〝ライフル射撃の基礎〟を通しでやってみるいい機会だ。

 手始めに、頭を銃のほうへ下げるのではなく、銃が頭の高さにくるようにカービンを肩付けする。それから、各射撃姿勢に共通する根本要素を一から点検して、誤りを修正していく。

 ぴんと伸ばした人さし指が銃身と並行になるように銃把をしっかりと握る。ただし、強く握りしめない。ゆるすぎてもいけない。強く握りしめたりゆるかったりすると、右手で撃つとき、着弾点が右上から右横にかけてズレる。

 小尾板を肩の窪みのコンフォートゾーン、胸筋の端にしっかりと当て、その圧力を一定に保つ。ただし、強く押し当てない。ゆるすぎてもいけない。強すぎると右下に、ゆるすぎると(アキラがすでに何度か体験した鋭い痛みを伴う反動のおまけ付きで)左上に、着弾点がズレる。

 小尾板を当てている肩をリラックスさせる。銃声や反動に身構えて肩が上がると、着弾点が下にズレる。逆に肩が下がると、上にズレる。

 頬をチークレストにしっかりと当て、頬骨を一定の圧力で預ける。ただし、強く押し当てない。強く押し当てると真上に、圧力が不安定であれば左下に、着弾点がズレる。

 ハンドガードを持つ手から力を抜き、脇を閉じ、垂直方向の骨格の支えを作る。この支えが上手く作れていないと、着弾点が右下にズレる。

 アキラは姿勢と肉体感覚を総点検する。

 注意事項のとおりにまあまあできてる……ような気がする。骨格と、適度に力の抜けた筋肉でカービンを保持できてる……ような気がする。

 本来なら次のステップは実射だが、当然、できない。

 代わりに、実射場面をイメージしてみる。

 呼吸のコントロール。カービンに伝わる肉体の動きを最小にすべく、自然な呼吸サイクルの呼気を吐ききったタイミングか、吸気の半ばで息を止め、トリガーを引く。呼吸のコントロールがまずいと、上下または左下に着弾点がズレる。

 トリガーコントロール。トリガーフィンガーの指先の腹を使い、トリガーを均一な力と速さでスムーズかつ真っ直ぐ〝押す〟。トリガーコントロールがまずいと、右上や右下に着弾点がズレる。また、トリガーフィンガーが銃床に触れていると、トリガーを真っ直ぐ後ろに引けず、着弾点が左にズレる。自然な指使いは個人差が大きいため、それが最も滑らかな操作に繋がるのなら、第一関節の近くで引くのも良し。

 ファロースルー。発砲直後の、銃弾がミリセカンドで銃身を通り抜けている最中に人為的な動きがライフルに加わると、着弾点がズレる。よって、射手は発砲時の反動に対して、何もしてはならない。頬骨はチークレストに、視線は照準器に〝溶接〟したまま、肉体的にも精神的にも反動に抗わず、おさまるのを待つ。可能なら何も起きていないかのように反動を無視する。同様の理由により、単射での発砲直後はトリガーを引き絞った状態に保ち、反動がおさまってからトリガーをリリースする。

 注意点はまだまだある。着弾点が水平方向にズレる原因、カント(ライフルの左右いずれかへの傾き)に注意せよ。バレルハーモニクス(発砲時の一定した銃身の振動)を狂わせて精度が劇的に不安定になる原因、銃身に触れる異物に注意せよ。目は一度に一つの物体にしか焦点を合わせられないため、標的ではなく照準――フロントサイトポスト/ドット/十字線――に集中すること。片目を閉じるとどこかしらの筋肉に無駄な力が入る上、遠近感・光量・視野・状況把握力が低下するため、両目をあけておくこと。ただし、片目を閉じるほうが上手く当てられるのであれば、片目を閉じるのも良し。

 さらに、射撃速度ならびに機動力を優先するときは胴体を正面に向けて前傾すべし。精度を優先するときは半身に構えて全身をリラックスすべし。使い分けろ。

『ライフル射撃ガイド』は謳っている――「すべてが正しく行われると、反動がおさまった時点で照準点は発砲前と同じ位置に戻ります。このNPOAの維持・継続が、射撃場においても戦場においてもマークスマンシップの基本です」

 アキラは嘆息する。

 付け焼刃でどうにかなることか、これ?

 意識しなきゃいけないことが多すぎる。

 というか、腐るほどの反復練習で筋肉に定着させなきゃいけないことが多すぎる。しかも左利き人間には不自然さをぬぐえないやり方で。

 軍人さんが射撃訓練にたっぷり時間を割くわけだ。

 そろそろここから動くべきだが、とても気になるチャプターが、もう一つ。

 ファイアアーム・マルファンクション――動作不良と診断材料、その解決策。

 今のところ実銃の動作不良は経験していないが、『SNAFU』のケースレス弾は弾薬不良が原因のミスファイアが結構な頻度で発生していた。このクソいまいましいリアル危険地帯には、銃の動作不良をたちどころに解消してくれるキーボードのNキーはない。スクイブロードに代表される致命的なマルファンクションに気づかず自滅しても、リスポーン地点からやり直すのも叶わない。

 アキラは各種動作不良・診断材料・解決策を短期記憶に刻みつける。ほかの強調表示チャプターに載っている立射・膝射・屈射・座射・伏射のバリエーション、計一四種の模範ポーズ集を二〇秒ほど眺め、その全体像と細部と注意点を、短期記憶仲間に入れてやる。

 お世辞にも準備万端とは言えない。

 が、本当にもうここから動かないと。

 EK2はすぐそこだ。

 

 辿り着くと同時に、EK3がマップの表示範囲ギリギリの位置に登場する。

 そして生い茂る麦もどきの根本でEK2の支給品を確認している最中、アキラはモノホンの軍隊の追跡能力の高さを思い知らされる。

 支給品はというと――

 ベルトホルスターに挿してある装填済みのワルサー9ミリと予備弾倉二個。

〝GRENADE,HAND.FRAG.DELAY.M67〟と書かれた破砕手榴弾が四個。

〝M83 SMOKE TA〟と書かれた発煙手榴弾と〝M7A3 RIOT CS〟と書かれた催涙手榴弾が二個ずつ。

 加えて、垂直フォアグリップと、複数口径対応QDサプレッサー。

 形と大きさからしてこうしかないだろう、と破砕手榴弾を小ぶりなポーチに、発煙手榴弾と催涙手榴弾を立方形のポーチに収める。ベルトホルスターは(奴隷ズボンにはベルトなどという気の利いたものはないので)脇腹のウェビングに留めておく。ベストがだいぶ重くなる。何ひとつ捨てる気になれないし仕方ない、と重さを受け入れて、アキラは装備一覧表をひらく。先刻の通知どおり、参照可能なテクニカルデータが増えている。

 フォアグリップの装着方法を調べようと――

 ――何か聞こえた気がする。

 耳を澄ます。

 聞こえる。

 カチャカチャと微かな金属音。

 それから、抑えたくしゃみ。

 ぎょっとするほど近い。

 アキラはPDAをスリープモードにしてスクリーンの目立つ明かりを消すと、リュックにアクセサリー類を放り込んで背負い直し、バックトレイルにカービンを向ける。

 息を詰めながら、避難勧告が間に合わなかった農夫か何かであってくれ、と切に願う。

 鬱蒼と茂る茎の隙間越しに下半身の一部が垣間見える。折り返し付きのくたびれた半長靴が二足、やや速い足取りで近づいてくる。残り三、四メートルで上半身がはっきりする。

 鉄兜と胸甲。灰色の衣類。エクサリオ兵が二人。

 どちらも地面を見、獲物の足跡を辿るのに夢中になっている。

 片方が不意に顔を上げて、茂みの暗がりに潜むアキラを直視する。その目を見開き、相方に警告らしき声を発しながら、流れるような動作で長弓に矢をつがえようとする。が、先んじて発射されたライフル弾を胴体に食らって二人とも倒れる。

 とたんに、やや離れた場所から問いかけるようなカエル言葉の大声。

 ダッシュしたアキラの背後で命令口調のがなり声が連続し、強風が吹き荒れたかのような葉擦れの音と、地響きじみた音が沸き起こる。

 あちこちでガチャガチャ、カチャカチャいっている。

 走る兵士の装備がぶつかり合う音。

 畜生、めっちゃたくさんいる。

 アキラはがむしゃらに一〇〇メートルほど駆けると、見通しの悪い環境で敵プレイヤーの追尾をかわしてきた十八番の手に望みをかけて、唐突に進路を変える。右へ九〇度折れたことに深い考えはない。衝動に任せてそっちへ向かっただけだ。

 いよいよ息が切れてきたとき、不意に視界が開けて小川沿いの農道に――路上の騎馬グループの真正面に――飛び出す。先頭の軽騎兵が望遠鏡を向けているのは、畑の中の歩兵突撃のほう。後続の三騎もそっちに顔を向けているが、即座にアキラに気づき、各々サーベルを抜きながら拍車をかける。

 にわか仕込みの学習内容がすっかり消し飛んで頭が真っ白になり、アキラはNPOAもクソない腰だめのフルオートで銃弾をばら撒く。たった二五メートルの距離で掠りもしない。銃声に驚いたハラスが棹立ちになっただけ。そして一〇発かそこらで勝手に連射が止まる。引き金を引き直す。反応なし。

 マルファンクション。

 何しろ頭が真っ白なので、アキラは何をどうやって故障を直すのかわからなくなる。一秒かそこら呆然としたのち、別の武器に手を伸ばす。拳銃を抜く代わりに手榴弾ポーチをまさぐったのは、〝チュートリアル〟のときの印象が強かったから。

 ピンを抜いたM67を目いっぱい投擲する。

 いち早くハラスを落ち着かせた一騎が、あろうことか、ひょいと片手を伸ばして手榴弾を宙でキャッチし、ほら見ろよなんだこれ、という風に隣の騎兵に差し出す。ブラックユーモアを煮しめたような光景に一瞬目を疑ったあと、アキラはカービンを抱えて地べたに伏せる。

 妙に迫力の欠ける爆発音が響き、左の肩甲骨のあたりにチリっとした痛みが走る。

 破片が一つ掠めたらしい。

 数百の破片とコンポジットBの爆風を至近距離でもろに浴びた四騎のほうは、見たところ、立ち上がろうともがいている二頭のハラスを除いて生者の姿なし。

 畑から人声が近づく。

 アキラは農道脇のややきついスロープを駆けくだって浅い川をばしゃばしゃ渡り、対岸のスロープを駆けのぼって畑に入る。PDAを叩き起こして現在地を確認する。脱出ルートから逸れたものの、誤差の範囲。川沿いに北上すればEK3の近くに出られる。急げ、と足を踏み出しかけたところで、思い直す。

 ダメだ。

 ただ逃げるんじゃダメだ。

 どうやら相手は鬼ごっこのプロで、そんな連中に補足されている現状、ただ逃げるんじゃ追いまくられる。後手に回り続ける。遠からず体力が尽きる。そして殺される。

 追尾は避けられないにしても、あいつらの足を鈍らせないと。

 たとえ僅かでも、こっちが主導権を握らないと。

 向かいの畑の人声が途絶える。ガサガサいう音もやむ。

 もうすぐそこまで来ている。

 いくぶん冷静になった頭で、アキラは故障中のカービンを見下ろす。心のテープを巻き戻し、故障したときの状況を思い返す。通常よりも小さな銃声と反動――後者はなかった。前者は小さかったような……? 薬室の辺りから漏れ出る煙――なかった。撃鉄が落ちた音――は聞こえなかったが、その感触が指に伝わってきた。ボルト――閉じたまま。

 診断結果:よく調べないと原因はわかんないけれど、発射された弾が銃身に詰まる超危険なスクイブロードじゃない。

 なので『射撃ガイド』が推奨するとおり、インミディット・アクション、別名タップ・ラック・バン・ドリルを行う。

 タップ:弾倉の尻を叩き、ぐいと引き、しっかりと嵌っているか確認。

 ラック:チャージングハンドルを何度か引いて不発弾もしくはジャムの原因と思われる一発を排出、ハンドルをリリースして新しい銃弾を薬室に装填。

 バン:射撃続行。

 もちろん、射撃続行は相手の姿が見えてからだ。

 セレクターレバーをSEMIに合わせ、影の中で膝射姿勢を取り、茎の隙間越しに四〇メートル向こうの対岸を狙う。

 アキラが本当の意味で腹をくくったのはこの瞬間だ。

 ここまでは、明白な害意や殺意を持ってかかってくる相手へのリアクション、一種の反射運動、自己防衛のための殺人だった。

 ここからは先制攻撃になる。

 故意の殺人だ。

 それもこれも――

 ――現状がクソすぎるから。

 殺らなきゃ殺られるから。

 とはいえ、所詮はヤワな現代っ子。

 アキラは半ば無意識に、先進国生まれの倫理観をねじ曲げにかかる。

 さ、ボーナスステージだ、と胸の中で軽口を叩く。

 中世スタイルのネアンデルタール人どもを自動小銃の圧倒的な優位性でキルしまくるボーナスステージ。

 でも油断禁物。

 機動力に優れる騎兵の存在が、こっちの火力のカウンターバランスになっている。

 しかもネアンデルタール人どもは大砲を持ってる。マスケット銃も持ってる。クソ恐ろしい魔法まで使う。ハルドガルダ市で見たロフト軍の兵科と装備が異世界の標準なら、魔法使いにしろ原始的な火器にしろ、数は多くないっぽい。が、マスケット銃兵と魔法使いがこの鬼ごっこに投入されていないとも言い切れない。思い出されるのはロフト兵に雨あられと降り注いだ、あの火の玉。アレを撃ってくるだろうか。エイリアンより賜りし近未来架空・現代兵器というチートがささやかに思えてくる、あの超自然的な60ミリ迫撃砲弾を。あるいは、市壁を吹き飛ばしたあの凄まじいやつを。

 銃把を握る右手が石みたいにガチガチになっているのにアキラは気づく。アドレナリンの奔流のせいで震えてもいる。何度か握ったり開いたりして、力を抜く。尻を載せた右の踵にしっかり体重を預け、立てた左膝と左肘で垂直の骨格の支えを作る。その左肘が膝蓋骨に乗っかっているので少し前にずらし――骨と骨の接触は不安定でグラグラする――膝に三頭筋をあてがう。反動を制御しやすいように上体を屈めたのち、鼻から吸い、鼻からゆっくり吐き、呼吸を落ち着かせる。適切なストックウェルドを得るべく首の力も抜く。〝溶接〟された感覚がやってくる。

 対岸に動き。

 茂みの中の人影が、血の海に沈む人馬のほうへガサガサと駆けてゆく。

 ほかのエクサリオ兵はそろそろと出てくる。

 一人、二人……

 三人まで数えたところで、アキラは引き金を絞り込む。

 五発撃ち、二人がその場に倒れ、一人がスロープを転がり落ちる。人馬の傍の連中は姿勢を低くして、倒れた仲間と発砲音の両方へ忙しく首を巡らせている。アキラはその四人も撃つ。が、またもや動作不良。事故に繋がる兆候はないのでタップ・ラック・バンで解決し、四人とも仕留める。

 今更ながら気づく。

 なんか銃声が小さくない? ああ、ノイズキャンセリング回路。おかげさまで射撃のストレスがずいぶん軽減されている。

 さておき、一ヶ所に長く留まるのは自殺行為。

 動け動け。

 置き土産の催涙手榴弾を、地面すれすれのアンダースローで遠くへ転がす。安全レバーのリリース直後に上下の放出口から火花が派手に散って、危うく火傷しかける。くっそ、忘れてた。ゲームでも特殊目的手榴弾の遅延信管は極端に短く設定されてたじゃんか。

 シューと噴出し始めたCSガスに自分までまかれないうちに、アキラは川向こうの畑を窺いながら小走りに上流を目指す。

 約二〇〇メートル進んだとき、後方で悲鳴と怒声が上がる。

 聞こえてくる騒ぎからして、CSガスは相当キツイようだ。

 これでちょっとは足止めになるはず。

 PDAを見る。道先にアーベロンなる集落と、畑を分断している幅八〇メートル前後の野原。自動小銃の射程を活かす待ち伏せにうってつけ。待ち伏せ後は発煙手榴弾で行動をマスクし、足止めの催涙手榴弾も投じ、集落東側の畑に向かい、例のトリックでミスリードを交えつつ弧を描くように北西のEK3を目指す。

 再補足されるのは確実でも、目的地へ一直線に進んで行動を読まれるよりは断然マシ。

 いけるか?

 リアル指向の『SNAFU』でプロに上り詰めた勘は〝いける〟と言っている。理性の声は〝へなちょこゲーマー風情がピコピコの経験で実戦やるとか無謀すぎて草〟と言っている。

 どっちにしろ、やるしかない。

 ボーナスステージをクリアせよ。

 余裕を持って野原を渡るべくアキラはペースを上げる。


 EK3に到着する直前、リアルタイム戦術マップの様相に若干の変化がある。

 脱出ルートは、EK3から約一・四キロ北にある交差路へ伸び、そこから〝ハルドゼッヘ街道〟とかいうやつに沿って北西へ。ルート上に新たなEK地点はなく、交差路にRENDEZVOUSの文字。

 アキラは眉をひそめる。

 ランデヴー?

 誰かと……落ち合えと? 誰と?

 疑問を胸に、きつい傾斜をのぼる足を速める。

 小高い丘の頂上に位置するEK3からは周囲一帯を見渡せる。

 薄い木立の北側に出、眼下に広がる麦もどきの海の先に目を凝らす。街道が交わる野原に幌馬車が一台。その傍に人影が一つ。確かに誰かいる。しかし目の鋭いアキラといえど、一・四キロも隔てた人間は輪郭くらいしかわからない。リュックサックから小型双眼鏡を出して構える。一〇倍率の鏡内像に、ほっそりした姿が映る。タイトなズボンに、丈の短い上着に、栗色の短い髪。若い男のようだ。なんだかイライラした風に、小さな円を描いてぐるぐる歩いている。誰あれ? あの人に会って……どうしろと?

 さっぱり意味がわかんない。

 ひとまず棚上げにして、意味がカンペキにわかる方角へ、南東へ、アキラは向き直る。

 アーベロン集落での待ち伏せが余程こたえたらしく(銃撃に倒れた歩兵と騎兵が一六人プラス三頭、CSガスの被害者続出)、およそ一〇〇名規模の人間狩り部隊は集落内とその周辺の野原に留まっている。そして追跡チームと手旗信号でやり取りしている。

 手旗信号係の胸甲騎兵一騎を含む追跡チームは四名。

 小川を渡り、すでにこの丘のふもとに達している。トリックに引っかかった様子はなく、的確で迅速。ガチのガチで鬼ごっこのプロだ。

 でも状況はそんなに悪くない、とアキラは思う。地形はこっちが有利だし、火力もこっちが有利だし、人間狩りの本隊は一・五キロの彼方。ケツに食らいついている追跡チームを排除すれば、逃走がいくらか楽になる。というか排除しておかないと、頂上からはランデヴー地点へ向かうこっちの動きがほとんど丸見えになる。ルートを遮断されたり包囲されたりする。

 独り歓迎委員会として、アキラはできうる最大限の準備を整える。

 逃走支援キットに用意されていた戦闘服一式と下着とブーツは、着替えている時間が惜しいのでリュックに突っ込み、補充された弾倉と手榴弾関係は、弾薬ポーチと手榴弾ポーチに移し替える。それから、アクセサリー類のテクニカルデータをひらく。装着は簡単そうだ。

 実際、簡単だ。フォアグリップのほうは、グリップベースの爪を好みの位置でハンドガード下部のダヴテイルに噛ませ、スローレバーを閉じるだけ。

 フォアグリップを使ってカービンを構えてみる。なんだかしっくりこない。装着位置を微調整してもしっくりこない。慣れの問題か、ぼくには合わないのか……。新しいことを試していられる状況ではないと判断し、取り外してリュックに放り込む。

 サプレッサーは装着までいかずに終わる。弾薬と自動小銃と減音器の三点は、組み合わせ次第で動作不良が頻発するのを思い出したのだ。しかも中口径は特にトリッキー。『SNAFU』では実戦投入前に〝射撃場〟での試射と調整が必須だった。ここには〝射撃場〟なんてないし、マウス操作でちょちょいと調整もできない。実銃の発射サイクル異常には具体的にどこをどういじったらいいのかもさっぱりわからず、テクニカルデータに詳しい記載もなく、そもそも試し撃ちできる状況にない。ここまでのいきさつからして、〝使え〟と用意されたものを素直に使っても問題ないように思えるが……結局、サプレッサーもリュックに仕舞う。

 アキラは林の中を一〇メートルほど移動して茂みの陰に身を潜める。追跡チームがゆるやかな東斜面の似非麦畑を掻き分けてのぼってくる様子がはっきり見える。傾斜度の都合で一時的に見失いそうだが、どこに現れるのかはわかっている。アキラ自身が畑から出た地点だ。草深いスロープを六〇メートルほど下ったそこへカービンを向ける。ふと思いつき、破砕手榴弾と催涙手榴弾を一個ずつ足元に置く。前者は接近されたときの備えに。後者は排除に失敗したときの備えに。

 第二の友となった精神的圧迫感が胸に居座っている。また不思議なことに、いやに落ち着いてもいる。感情の動きを他人事のように突き放した態度というか。俗人に達しうるインスタントな禅の境地というか。

 いろいろありすぎて、神経がおかしくなり始めているのかもしれない。

 アキラはアーベロン集落とその周辺を小型双眼鏡で走査する。手旗信号のほかに目につく動き、なし。別のチームを送り出す様子、なし。追跡チームの動向に注意を戻す。

 約五分後、まさにカービンを向けている先に四名と一頭が現れる。

 横風の影響や撃ち下ろすことで変化する着弾落差は、この近距離なら無視できる。

 最後尾を行く鞍上の胸甲騎兵にレチクルを重ねる。

 教科書どおりの〝後ろから前〟だ。〝前から後ろ〟は後続を警戒させるが、〝後ろから前〟は先行者の状況把握が遅れる。ゲームではそうだった。

 畑の中に隠れることができないよう四名全員が野原に出るのを待ち――

 ――奇襲開始。

 初弾が放たれた瞬間、三名が発砲地点のほうを見上げる。しかし回避行動を取らない。軽く屈んでおけば銃弾をよけられると言わんばかりに。

 胸甲騎兵の落馬と前後して第二の犠牲者が出ると、先頭の二人はやっと過ちに気づき、深い草むらに身を隠そうとする。高所を確保しているアキラからは一挙手一投足が見えている。

 伏せた二名も順次、強力な6・8ミリ弾に背中を貫かれる。

 おそらく即死二名。瀕死二名――片方の弱々しい這いずりが止まる。たぶん死んだ。もう片方は血反吐を吐きがら激しく咳き込んでいる。楽にしてやるべきだろうか? アキラが逡巡しているうちに咳が弱まって、ふつりと途切れる。たぶん死んだ。

 不意に訪れた静寂の中、自分の呼吸を聞く。銃撃を免れたハラスが逃げも隠れもせず佇んでいる。横たわる乗り手を鼻先でぐいぐい押す様をアキラはぼんやりと眺め……何か光ったか?

 光った。

 アーベロン集落。

 具足の照り返し……にしてはやけに眩い。アキラは目を眇める。が、その刺すような光に邪魔されて光源を見定めることができない。ふと確信に近い推定が閃く。望遠鏡の反射光?

 小型双眼鏡で確かめると、そう、望遠鏡の反射光。覗き屋は、鉄兜の天辺から青い房飾りが生えている指揮官ぽい男。光学機器で覗き合う二人の男という図に、アキラは冷たい緊張とひねくれたユーモアを覚える。異世界の望遠鏡の倍率や分解能の程度が気になるところだが、いま考えなければならない問題は、直ちにランデヴー地点へ急ぐべきか。それとも、人間狩り部隊の次の動きを確認してから自分の動きを決めるべきか。

 低倍率に調整して集落の全景を視野に収める。ピンボケ。

 フォーカスどれだよ? とアキラが小型双眼鏡を下ろした刹那――

 ――丘の南斜面の麓で大量の黒土と緑が空に向けて噴出する。

 衝撃波の円環がふわっと広がって消え、周囲の麦もどきがなぎ倒され、千切れた穂とその綿毛が一斉に舞い上がり、土埃が立つ。

 わずかな時間差で、ドォォォン!

 イヤピースにノイズをカットされているアキラは、その轟音を聞いたというより胸で感じる。びりびり震える空気を。地面から伝わる震動を。草木を揺らす余波を。思わず首をすくめる。今の何? ユーチューブで観たスマート爆弾の空爆そっくりだった今のアレは?

 疑問の回答はそれほど待たずに与えられる。

 集落から高い放物線を描いて飛来する一〇発前後の明るい火球の形で。

 となると、さっきの一発は着弾修正用に決まってる。

 直感的理解――連中のそもそもの狙いはコレ。〝砲撃〟。

 アキラは木立を走り抜けると、北側の急斜面を滑落しかねない勢いですべり降りる。数拍後、頭上で爆発音が連鎖する。天然のすべり台が地震みたいにぐらつき、土くれや枝が降ってくる。樹も丸ごと一本降ってきて、アキラの五メートルほど横を転がり落ちる。落下物で怪我をしたりぺしゃんこになったりする前に(ついでに言えば粗末な奴隷ズボンが摩擦でずたずたのボロ布に変わる前に)傾斜が緩やかになり、ケツ橇の速度が落ち、足で立てるようになる。頂上のドォォォンは止んだものの、土や小石や木片がまだ降っている。アキラは残りの斜面を駆け下りて似非麦畑に突っ込む。

 より遠くを狙った砲撃は来るだろうか? 

 わからないので、マザーフ#$%みたいに走り続ける。

 そうして正解。

 肩越しに振り返るとちょうど、天然のすべり台が爆散したところで、次の瞬間には北斜面の広範囲が地すべりを起こして崩れ落ちる。新たな火球の一群が丘の北側の農地も鋤き返し、何百メートルも吹き飛ばされた麦もどきの根がぽすっとアキラの頭に当たる。 

 ふと頂上に置き忘れた二発の手榴弾のことを思い出す。

 乗り手の傍を離れようとしなかったハラスのことも思い出す。

 肺が悲鳴を上げ、足がもつれだす。

 ふたたび爆発音がやむ。

 ぜーぜー言いながら振り仰いで、アキラは空の中を探す。

 第三波は……ない……くさい。

 魔法の射程を超えたのか、マナ的なやつが尽きたのか。

 なんにせよ、もう終わりっぽい。しかし丘を丸裸にした元凶がほんの二キロかそこらの集落にいる。交差路まであと一キロ。

 ランデヴー地点でどんな展開が待ち受けているのかはわからないが……黒幕野郎のゲームクリエイターぶりを見るに、そう悪いことにはならないはず。何しろ幌馬車が待機していたし、交差路から先の脱出ルートは街道に沿っている。謎のお兄さんに「よう、乗ってくかい?」と言ってもらえる公算は大。そのままするりと逃げきってのんびりした馬車の旅になるかも……

 アキラは疲労困憊の体に鞭打ってジョグと早歩きを繰り返す。畑を斜めに突っ切って最短距離を行き、野原に躍り出る。謎の人物はまだいる。といっても、いつでも逃げ出せる態勢だ。御者台の上に立ち、片方の手で手綱を握り、もう片方で望遠鏡を構えている。足音もしくは気配もしくはその両方に気づいたらしく、望遠鏡を下ろしてアキラを見下ろす。

 アキラは半ば無意識にアイプロを額に押し上げながら、思う。女だったのかよ。遠目には男に見えたが――間近で拝見した今も、面立ちだけ取れば少年風の髪型と相まって中性的な男に見えなくもないが――上着から覗くシャツの胸が膨らんでいるし、くびれた腰のラインも女性のそれ。合っていたのは年恰好くらいだ。おそらく二〇代前半。異世界基準でも、地球基準でも、長身。優に一八〇センチはある。

 で、こののっぽのお姉さん、何者? 

 のっぽのお姉さんは御者台から飛び降りると、ほんの束の間、アキラに好奇の眼差しを注ぐ。じっと顔を見、次いでカービンを見、モジュラーベストを見、顔に戻る。そして早口で確認する。

「雨宮アキラだな?」

 と、流暢な純正の日本語で。

 耳を疑うアキラの脳味噌がたちどころに三つの仮説を吐き出す。

 A、このお姉さんは日本で生まれ育ったか、日本に帰化した肌の白い人で、自分同様に異世界に放り込まれた拉致被害者仲間。

 B、エイリアンの超科学で日本語を脳にインストールされた――それくらいの芸当、近未来架空兵器を出したり消したりする連中ならお茶の子さいさいだろう――黒幕野郎の現地人協力者。

 C、『MIB』みたく人間の皮を被った、モルモットの経過観察か何かが目的のエイリアンご本人。

 しかしそのどれとも違う方向から、女が名乗る。 

「フロレターリだ。信じる信じねえは勝手だが、戦女神の命を受け、おまえの世話役として参上した」

 戦……女神?

 カラン先生の宗派が奉る、メイシア=ウギ=アルマ=クフ?

 困惑するアキラをよそに、女が言葉を継ぐ。

「ったく、火球でミンチにされたんじゃねえかと思ったぜ。怪我の塩梅は?」

「怪我?」アキラはオウム返しに尋ねる。

「左腕。血まみれだ。乾いてっけど。さっきの爆発か?」

「あ、いや……これは、もっと前です」

 女がアキラの左袖の切れ目を覗き込む。「重傷ってわけじゃなさそうだな」

 聞けば聞くほど、欠点なき完璧な日本語。見れば見るほど、フツーの人間。その挙措も、表情も、前髪が汗で額に張りついている様も……

 ともあれ、何かを推断したり断定したりるするには、情報がまったく足りていない。

 アキラは半歩身を引く。

「あの、お姉さんは誰なんですか?」 

「世話役っつったぞ。おまえの援軍、味方だ」

「意味がよく――」

「細けえ話はあとだ」女が丘のほうを気にして望遠鏡をふたたび構える。「おまえを追ってる連中、火球をぶっ放した時点でどれくらい離れてた? 単位はメートルでいい」

「えと……一五〇〇メートル。ここからだと三キロくらい離れた集落です。そこから撃ってきました」

「なら、獲物を仕留めたか確認するために、連中はあの丘に登るか、周囲一帯に散開してる頃だな。それっぽい動きはこっからじゃ見えねえが」望遠鏡を下ろして革ベルトの筒に仕舞う。「今のうちにとっととずらかるぞ。ほら乗れ」

 女が御者台に戻る。アキラは動かずにいる。

「いや待って。あなたは――」

「よお、テメェはあたしに訊きたいことがいろいろある。あたしもテメェに訊きたいことが山ほどある。でも今はそんな場合じゃねえから、くっちゃべるのはあとだ。乗れ。ぐずぐずすんな」

 確かに、ぐずぐずしている場合じゃない。

 アキラは御者台に身を引き上げる。板張りの座席に尻が落ち着くか落ち着かないかのうちに、ピシリと手綱が振るわれて、幌馬車が進みだす。

 ここは念のために9ミリをいつでも抜ける状態にし、女神の使者を名乗る自称助っ人を警戒すべき場面なのかもしれないが、アキラはそうしない。荒っぽい態度なれど敵意を感じないというのが一つ。危機意識が居眠りしてしまうほどの疑問と興味を掻き立てられているのが一つ。馬車に揺られながら銃にさわるのは危なくてしょうがないというのが一つ。

 実際のところ、幌馬車の乗り心地は車輪の付いたみかん箱を思わせ、あまりにガタガタ揺れるものだから、アキラはカービンを暴発させやしないかと心配になる。安全装置を確かめ、銃口を外に向けて膝に寝かせてから、手綱を握る女を窺う。女も横目でアキラを窺っている。

「ナビしてくれ」

「ナビ?」

「ルートだよ、ルート。地図やらなんやら渡されてるはずだ。戦女神からそう聞いてる。どこへ行きゃいいのかはおまえに教えてもらえともな」

 その女神の御髪は安物のかつらっぽくて、肌が灰色で、目がデカすぎて、ピカピカぶんぶん唸るコンソールに囲まれてませんでした? との疑惑は胸に仕舞っておき、アキラは丁寧に切り出す。

「すみません、どういうことなのか最初から話してもらると――」

「優先順位はナビ、安全確保、質問ゲーム。行き先は?」

 ここで押し問答をしても始まらない。

 アキラはPDAに視線を落とす。個人的な希望が叶うなら、遥か南のカルナリー王国に行きたい。しかし誘導されているのは真反対だ。

 女も横からPDAを覗き込む。数分前にカービンやモジュラーベストを眺めたときと同様の、抑制された好奇が窺える。その視線がPDAからアキラに移る。

「で?」

「北のほうってことしかわかりません。でもルートは合ってます。この道を真っ直ぐ」

 女が顔をしかめる。「〝北のほうってことしかわからん〟ってどういうことだよ?」

 アキラも顔をしかめる。「地図の表示範囲は限られてるんです。ほら」とタッチスクリーンを女に向けて、リアルタイム戦術マップをスクロールしてみせる。「これ以上動かないでしょ? 現在地の限られた範囲しか地図もルートも出ないんです。なので、最終的な目的地はわかりません」

「じゃあまあ……とりあえず真っ直ぐでいいんだな?」

「真っ直ぐです」

 女がうなずき、幌の開口部を通して背後を見やる。アキラもつられてそうする。危険地帯から遠ざかりつつあるものの、馬車はせいぜいママチャリくらいの速度。自動車の速さを知っている身には、恐ろしく悠長で、じれったい。

「あの、もっと飛ばさないんですか?」と訊いてみる。

「馬がバテちまう。バテたら最後、この爺さんどもが回復するまで足止めだ」

「そう……なんですね。でもこの動物、馬とは違うような」

「日本語的にはそう呼ぶのが自然だろ。おい、荷台に移れ。地元民が残ってるかもだし、おまえの容姿は目立ちすぎる。目撃情報を残したくねえ」

 もっともな言だったので、アキラは背もたれを跨いで荷台に移動する。袋や木箱がいくつも積んである。畳まれた毛布や寝袋らしきものもある。物騒な物もある。御者台の背に括りつけられたひと振りの長剣と、一挺の石弓。どうやら自衛用らしい。荷は両サイドの腰掛けも占領しており、空いている場所は後部の隅だけ。アキラはそこに座る。もっと質問したら怒るだろうか、と思いながら女の後ろ姿を眺める。それから、のろのろと流れ去ってゆく街道の風景に目を向け……即座に腰を浮かせて声を上げる。

「騎兵。騎兵が追ってきてます」

 女が肩越しに振り向く。「何騎だ?」

「二騎」答えながら、女にも見えるようにアキラは脇にどく。

「距離は……半キロってところか」

「はい。でも近づいてます」

「そりゃ向こうのが速ぇからな。おまえは隠れてろ。御者台の後ろにスペースがあるだろ? そこで丸まって毛布を被れ」

「でもアレ、ぜったい追っ手ですよ?」

「んなこたぁわかってる。大丈夫だ、上手く誤魔化してやるから。ほら、見られる前にさっさと隠れろ」

 不安は拭えないが、アキラは言われたとおりにする。御者台の背もたれと腰掛けの隙間で体育座りをし、膝のあいだに挟んだカービンを肩に預け、毛布を被る。鼓動が速まる。ホルスターからワルサーを抜いて、いつでも装填できるように左手をスライドにかけておく。

「ごそごそすんな」と女。「石みてえにじっとしてろ」

「ほんとに大丈夫なんですか?」

「任せとけ。さ、お喋りはしまいだ。連中が距離を詰めてる」

 アキラは顔を伝い落ちる汗をぬぐう。息苦しい。ただでさえ真夏の炎天下だというのに、毛布を被っているせいでサウナみたいだ。

 蹄の音がどんどん近づく。

 ついには馬車に並び、男の声が何事かがなる。アキラに理解できたのは、ロフト語の響きに似ているということのみ。大方、馬車を停めろと命じたのだろう。というのも、揺れが小さくなって、馬車が停まったからだ。スライドをつかむアキラの左手に力が入る。

 ふたたび男の声。その命令口調に、女がリュシナリア語で応じる。

「わたしもロフト語は苦手でね。ついでに言えば、エクサリオの騎兵将校さんたち、そちらの言葉も苦手だ。共通語はできるか?」

「やれ、助かった」男がリュシナリア語で言う。「地元言葉しか話せん田舎農夫かと思ったが、女、おまえ、見たところ商人の類か?」

「悪いが急いでる。ご用件は?」

「ふん、生意気な。まあいい。この辺りで誰か見かけなかったか?」

「誰も」

 間。「荷を検めさせてもらうぞ」

 マズい流れだ、とアキラがスライドを引きかけたとき、女が言うのが聞こえる。

「諸君らが捜しているのは、連発式マスケットがどうのと騒ぎになっている例の犯人かな?」

 たちどころに男の声が尖る。「貴様、何者だ?」

 女があくまで冷静に応じる。「口で説明するより見せたほうが早いだろう。今から認識票を出す。先走ってその石弓を撃つなよ……ほら」

 チャラチャラと金属質な音。

「なんと。タクサティ・アフィシアリスでしたか」男の声は驚きと戸惑いを隠せない。

 タクサティ――技術的な。専門の。精通した。

 アフィシアリス――公吏。将校。役員。

 技術者的な役職名か? とアキラは推測する。

「思い出した。確かにそうだぜ」もう一人の男の声が言う。「本部を出入りしてるの、見たことある。背の高い女将校が来てるって噂、聞いてるだろ? この人だよ。失礼、タクサティ・アフィシアリス殿」

「して、このような場所で何をなさっておいでなのですか?」最初の男が尋ねる。

「西部方面の長距離偵察に向かうところだ」と女。「我々の動きに刺激されたあそこの領主たちが軍を編成するのは間違いないが、領地防衛に留まるのか、討って出てるのか、見極める必要があるのでね」

「さようでしたか。しかしお一人で?」

「戦争に遭遇して這う這うの体で逃げてきた行商人、という設定だ。複数名で潜入を試みるよりも、女一人のほうが疑われん。もちろん、わたし以外にも何名か動いているが、特命任務につき詳細は控えさせてもらおう」

「分を超えた詮索はいたしません」

「で、荷は検めるのかい?」

「いえ、どうぞ、そちらの予定表に戻ってください。お時間を取らせたことは謝罪します」

「貴官らは自分の仕事をしただけだ。だろ?」

「そう言っていただけると。ちなみに、我々が追っている相手はかなり危険なやつです。恥ずかしながら、すでに五〇名前後の犠牲者が出ている次第でして。犯人は黒髪でやや小柄な体格の若者、連発できると思われるマスケットを所持――もしそのような人物を見かけたら、くれぐれもご注意を」

「了解した。とはいえ、貴官らのどデカい花火を遠目に見たぞ。あれならとっくに冥府にいるのでは?」

「だといいのですが。生死は今現在確認中です。とにかく、お気をつけて」

 二頭分の蹄の音が来た道を戻っていく。幌馬車がふたたび動きだす。しばらくしてから、女が日本語でアキラに声をかける。

「まだ隠れてろよ」独り言のように付け足す。「上手いこと追っ払えたが、導火線に火が点いちまった」

「はあ」

 と、アキラは生返事する。漏れ聞いた三者間の会話を反芻し、考えに没頭していたのだ。

「フロタールさん、でしたっけ?」

「フロレターリ」

「すみません、フロレターリさん」

「ケヴでいい」

「それが名前?」

「そ。ケヴィイム。短縮してケヴ。苗字を縮めたフローって愛称もあるが、そっちは好かねえ」

「じゃあ、ケヴさん。今の話、ぼくも聞いてましたけど、ケヴさんはエクサリオ軍の人なんですね?」このお姉さん、どうやら本物の異世界人のようだが、カランやみんなを殺した連中の仲間だったとは……

「表向きにはイエス。裏向きにはノー」とケヴ。「もう頭出していいぞ」

 アキラは暑苦しい毛布を払いのける。走り去る騎兵たちの遠い背中を木箱の陰から窺い、すぐそこのケヴの背中を見上げる。われ知らず拳銃を握りしめる。さすがに銃口を向けるところまではいかないが。

「今の、どういう意味ですか?」

 ケヴが質問に質問で返す。「サロ帝国、知ってるか?」

「知ってます」カラン先生の地理の授業に出てきた国だ。「中央大陸の大部分を支配してる超大国」

「へえ? 無知じゃねえと。質問の答えだが、あたしは、友好国エクサリオの侵攻作戦を支援する軍事顧問の一員として秘密裡に派遣された、サロ帝国軍の大尉だ。あたしら帝国兵は全員、エクサリオ軍から〝特務技官〟っつー曖昧な身分を公式に与えられてる。軍事顧問団が万一捕虜になったとき、たとえ実情バレバレでも、帝国が関与を否定できるようにするための措置さ。〝口八丁手八丁で地位をせしめた傭兵か何かでは? うちに抗議されても困惑を禁じえんよ〟とかナントカな。だから表向きにはイエス、裏向きにはノー。 

 そしてサロ帝国も知らねえことだが、あたし個人は、裏向きの立場もノーだ。このへんの事情を必ずおまえに明かせとアルマ=クフに言われているから、明かすが」

「というと? つまり、裏向きの立場のことですが」

「ノアム王国、知ってるか?」ケヴがふたたび質問に質問で返す。

「サロ帝国の真下にある、イルジャン同盟諸国の一つ」

「ご立派。ノアム王国軍情報部所属准尉ケヴィイム=フロレターリ。それがあたしだ。わかるか?」

 アキラは少し考える。「スパイ?」

「工作員のが通りがいいぜ。帝国軍に潜り込んで早五年だ。皮肉なことに、母国よりサロの馬鹿野郎どものほうがあたしに対する評価が高くてな、敵地で出世街道を驀進中だよ」

「本名でスパイ活動?」

「ちげぇぇよ。おまえには本名を名乗ったんだ。隠す理由もねえし」

 アキラは銃把を握る手をゆるめる。

 鵜呑みにはできないけれど……エクサリオ軍のお仲間、というわけではないらしい。

 ワルサーをホルスターに戻す。

 ケヴが続ける。「つっても、ぜんぶさっきまでの話だよ。今のあたしは、ノアム王国軍情報部から見れば偽装が吹き飛んだと思わしき連絡途絶者。サロ帝国軍にしてみりゃ脱走兵。エクサリオ軍にとっちゃ軍需品略奪犯ってとこだ。この馬車、特命任務に使うっつー名目で輜重隊からだまし取ってやったんだ」

「ぼくを助けるために仕事を投げ出した上、祖国を捨てた――そういうことですか?」

「そうとも」

「アルマ=クフに命令されたって言ってましたけど、そこのところ、詳しく教えてくれません? そもそもの最初から」

「安全確保が先だ、ぼくちゃん」

 ケヴが上半身を捻って振り向き、アキラの左前腕のPDAに顎をしゃくる。

「それが……地図なんだよな?」

「まあ、そうです」アキラは細かい説明を省いて答える。

「どれくらい詳しい?」

「かなり詳しいです。川とか森、畑、家、道――あらゆるものの位置関係と距離が正確に載ってますから。この景色の完全な平面図っていうか」

「マジか。そりゃすげえ。じゃあ裏道を探せるってことだな?」

「裏道?」

「ああ。人気者のおまえはもとより、あたしにも追っ手がかかるのは時間の問題だ。もし住民が残ってたら、背が高すぎるオトコオンナは目を引く上、記憶に残りやすい。加えて、さっきの二人の件がある。あの二人が報告を上げるタイミングにもよるが、遅かれ早かれ、連中はこの街道を中心にあたしの行方を探しにかかる。〝西部方面の長距離偵察〟っていう見え見えの餌に釣られようが釣られまいがな。つーわけで、裏道を探してくれ」

 裏道は、ある。

 しかし道路網が未発達な世界ときて、リアルタイム戦術マップの表示範囲も狭く、現状、大穀倉地帯の中を走る旧街道と農道くらいしか選択肢がない。

「ま、ゼロよりゃマシだ」とケヴ。

「でも人目があるかもですし……道の通ってない草原とか、どうです?」

「なんで道ってモンがあるのか教えてやるよ。楽に、安全に、遠くへ行くためだ。大地は真っ平じゃねえし、人の手が入ってない場所は地面がデコボコとくる。馬はタフだけどな、クソ重い幌馬車を牽いてデコボコのアップダウンなんか行かせてみろ、道を行く何倍も消耗させちまう。最悪、怪我させる。車軸とかそのへんがぶっ壊れる危険もある。理解したか?」

「カンペキに」

「安全面から言えば大回りの旧街道だが……農道にしよう。エクサリオ軍の作戦遂行速度からして、悠長にしてらんねえ」

「エクサリオの作戦というのは?」気になってアキラは尋ねる。

「要衝の多いデーエル地方、ここロフト北東部全域の、短期決戦による掌握だ。実際のところ、侵攻から二日めの今日の時点で、七割がた成功してる」

「七割?」

「おうともよ。侵攻初日の昨日、別の軍団がリッツを落とした。南にデカい山脈、見えるだろ? リッツはあそこの麓にある北東部の玄関口だ。要は、デーエル地方はすでに南部と切り離されて、蓋をされてる。で、今日中には一大食料生産地を束ねる城塞都市ハルドガルダは降伏するだろうし、明日明後日には、ハルド砦が国境の向こう側とこっち側から挟撃されて命運が尽きる。そのあとは消化試合さ」

「いっそのこと、脱出ルートを無視して西に逃げるのはどうでしょう?」

「撒いた餌のとおりにか? 裏の裏をかこうにも、賭率は絶望的だよ。西にも連山がある。ロフト東部と西部を繋ぐあそこの峠道も、侵略軍の封鎖対象だ。予定外の事態が発生していない限り、リッツを落とした軍団の一部がとっくに向かってる。ジジイの馬とオンボロ馬車じゃ、このレースに勝ち目はねえよ。

 でもだ、北西の重要度は比較的低い。ハルドガルダを包囲中の軍団が北西部国境線を封鎖するのは、ハルド砦を落としたあとだ。あたしらはその前に、今日の晩飯時か、遅くとも深夜には、スカリベド国境を越えられる」

「国境を越えれば安全?」

「絶対とは言い切れないけどな。でも現場指揮官の首から上にちゃんと血が通ってるなら、人狩り部隊を表立って第三国に突っ込ませることはねえよ。戦女神にしても北西を指さしてんだし? 信じようぜ」

 アキラは胸の中でつぶやく。黒幕野郎にはムカつくことが多いけれど、まあ、信じてもいいと。

 助けられているのは事実だ。

「農道、候補が三つあるんですが」

「追っ手の動きを見過ごさない範囲……この街道から半キロぐらいの距離がちょうどいいんだが、あるか?」

「ありますけど、近すぎません? 幌が目立ちますよ?」

「取っ払うに決まってんだろ。あたしも足台に座る。背もたれがホイズの上に出るが、半キロも離れてりゃまず見つからねえよ」

「ホイズ?」

「畑に茂ってる穀物。日本語的には麦。で、どっから農道に入れる?」

「すぐそこの横道」




次話の更新はひと月から二か月後になります

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