Escapades 1
詩聖ヨブアク=アーロウラの呪詛か祝福か、モナクダイザ――雲の日は〝不幸と大惨事と悪運がいちどきにやって来た午後〟になる。
その日は、場違いな人物が警備隊の詰め所から出てきたことで始まる。身なりの良い紳士が戸口に立ち、誰かを探すかのように中庭を眺め渡していたと思ったら、やおら上着の裾を翻して、颯爽と朝食の列に歩み寄ってきたのだ。
「司祭アミピダス?」男が尋ねる。
「いかにも」スープとパンを受け取ろうとしていたカランが答える。
「お食事中に失礼。書状をお届けにあがりました」男は緑色の蝋で封印された筒状の厚ぼったい紙をカランに手渡し、その手で詰め所を示す。「読み終わりましたら、あちらへどうぞ。外に馬車を待たせてあります」
「仕事が早くて助かります」とカラン。「着替えのために、アルマ=クフ派の教会へ寄っていただいても?」
「ええ、それはもちろん。ささやかながら馬車に軽食の用意がございますゆえ、お食事のほうは……」と語尾をたなびかせて、婉曲に急ぎの用向きであることを伝える。
「お言葉に甘えましょう。お心遣いに感謝を」
カランは男が背を向けるなり書状を開封する。
「それは?」とアキラ。
「担当窓口氏からだ」文面にさっと目を通してから、声を落として続ける。「このあとすぐ、きみの件で会うことになった。昼前には片づくはずだ。あとできみを迎えに行くから、本日中に主従の誓いも立ててしまおう。ではのちほど」
丸め直した書状を手にカランが立ち去ると、ミハイロがアキラの傍にやって来る。
「どうしたんだね、ありゃあ」
「何か用事があるみたいだね」
アキラは後ろめたさを覚えながら答える。特に口止めされているわけではないが、従者の件を大っぴらにすると、面白くないと思う者が必ず出るだろうし、今や数人の勢力とはいえ、チェーシェン嫌いどもの根強い差別意識と反感に燃料をくれてやることになる。だからといって、親しい奴隷仲間に隠し事をするのは良い気分ではないが。
「それにしても、今朝のスープはいまいちだな」アキラは話題を変える。
「違いない」ミハイロが鼻の頭に皺を寄せる。「バディアスを入れすぎだよ。ここの飯炊き係はいつも香草を入れすぎる。まったく、ハルド地方の連中ときたら。おまえさん、ヨーデホフトのエグリエを食べたことはあるかね?」
「ヨーデホフト地方は……ロフトの西のほうだっけ?」
「違う、違う。南だ」
「そう、南。エグリエって?」
「本当になんも知らんやつだな。これさ」とスープの皿を掲げてみせる。「名前は同じでも、ヨーデホフトのエグリエとは別もんだ。南の人間は舌と鼻が繊細に出来てる。北の連中はどっちも壊れてる」
「ミハイロ、あんた南の出かい?」
「そうともさ」ミハイロが誇らし気にうなずく。「喋り方でわからんか? まあいい。今は事情があってここにいるが、生まれも育ちもヨーデホフトだ。タルノーっていう山あいの小さな街があってね、凄くいいところなんだ。食い物が美味くて、酒が美味くて、道を行くのはころころ太った別嬪ばかりとくる。村を出てからずっとそこで暮らしていたよ。徒弟時代はアジールっていう街で過ごしたんだが、年季が明けてすぐ、タルノーに飛んで帰ったもんさ」
郷愁に誘われたのか、ミハイロのおらが街自慢は止まるところを知らない。少年期の愉快な思い出を語ったかと思えば、川魚を使った郷土料理がいかに美味かを力説するといった具合に話がぽんぽん飛び、その溢れんばかりの熱意が伝播して、アキラはわれ知らず引き込まれる。ミハイロの話を信じるなら、山間の街タルノーは〝天国に最も近い街ランキング〟でぶっちぎりの一位らしい。
タルノー――気立ての良い女たちの笑い声がせせらぎと交じり合い、高原に花咲き乱れる麗しの田舎街。カランの任地へ向かうときに寄り道できるかな? あるいは将来、現地の女性と結婚して家庭を持つとか。「将来? クソな異世界に骨を埋める覚悟が出来たというわけだ」と頭の一部がせせら笑い、「チェーシェンと結婚する女がいるとでも?」と別の一部が同調したが、アキラは無視する。夢想ぐらい好きにさせてくれ。
市壁沿いに工事現場へ向かう最中もミハイロは喋りどおしだ。地元じゃ一四歳の成人の儀を賛美歌で祝う、と歌声を披露しだしたが、二度めのコーラスの途中で不意に歌うのをやめる。
「ここだけの話だがね」と周りをはばかって声を低める。「おれはハルドガルダを去るんだ」
「買い手が付いたの?」アキラも囁く。
「そうともさ」ミハイロの目が輝く。「相手は誰だと思うね?」
「指物師の親方?」
「うんにゃ、嫁さ。おれのこさえた借金を嫁がぜんぶ返して、おれのことも買い戻してくれたんだ。けちん坊の兄殿がおっ死んで、遺産が転がり込んできたそうだ。手紙にそう書いてあった」
「ご愁傷さま。それから、おめでとう」
アキラは右手を差し出す。ミハイロが不思議そうにその手を見る。
「故郷のあいさつだよ。おめでとうって意味もある」
「その手をどうするんだね?」
「握って上下に振る」
「ふうん?」
しっかりと握手をしたミハイロの手は節くれだっていて、力強い。
「ありがとうよ、若いの。まあ、あれさね、ここの連中は先がねえから、黙っていようと思ったんだが、おまえさんには教えておこうと思ってな」
「今日のぼくの酒はあんたにキ……キ……キンテイするよ」
「発音はなっていないが、ずいぶん難しい言葉を使いなさる。よくまあそこまで喋れるようになったもんだ。おまえさんなら、学士様にでもなれるんじゃないかね?」
「考えておくよ。いつ発つんだい?」
「早くて湖の日だね。あと二、三日だ。証文の遅れやら確認やら手続きやらでそれぐらいになると言われたよ。それもこれも、戦争のせいだ。エクサリオの田舎もんどもが」
「残念。でもタルノーに帰れるね」
「ああ、帰れる」ミハイロの眼差しが遠くなる。「三年ぶりに、嫁と息子の顔を見れる。息子のパルノンはもう今じゃ、おまえさんと同じくらいの歳だ。でっかくなっているだろうな」
「とっくに結婚していたりしてね」
「まだ先の話さね。パルノンは今年で一二だ。おまえさんは?」
「ぼくは一五――ネー、一六歳になった」
ミハイロが目をぱちくりする。「成人していたのかね?」
「そうさ」こっちの世界ではそういうことになる、と胸の中で付け加える。
「おやまあ。もっと子供だと思っていたよ」
工事現場にはすでに犯罪奴隷たちの姿がある。これまでの五日間と同じく、成田一人が集団から引き離され、市の奴隷の担当区域のほうへとぼとぼ歩いている。ミハイロの語る抱負――タルノーに帰ったら店を再開するつもりだ――は、途中からアキラの耳に届かなくなる。
まだ三〇〇メートル以上離れているが、アキラの鋭い目ははっきり捉える。成田の顔面が腫れ上がり、真新しい痣で変色している。歩き方もおかしい。アキラは胃の中の朝食が鉛に変わるのを感じる。重い足取りで成田に近づき、様子をさっと確認する。虚ろな目、血で点々と汚れたズボンの尻と太腿……。尋ねるまでもなく、元の監房に戻されたか、連中にどこかで襲われたかしたのだ。
視線を感じる。見ると、軍の荷馬車の傍で、小麦色の男がにやついている。アキラと目が合うなり、挑発するようにシャベルの先を空に突き上げてみせる。二人はばちばちと睨み合い、アキラが先に目を逸らす。あんな獣とガンをつけ合ってもどうにもならない。無意味どころか、敵意の矛先が成田に向くだけだ。
その成田を、ミハイロが悲しげに見つめている。それからアキラにそっと耳打ちする。
「何かおれにできることはあるかね?」
「ありがとう。でも気持ちだけで充分。ぼくに任せて」
「手伝いが要るときは呼んでくれ」
「うん」
アキラは市の奴隷用の荷馬車から二本のシャベルを取り上げて、成田を空堀へいざなう。成田が口の中でぶつぶつ言う。
「ほら、行こう」
「あと……し」
「え?」
「あと少し」
アキラは成田の横顔を覗き込む。
「ナリ?」
成田が顔を向ける。切れた唇が、痙攣するように笑みを形作る。残った前歯が血で汚れている。目は、アキラを通り越してどこか遠くを見ている。
「あと少しだ」成田が繰り返す。「あと少し」
「何が? 何があと少し?」
成田の目の焦点が合う。無言でアキラを正視するうちに、その笑みが深くなり、唇の傷が開き、鮮血の滴りが下顎を汚す。アキラには狂人の笑みに見える。血塗れの唇から一本調子に這い出てきた言葉も、狂人のそれに聞こえる。
「あと少しで、魔法が使える」
「ナリ……大丈夫?」
「大丈夫」成田がロボット声で請け合う。「スゲー気分いい。おれ、あと少しで魔法が使える。あいつら全員、ぶっ殺してやる」
「ナ――行こう。突っ立ってたら怒られる」
アキラは空いているほうの手でそっと背中を押してやる。成田が大人しくついてくる。
三歩めか四歩めで、成田が言う。
「アキラ、おまえもだ」
アキラは思わず隣を窺う。成田の柔らかい眼差しと狂気の微笑は、地面に向けられている。アキラは胸の中で自問する――ぼくはそんなに恨まれてるのか?
「あー、ぼくのことは殺さないでくれると嬉しいな」努めて明るく言ったものの、実際に明るい声を出せたのか心許ない。
成田がくすくす笑う。
「ちげぇ。おまえも魔法が使える。魔法を使いたいって思えば、使えるようになる。妖精がそう言ってる」
「そっか」アキラは咽の奥にせり上がってきた苦いものを飲み下す。「とにかく、今は仕事だ。休憩か昼メシのときに聞くよ」
「妖精がおまえにも教えてやれって言ってる。強い願いが、現実になるって」成田の声からさらに抑揚が消え、AIの合成音声よりも無機質になる。「この世界に認められたから、加護が与えられるって。おれは妖精の声が聞こえるようになった。おまえも一個、加護が与えられる。だから準備をしておけって妖精が言ってる。願い事は慎重に決めろって」
「了解」
「おれの加護は魔法だ。今日の明け方に妖精が教えてくれた。もうすぐ魔法が使えるって。魔法を使う手伝いをしてくれるって」
「シャベル、持てるか?」
「あと少しだ」
「どうだね、彼の様子は?」
昼休憩に入って即、ミハイロが尋ねる。二度の小休止に続き、この質問は三度めだ。
どうもこうも……
「疲れているみたいだ、とても」アキラは肩越しに、体育座りをしている成田のほうを見やる。
「あの怪我、本当に大丈夫なのかね?」
「たぶんね。骨は折れてないし、一〇日もあれば治るってさ」今日の当番のオーグ隊長によると、だが。
ミハイロが忌々しそうに犯罪奴隷の群れに流し目をくれる。「一〇日、何もなければ」
「うん。何もなければ」
「胸が痛むよ。珍しいことではないが、いたぶられた者の姿は胸が痛む」
アキラは木のコップの水を半分飲み、残りの半分を自分の頭にかける。
ここハルドガルダ市のあるロフト最北部はかなり緯度が高いはずだが、数日来の暴力的な陽射しと、陸で溺れてしまいそうな高い湿度は、日本の猛暑を思い起こさせる。どうやら普通のことではないらしく、奴隷仲間たちや警備隊の面々は、こんな暑い夏は初めてだとしきりにこぼしている。アキラは伸びすぎた前髪から滴る水を見つめる。体の表面は熱気にあぶられて茹で上がりそうなのに、心は二月よりも寒い。
「ほれ、若いの。飯をもらいに行こう。おまえさんの友人のぶんも」
「あの怪我で食べられるかな?」
「無理にでも食わせにゃ、体がもたん」
二人は列に並ぶ。昼食を受け取った連中が手にしている皿を見て、アキラはますます気が滅入る。ハルド風ベルガッツェ。献立の中でダントツで不味いし、塩辛い干し肉は成田の口の傷に酷く染みるだろう。
あと四、五人で自分たちの番というとき、荷馬車の上で給食の監督をしているオーグ隊長が横手のほうへ注意を向け、目を眇め、何かを注視する。アキラはつられてそっちを見る。北から二頭立ての優美な馬車が近づいている。珍しい光景だ。橋が落とされたため、西側の市壁の外は普段、人通りがほとんどない。演習か何かで西門を出入りする兵士の一団をたまに見かけるくらいだ。
黒塗りの馬車はゆるゆる速度を落として、給食の荷馬車の背後につける。完全に停車する前に中から戸が開け放たれ、カランが降り立つ。なんともど派手な格好だ――銀糸の複雑な刺繍で飾り立てられた朱色のガウンと縁なし帽。どうやら、あれがアルマ=クフ派の僧衣らしい。その見立てを裏付けるかのように、ミハイロが言う。
「おやまあ。アミピダス様の僧侶らしい格好なんて、初めて見たよ」
聖職者に敬意を表すためか、自分に用があると気づいたからか、オーグ隊長が荷馬車から飛び降りて、衆目を一身に集めるカランと言葉を交わす。カランが懐から筒状の紙を出し、広げ、オーグ隊長に見せる。荷馬車の縁から覗く二人の頭が時折、アキラのほうを向く。
そういえば、あとで迎えに行くとか言ってたっけ。
話し合いはものの数分で終わる。カランがその場を離れ、オーグ隊長が荷馬車の上に戻る。
「ほんとに凛々しいなあ」
のん気にコメントするミハイロとは対照的に、アキラは、小走りに駆け寄ってくる若き司祭の表情に胸騒ぎを覚える。
ミハイロに形ばかりの会釈をしてから、カランが言う。
「アキラ、来てくれ。外出許可は貰った」
返事を待たずにカランがアキラの腕を取り、二頭立ての馬車へと足早に歩きだす。
「あー……上手くいかなかったのかい?」アキラはぼかして尋ねる。
「いや、上手くいった。手続きも済んだ。だがきみを買い取った直後に、軍の横槍が入った。早急に、領主と面会する必要がある」
「領主とか軍とか、どういうこと?」
「待った」と押し留めてから、カランが御者に声をかける。「どうだ? すぐに出られそうか?」
「申し訳ありませんが、やはりハラスを少し休ませませんと」と御者。「こいつらに水を飲ませるあいだ、しばしお待ちを」
「では、出せるようになったら教えてくれ」
人気のない川辺へアキラをいざなってから、カランが盛大にため息をつく。
「まったく、ややこしいことになったよ」
「何がどういう風に?」
カランが声をひそめる。「窓口氏と別れて即、軍人に呼び止められた。待ち伏せさ。相手は二等カプテのローゼルメンと名乗り――」
「カプテ?」
「軍の階級。カプテニアスの短縮だ。ルテニアスの上」
ルテニアスなら脳内単語帳に登録がある。手伝い人や下級将校を指す言葉だ。その上の階級と言うからには、二等カプテは中佐とかそんな意味だろう。
「その中佐が?」
「取引の話が担当部署から漏れていたんだろうが、きみを買った理由を詮索された。なぜわざわざ有色人種の、それも逃亡疑惑のある奴隷を選んだのか、と。ぼくは、きみのおつむが優秀で将来的に仕事の役に立ちそうだからだと答えた。すると相手は、きみ個人のことを根掘り葉掘り問い質した。どれくらい優秀なのか、どの方面に秀でているのか、ほかの者と違ったところはあるのか。そして最後に、軍のほうで近々きみを引き取るかもしれないと付け加えた。つまり、そのときが来たらきみを手放せという言外の要求だ」
アキラは差し込むような不安に胸をつかれる。
カランが続ける。「そこでぼくは、彼は無知だが特におかしなところはない、単純におつむの出来を気に入っただけだ、軍に譲るかどうかは前向きに検討すると返答しておいた。相手は満足して帰ったよ。我々は良き友人になれるだろうと余裕たっぷりの態度でね。
アキラ、中佐はきみの知り合いだとほのめかしていた。二〇代後半から三〇代初め、ヨヒト隊長と同じくらいの長身、痩せ型、水色の瞳、漆黒の長髪――この人相に心当たりは?」
「そいつ……髪を束ねて片方の肩に流してた? レイコクな目つきの?」
「どちらもジィル。髪を右肩に流し、冷酷そうな目つきをしていた」
不安が腹の中で氷塊と化す。
「冷たい男だ」アキラはかすれ声で言う。
「冷たい男?」
「捕まったときにぼくを尋問した人。別の世界の靴を見せに来たのもそいつだ。やっぱり疑ってるんだ、ぼくのことを」
カランが唇の端で笑う。「別の世界、というやつを少し信じてみる気になったよ。とにかく――」アキラの肩越しに何かに気を取られて、目を見開く。「おい、おい、危ないな」
南のほうからハラスが二頭、駆けて来る。黒い上着の騎手――警備隊だ。二騎は、進路上の集団を避けるための僅かな時間のロスすら惜しいと言わんばかりに、慌てて飛びのく奴隷たちのあいだを猛スピードで駆け抜けて――そして軍と市中警備隊、双方の警備兵の罵声を無視して――そのまま走り去る。
アキラは相反する衝動に駆られる。あの騎兵にかこつけて話題を変え、悪いニュースを先延ばしにしたい。ギロチンの刃をさっさと首に落としてほしい。結局、こう言う。
「えらく急いでるね?」
「伝令だ。白い旗を背中に差していただろう? 街の中を通ると時間を食うから、門から門へと壁の外を走るんだ。でも、あんなめちゃくちゃにハラスを駆るなんて珍しいな。何かあったのか?」
二人は首を伸ばして騎兵が来た方向、南を見る。市壁と、野原と、川と、森――いつもの眺めだ。特に異常事態が起きている様子はない。遠ざかる蹄の音のほうへ目をやると、片方の伝令が西門の中へ飛び込んでいき、もう片方は北へ直進する。
「まあいい、話を戻そう」とカラン。「ローゼルメン中佐の目的がなんであれ、彼はきみの身柄を確保するつもりでいる」
アキラは自分でも意外なほど冷静に受け止める。乾いた舌で乾いた唇を舐め、地面を見、カランを見、目で先を促す。
「厄介なのは、きみが依然としてただの奴隷である点だ。今や司祭付きになったとはいえ、厳密な法律上の定義ではそうなる。よって、教会の庇護は期待できない。この状況では従者の身分も役に立たない。むしろ、ぼくがきみの後ろ盾になるほうが、かえって危ないだろう。中佐の猜疑心に火をつけて、強攻策に打って出る口実を与えかねない。戦時下の今は、どんな無茶もまかり通る。それこそスパイ疑惑だのなんだのと言われたら、仕舞いだ。そしてどれだけ楽観的になっても、きみが好待遇で軍に迎えられるとはまったく思えない」
カランが成田の忌まわしい例を念頭に置いているのは明らかで、こればかりは、アキラも冷静に受け止めることができない。くされヤンキーほどの良心すら持ち合わせていないケツ掘り凶悪犯罪者の群れに放り込まれると考えただけで、膝が笑いそうになる。
カランがアキラの肩をつかむ。
「いいかい? ぼくは軍の言いなりになる気も、友人を悪魔に引き渡す気もない。だからここへ来る前に、領主のイェルガート卿に宛てて面会希望の文を早馬で出しておいた。今回の件を卿に直訴するために。返事を待つ時間が惜しいから、ぼくたちは直ちに出発する。夕刻には先方の館に着いているだろう」
アキラは顔を上げる。「いきなり押しかけて大丈夫なのか? 偉い人なんだろ?」
カランが片手をひょいと振る。「イェルガート一族はアルマ=クフ派の敬虔な信者だ。仮に卿が不在でも、先代か奥方かご子息が歓迎してくれるよ」
「でも……助けてくれるかな?」アキラは希望を押し殺して尋ねる。
「九割方確実に。着任のあいさつを含めて何度かお会いしたが、評判に違わず、卿は法と仁義を重んじる公正な人物だ。軍の不可解な要求について抗議すれば、その動きを掣肘してくれるはずさ。一時的な効果しか望めないかもしれないが」
「一時的?」
「そこは軍の出方次第だ。大人しく引き下がるかもしれないし、大騒ぎを演じるかもしれない。中佐がなんらかの形で中央を納得させたら、卿といえど、ぼくらの防波堤にはなれない」
アキラは暗く笑う。「別の世界の知識だぜ? 軍は大騒ぎするよ。賭けてもいい」
カランが明るく笑う。「別の世界はともかく、うん、ローゼルメン中佐は我意を押し通すことに慣れきっている御仁との印象を受けた。そしてこのカラン=アミピダスは、運任せのやり方を好まない。不遜な物言いかもしれないが、イェルガート卿が動けば、少なくとも時間稼ぎになる。そのあいだに、もう一手打つ」
「どんな?」
「きみを――」
カン、カン、カンと鐘の音が遠くで響いて、二人の会話がまたもや中断される。時を告げる鐘より軽い、甲高い音色だ。出所は南のほう。それに呼応するかのように、西門の辺りでも盛んにカンカン打ち鳴らし始める。そして北からも。
「あれは?」
「警報だ」カランも西門を見ている。
「火事?」
「いや、火事のときは四度叩いて一拍置く。あんな出鱈目な叩き方はしない」
西門から先とは色違いのハラスに乗った騎兵が現れる。拍車を入れ、一気に駈け足になる。騎手がこちらへ向けて片腕を振り回し、何やら叫ぶ。アキラには一語のみが聞き取れる。
「〝エクサリオ〟って言ってないか? あの人」
「おい、まさか……」
まだ遠い騎手のわめき声が、蹄と鐘の音に負けじと響き渡る。
「エクサリオだ! エクサリオ軍が来るぞ!」
「ディプルース フォーシェンク!」二重の大便――意訳すると〝ど畜生!〟
聖職者らしからぬ悪態をついたカランに、御者が顔面蒼白になって呼びかける。
「司祭様、急いで! 早く乗ってください! 門が閉じる前に戻らないと!」
「少し待て! 少しだ! なんだってこんなときに――アキラ、ここにいてくれ。隊長に話を聞いてくる」
奴隷たちは食事の手を止めて、猛烈な勢いで駆けてくる騎兵のほうを見たり、オーグ隊長のほうを見たりしている。隊長のもとにはすでに、五名の部下と、軍側の警備責任者が参集している。そこへカランと騎馬がほぼ同時に辿り着き、合図を受けた軍の警備兵二名が輪に加わる。数分後、双方の警備兵が散開して、受け持ちの奴隷に指示を飛ばす。カランがアキラのもとへ駆け戻る。
「どうなって――」
カランが片手を突き出してアキラの質問を押し留め、親指の爪を噛みながら思案に沈む。顔を上げて、馬車に向けて怒鳴る。
「待たせてすまなかった! 行ってくれ! ぼくのことはいい!」
じりじりしながら待機していた御者がうなずき、ハラスに鞭をくれ、草地で出せる最高速度で走り去る。犯罪奴隷の群れが兵士に追い立てられるようにして南へと動きだし、市の奴隷の四分の三も南へ誘導される。残りの四分の一、よぼよぼの高齢者たちは給食の荷馬車と共に西門へ戻るようだ。
アキラは先ほど言おうとした質問を繰り返す。
「どうなったんだい? エクサリオは本当に来るのか?」
「来る。五タンネの距離まで迫っているらしい」
約七・五キロ。すぐそこじゃないか。
「なんでみんな南に――」
「アミピダス殿」と、いつの間にか傍に来ていたオーグ隊長の声が割り込む。「状況が状況です。奴隷としてではなく、司祭としてご同行願えますか?」
カランが不意を突かれた顔になり、すぐにうなずく。「ええ……そうですね。わかりました」考え深げに答えてから、アキラのほうへ視線をやる。「先ほどお伝えしたとおり、彼は――」
「ええ、了解しています。どうぞ、司祭殿のよろしいように」
オーグ隊長が目礼し、ぞろぞろと移動している市の奴隷たちのほうへ向かう。
カランがアキラを促す。
「ぼくらも行こう。説明するよ」
二人はつい先日のように、市の奴隷たちから二〇メートル遅れてそのあとを追う。説明を待てずにアキラは尋ねる。
「戦争に負けたのか?」
「いや、砦は抜かれていないらしい。警備隊の伝令によると、ハルドガルダに接近しているのはエクサリオ軍の別働隊だ。レムイーエン村の住民が発見して、ついさっき報せに来たそうだ」
「休戦協定は?」
「もちろんこれは協定破りだ。問題の別働隊は、ロフト軍と対峙している北からではなく、ネマルク‐ロフト国境を越えて南東の方角から進軍中だ。お隣のネマルク王国の戦況がエクサリオに有利な形で変化したか何かで、かの地の予備部隊だか分遣隊だかをロフトへ投入というわけさ。奇襲だ、とオーグ隊長が言っていた」
「南東?」アキラは奴隷たちを、特に先頭を行く犯罪奴隷たちを見る。「もしかして――」
「そのとおり」カランが先回りして答える。「ハルドガルダ駐留部隊は迎え撃つつもりだ。奴隷も戦の頭数に入ってる」
「戦……市の奴隷も?」
「ああ。駐留部隊の最高指揮官が非常時権限を行使した。これまた伝令によると、市の奴隷は徴用され、警備隊の指揮権は軍に移り、市内では、戦える者を集めて民兵が組織され始めている。軍は侵攻勢力を叩き潰す気だ。でないと前線の背後で悪さをされる。北東部の流通の要であるハルドガルダ市が包囲されると、ハルド砦は孤立し、事実上、無力化されるという事情もある。そうなると、ハルド地方全域がエクサリオの手に落ちかねない。ぜんぶ隊長たちの受け売りだけどね」
アキラはまともに聞いていられる心境にない。
ぐらっと大地が傾いだ気がする。
「カラン……ぼくは戦えないぜ?」
「戦わなくていい。最初に言ったろう、きみはもう市の奴隷じゃない。取引は済んでる。オーグ隊長もその点は了承済みだ」
アキラは深く安堵し、自身の心根に羞恥を抱く。どうせぼくはヘタレだ。
「あー、じゃあなぜ――」
「なぜなら」とカランがまた先回りして答える。「先ほどきみも聞いていたとおり、ぼくはアルマ=クフ派の司祭として同行する。戦場で倒れた者を看取るために。戦いの中で彼岸へ旅立つ魂を祝福するために。そしてこれは――土壇場の思い付きだが――きみを逃がすためでもある」
「逃がす?」
「そうさ。中佐の用向きを知ったあと、元々、きみの逃亡を視野に入れて計画を立てていたんだ。でも阿呆なエクサリオのおかげで即興でやるしかなくなった。
よく聞いてくれ。まず、最初に話した予定は忘れるんだ。こんな状況では、イェルガート卿は奴隷の所有権問題どころじゃない。そこで代案を検討してみたが、問題だらけだ。代案その一、きみを市内に匿い、然るべき時期まで軍から隠し続ける。無理だ。きみの容姿は目立ちすぎる。代案その二、もっともらしい口実のもと、今この場できみを市の外へ――帰る予定のない――使いに出す。これも無理がある。この非常時に奴隷が一人で出歩いても不自然ではなく、気が立っている市壁の歩哨、門番、巡回の騎兵を残らず納得させられる、本式の委任状を用意する暇がない。代案その三、その四、なんならその五もあるが、どれも欠陥がある。時間も敵だ。戦況如何では数週間、市は包囲されて外界との接触を絶たれる。従って、唯一の好機は戦闘中だ。アキラ、ついてきているかい?」
カランのまくしたてた要点を、アキラはなんとか呑み込む。
「戦のあいだに逃げるしかない」
「そうだ」
「方法は?」
「さっき思いついた。主義に反する運任せのやり方だが」
アキラはごくりと咽を鳴らす。「危険なんだね?」
「加えて、単純かつ乱暴だ。手筈はこうだ。きみはぼくの手伝いとして傍に控える。戦闘が始まったら、ぼくはきみをハルドワイネン河のほうへ誘導する。そして頃合を見計らって、清めの水を汲みに行かせる。きみはそのまま、河を泳いで渡って逃げる。流れに身を任せて河を下るのでもいい」ふと眉をひそめて、「きみ、泳ぎのほうは?」
「一キロくらいなら、ああ、泳いだことがある」ただし、流れのある大河ではなく、鏡のように凪いだプールでの話。そして小六の体育の授業以来、水泳は一切していない。
カランの眉間のしわが深さを増す。「一きろ?」
「だいたい三三三〇パド。三分の二タンネ」
「泳ぎが得意なんだな。であれば大丈夫だ。川幅は四〇〇パドほどだから」
アキラは、すごそこを流れるハルドワイネン河の川幅を、平均五六〇パド、と目測する。一七〇メートル、余裕だ。昨晩の夜に上流で大雨が降ったか何かで増水し、流れが速くなっている点を除けば。もう何年も泳いでない点を除けば。溺れ死ぬ自分の姿を容易に想像できてしまう。
カランがアキラの表情を読み違えて言う。「もちろん、逃げる際は市壁の歩哨から丸見えだ。でも戦争をしているときにわざわざ逃亡奴隷を追う者はいない。それどころじゃないからね。そしてローゼルメン中佐がきみの不在に気づき、追っ手がかかる頃には、きみは遠くにいる。戦闘中に逃げる利点だ」
と言われても、どこまで逃げられるものやら。行く当てなどないというのに。
今度はその物怖じを正確に読み取って、カランが言葉を継ぐ。
「ここから逃げたあとのことも考えがある」
「どんな?」
「ユーエリカ大陸とロフトの地理はまだ頭に入っているね?」
「入ってる」
「なら、南を目指せ。トゥルイーエン――憶えているかい?」
「ここから二〇タンネ南の、街道の街。最初に習ったやつだ」
「よし。トゥルイーエンは小さな街で、ハルドガルダのような立派な市壁がない。夜を待って忍び込むんだ。皆が寝静まるくらい、うんと遅い時間に。一本しかない目抜き通り沿いに進むと、街の中心にマーザフ派の小さな教会がある。そこの司祭ハウゼはぼくの呑み仲間だ。彼を頼れ。正装をしていて良かったよ」
言いながら、カランが中指から指輪を抜き、さり気なくアキラに手渡す。アキラは簡素な銀の指輪をためつすがめつする。内側に異国の文字が刻んであり、カラン=イザ=アミピダスの名が辛うじて判読できる。
「司祭に贈られる指輪だ。きみの人物証明になる。そいつを司祭ハウゼに見せて、経緯を説明するんだ――ぼくの秘書になること、奴隷の身分から解放されること、助祭の勉強をする用意があること、軍の不可解な要求のこと――すべてだ。彼は無政府主義思想にかぶれたロフト嫌いの御仁なんだ。軍に追われていると言えば、張り切ってきみの逃亡に手を貸すだろう」
「カラン――」
「何も言わなくていい」
「そういうわけにはいかない。なんでこんなに――」
「聖職者と教会はいつだって、助けを必要とする魂の避難所だ」にやりとして、「本音を言うと、ぼくはあの中佐が気に入らない。大いにね。そして、友人に降りかからんとする災厄を黙って見ているつもりもない」
アキラは胸が熱くなる。「でも――」
「〝でも〟はなしだ。トゥルイーエン。いいね?」
うなずく。「そのあとは司祭ハウゼの指示に従えばいいの?」
「そう。ただし、カルナリーに行きたいと告げるんだ」
「きみの故郷か」
「太陽の国さ。予定は大幅に狂ったが、最初の計画でも、いざというときはきみをカルナリーに逃がすつもりだったんだ。南部連合の支配地域まで行けばロフトは手出しできないからね。いいところだぞ。外国人に寛容で、人種差別なんてほとんどない。現地で再会といこう」
「ああ、現地で」不安を押し殺してアキラは言う。「カルナリーのどこで?」
「西部のホウレイエ地方を目指し、ニグニツァのアミピダス家を訪ねろ」
「きみの実家を?」
「そうとも」
「大貴族なんだろ? ぼくみたいなのが――」
「大丈夫。手紙を書いておく。市が包囲されても、カラスブリダが使える」
カラスブリダ――異世界版の伝書鳩。
「郵便の遅れが予想されるから、現地に到着後、一週間ほど置いて訪ねるといい。それで駄目ならまた一週間後だ。ここまではいいかい?」
「トゥルイーエン、司祭ハウゼ、カルナリー、ホウレイエ地方、ニグニツァのアミピダス家、郵便事情に鑑みて一二日置きに訪問」
「よろしい」
ここにきてやっと、アキラの中で逃亡が具体性を帯びて現実の重みを持つ。胸がやかましいほどに早鐘を打ちだす。
「確か……カルナリーまで六〇〇タンネ近くある。かなり南だ」
「教会の組織網は大陸全土に跨っている。正しい人物を介し、正しい戸を叩けば、正しい戸が開く。たとえ宗派が異なろうとも。それから、こいつが役に立つ」
カランが懐から小ぶりの革袋を取り出す。受け取ると、見た目よりずっしりしている。袋の口から中を覗くなり、アキラは息を呑む。
「金貨だ」
「銀貨のほうが多いよ。きみを買った残りさ。ふっかけられると思ったから、多めに用意したんだ。ぜんぶでだいたい、三ラートある。裕福な多角経営農家のひと季節ぶんの稼ぎといったところだ」
「そんな大金――」
「いいから受け取れ。将来の秘書への先行投資だよ」カランが茶目っ気たっぷりに言い放つ。目は大真面目だ。
不意に視界を曇らせた涙を、アキラは手の甲で乱暴にぬぐう。
「約束する、いつか必ず返すよ。無駄遣いもしない」
「返さなくていいし、逃亡資金をケチる真似もするな。司祭ハウゼに渡せば、賄賂だの口止め料だので上手く使ってくれるだろう。最善でカルナリーまで。最悪でもロフトの南の国境を越えるまで。でもぜんぶ渡すなよ。金貨を一枚か二枚、手元に残しておくんだ。ニグニツァで足止めを食ったときの宿代になる。ああ、それからこれを」
カランが首の後ろに両手を回してチェーンネックレスをはずし、アキラに渡す。ネックレスには槍と楯の意匠の銀細工のペンダントが付いている。
「正装用の装飾品さ。失くさないように指輪と革袋を鎖に通して、首から提げておきたまえ」
アキラが指輪と革袋を貫頭衣の胸元にたくしこんだところで、カランが警告する口調で言う。
「理解していると思うが、ここから逃げるのは比較的簡単な部分だ。最大の困難は、逃げ切ることにある。とりわけロフトの領土を出るまでが危険だ」
危険。そうとも。危険に決まってる。
手違い一つで、何もかもおじゃんになりかねない。
それに危険と言えば――
「カラン、きみは? ぼくを逃がせば、きみの立場が悪くなる」
「ならないよ。何日か前に話したように、ぼくは三重に護られている。そしてきみの逃亡を幇助したと疑われることもない」
「どんな理屈で?」
「ぼくの奴隷は使い走りに便乗して行方をくらましたようです、と言えばそれでしまいさ」
「そんな子供だましみたいな言い訳、通用するのかい?」
「するとも。戦闘が始まれば、現場は大混乱に陥る。敵前逃亡を働く兵士もいれば、逃げ出す奴隷もいる。きみはその一人というわけだ」
アキラは足を止める。「カラン、きみも一緒に逃げないか?」
カランも足を止める。「ぼくは行けない。務めがある」
「もし戦争に負けたら――」
「もし戦争に負けても、心配には及ばない。敵味方を問わず戦死者を弔う聖職者は、敵対国からも敬意を持って扱われる。こんな言い方をしても許されるなら、敗戦国で最も身柄の安全を保証されているのは、聖職者だ」
「でもきみは戦いの現場に残るんだろう? 事故があったら――」
「事故は事故だ。司祭に付き物の職業上の危険負担にすぎない。聖職の道を選んだときから、ぼくはこれを受け入れている」
カランの静かな佇まいは、説得は無駄だと告げている。アキラは口を閉じ、促されるまま歩みを再開する。
「そろそろ着くね」
その言葉どおり、市壁の角が見えている。犯罪奴隷の列が角を曲がり、市の奴隷があとに続き、アキラとカランも続く。今回初めて訪れた市の南側には、西側とやや趣を異にする見事な景観が広がっている。しかし、いま用があるのは自然の美ではなく、その土台だ。アキラは逃亡者の視点でつぶさに地形を観察する。
地平線まで続く青々とした穀倉地帯、大小の木立と丘、ハルドワイネン河。
増水した河。
溺死は願い下げだ。
とはいえ、畑に身を隠しながら南下する案は考慮にも値しない。畑まで行くには、開けた草地を四〇〇メートル弱、突っ切る必要がある。そしておそらく、最低でも百人単位の目撃者を生む。アキラはなるべく甘い予想を切り捨てて考えを先に進める。冷たい男も目撃者の一人になるとしよう。あいつが本気でぼくを手に入れるつもりなら、たとえ戦闘中であろうと、追っ手を差し向けるかもしれない。仮に逃亡の発覚が遅れても、目撃情報を基に追跡範囲を楽に絞り込める。人間狩りの容易い獲物だ。
翻って対岸は、至近の追っ手を心配することなく、岸から三〇〇メートル先の森まで悠々と逃げ込める。そして北へ向かうふりをし、森に入ってから、進路を真逆に転じる。死ぬ気で河を泳いで渡るか、身一つで川下りをするしかなさそうだ。
そしてカルナリーへ。ひたすら南へ。
ああ、シノ。ずいんぶん遠回りをしたけれど、結局、プランAになりそうだよ。
奴隷たちのざわめきが耳に届く。よそ見をやめると、進行方向の遥か先、南門の辺りで、騎兵と歩兵から成る一団が横列に展開している。しかし、街の命運を賭けた合戦、というには頼りない軍勢だ。
「あれ、何人ぐらいいるのかな?」アキラは尋ねる。
カランの横顔と声はいつもと同じく穏やかだ。「駐留部隊の規模は一個レホヴァントラム、とどこかで聞いたな」
「レホ何?」
「レホヴァントラム。軍の単位で、二〇〇〇人くらい」
「もっと少なく見える」
「ほかの門にも人手を割いているんだろう。空っぽにはできないからね」
「敵の数は?」
「多く見積もって二個レホヴァントラムらしい」
「倍じゃないか」ぎょっとしてアキラは大声をだす。
「いや、市内には休戦後に後方へ送られた前線の部隊もいる。合わせると、職業軍人だけで三〇〇〇かそこらはいるんじゃないか。取引のあと、街中で兵士や傭兵風の連中を大勢見かけたよ」
「加えて奴隷か」
「それに加えて農民だね」
「農民?」
「さっきの伝令が、避難の呼びかけを兼ねた緊急召集の使者が出発したと言っていた。国境に近い街の常で――さらに戦意過剰なエクサリオのおかげで――この辺りの農民はどの世代も弓兵としての実戦経験がある。最大動員には届かずとも、開戦までに数百人は集まる見込みだ。開戦が遅れるか、戦闘が長引びくかすれば、近在の領主の軍や国の常備軍もかけつける。地の利もある。市壁もある。市民兵もいる。ロフト軍が有利だ。ほら、言っているそばから農民たちだ」
畑の一点、街道が通っているとおぼしい場所から、馬車と荷馬車と徒歩から成る一行が続々と現れる。陣を敷く兵士の一部が彼らを出迎え、査閲し、済んだ者から門の中へ進ませてゆく。農民たちの流れは途切れる様子がない。確かに、あれなら数百人の弓兵などすぐに集まりそうだ。
「多いね」とアキラ。
「そりゃあね」とカラン。「市の西側に住む農民たちも、あの流れに加わっているだろうから。橋を壊したせいさ。今頃、北門も大忙しだろう」
奴隷たちが南門の近くまで来たとき、農民の列がちょっとした交通渋滞を引き起こす。
査閲中の兵士は当然ながら、ほかの兵士も忙しそうだ。あるグループは木製の防護板を陣の最前列へ運んだり立てたりし、別のグループは防護板と防護板のあいだに尖った杭を据え付け、また別のグループは胸壁に石弓を並べている。円形の盾と短槍が歩兵の基本兵装のようだ。将校はひと目でわかる。房飾り付きの鉄兜と胸甲姿で命令をがなっているからだ。
まるで大仕掛けな映画のセットだ、とアキラは思う。頭ではすべて現実だと理解していても、現実感を失調しそうになる。その現実感がさらに薄れたのは、八名の兵士が車輪付きの兵器を押したり引いたりしているのを目にしたとき。
「大砲じゃん」アキラは日本語でつぶやく。
「うん?」とカラン。
リュシナリア語でどう言うのかわからず、アキラは大砲を指さす。「運ばれてる大きくて太い筒」
「ああ、カノネイだね。それに見てごらん」荷馬車の傍で長い火器を受け取っている兵士の一群へカランが顎をしゃくり、「ラスケイアイザンもある」ラスケイ、アイザン――飛ばす、鉄。マスケット銃。「軍は兵器庫の中身をすべて持ち出しているようだな」
アキラは大砲に目を戻す。あんなのでちゃんと当たるのか? あんな博物館クラスの骨董品で? いや、この世界の技術水準からすれば、きっと最新兵器なんだ。
付近には軍の兵士のほかに、革鎧の警備隊員の姿もある。その一人がオーグ隊長に話しかけたあと、隊長が市の奴隷に向き直る。
「みんな、止まれ。注目。道中も説明したが、ハルドガルダ市はこれより軍の指揮の下、エクサリオの馬鹿どもと戦う。だが気負わなくていいぞ。我々警備隊と諸君らは主に、負傷者の搬出と物資の運搬を担う。いつもの雑用と考えて構わん。今回は仕事場が戦場というだけだ」
奴隷たちのあいだから小波のような笑いが起きる。
「軍から指示があるまで、ここで待機だ。それまで楽にしてくれ」
「昼飯は出ますかね?」誰かが尋ねる。「おれたちゃ腹ペコです」
「掛け合ってくる。とにかく待機だ」オーグ隊長がカランのほうへ顔を向ける。「司祭殿もここでお待ちいただくのがよろしいかと」
「了解した、隊長」
この間、軍の奴隷は農民の列を突っ切って、街道の向こう側、約二〇〇メートル先に集められる。アキラは爪先立ち、農民と兵士でごった返している雑踏越しに成田の姿を探し求める。いた。周囲の出来事に無関心な様子で畑のほうを眺めている。
アキラはカランに肩を寄せて、囁く。
「きみは混乱をリヨして、ぼくを逃がす」
「利用。それが?」
「混乱をリヨウして、ナリタも逃がせないか?」
目を見て了解する。成田を逃がすことはできない。
カランが顔を背けて言いよどむ。「彼も助けてやりたいが……犯罪奴隷は軍の先鋒を担うことが多い。開戦と同時に敵に突っ込むんだ。彼の居場所なんてすぐにわからなくなる」
要は、損害度外視の突撃隊か。
「あいつを犯罪奴隷から引き離すのは? この何日か、昼間にそうしていたみたいに。司祭の仕事を手伝わせるとか、何か口実を――」
カランが首を振る。「戦場で軍のやり方に口を挟むのはさすがに無理だ」
「じゃあ……今だけなら? あいつにも計画を教えておけば、逃げられるかもしれない」
「きみの気持ちはわかるし、彼を信用していないわけでもない。でもね、彼が言葉に不自由な点を考えても、秘密を共有する者が増えれば増えるほど露見の危険性が――」
「カラン、頼む」
視線が絡み合う。
カランがその視線を地面に落とし、諦めたようにうなずく。
「わかった……試してみよう」
念のために同郷の友人と別れを済ませておきたい、とカランの口からオーグ隊長に訴えてもらい、オーグ隊長から軍の警備責任者に話を通してもらうことで、五分も経たずに、アキラは成田との面会を果たす。軍側の警備兵の立会いのもと、短時間のみ、との条件付きだが。
「ナリ、大事な話がある」アキラは日本語で言う。
成田の無表情な顔がアキラのほうを向く。
「もうすぐ戦争が始まる。そしたらここから逃げるぞ。右のほうに河があるだろ? ここに来るときに横を通った河。戦いが始まったら、怪我をしたふりでもなんでもして、あの河に行け。ぼくも行く。いいか?」
アキラは三秒待つ。
「ナリ、聞いてる?」
「願い事は?」
「え? 何?」
「願い事。おれは魔法だ。おまえは?」
「ナリ」
「おれ、もうすぐ魔法を――」
「ナリ、聞けよ。河に行って、待ってろ。戦争が始まったらすぐ」
成田は白痴的な薄ら笑いを浮かべ、ふいと前方へ顔を戻す。アキラがさらに二度、逃亡計画を繰り返したところで、警備兵が横から口を挟む。
「そろそろ食事を与えなければならん。もういいな?」
良くないが、相手が有無を言わせぬ調子で割り込む。連れて行かれる成田の背中に向けて、アキラはなおも念を押す。
「河で待ってろ! ナリ、河だぞ!」
離れたところで見守っていたカランが、アキラの横に並ぶ。
「上手くいったかい?」
「たぶんね。やれることはやったよ」
「そうか。腹ごしらえでもしてきたまえ。今頃、何か配られているだろう。では、またあとで」カランが僧衣の裾を翻して背を向ける。
「きみは?」
「ぼくは仕事がある」
仕事とは小さな祈りの会だ。
ロフト王国では豊穣の神ナルロ=マーザムを奉るマーザム派が主流であり、兵士たちの大多数もマーザム派の信徒だが、こと戦場においては、戦神を奉る宗派の祈りを求める声が多いそうだ。これには、マーザム派の僧侶が戦場まで出向かないという事情も絡んでいる。なんにしろ、開戦前の祈祷は古来からの習わしだ。
アキラは友人との別れが迫っていることを意識して同行を申し出る。とはいえ、手伝えることなど何もなく、カランが兵士のグループに向けて聖典の一節をリュシナリア語で引用する様子を脇からぼけっと眺めているしかない。
「退屈じゃないかい?」騎兵グループに向けた二度めの祈祷のあとでカランが尋ねる。
アキラは感想を述べる代わりに、聞き覚えたばかりの一節を諳んじてみせる。「〝我らは強大な敵の存在を喜ぶべし。我らは敬意と礼節をもって敵に接すべし。我らは血と恐怖に溺れることなく事に当たるべし。我らの生をそこに見出さんがために〟」
「ライエ記一二節。兵に人気があるんだ」
三つめに立ち寄ったのは、市壁の内側に設えられた石造りの階段を上ったところにある、慌ただしい胸壁だ。カランが弓兵たちと共に祈るあいだ、アキラは地上四階の高みからハルドガルダ防衛隊の陣容を眺める。
幅七〇〇メートル余りの四列横隊――壮観だ。等間隔に配された一〇門前後の大砲。砲と砲のあいだにずらりと並ぶマスケット銃。二列と三列めを構成している、剣や槍で武装した歩兵。その背後、一番奥に配置されているのは、軍の弓兵と農民の弓兵。彼らは自分たちの背丈より高い長弓の具合を確かめたり、手に取りやすい場所に予備の矢を突き立てたりと、準備に余念がない。
これが臨戦態勢なら、もっと壮観だったろう。けれども今、兵員の八割ほどは、銘々の持ち場で地面や荷物の上に座り、パンか何かを食べている。両翼の端に展開している騎兵隊にしても、ほとんどがハラスから降りて食事中のようだ。下で見たときよりも兵士の数が多いのは、カランの言っていた前線からの後送部隊が加わったからだろうとアキラは見当をつける。
四〇〇メートル先の畑に視線を転じる。偵察に出ている騎馬の姿がちらちら見える。麦類に似た丈高い植物に隠れがちだが、農民のはけた街道のずっと先を単騎、または数騎で駆け回っている。
門の外では比較的静かに物事が進行しているのに反し、門の中では大騒ぎが発生している。家具や材木や馬車で作られた簡易バリケードの反対側に、好き勝手に武装した市民が詰めかけて、「市を護れ」だの「侵略者を八つ裂きにしろ」だのと暴走気味のデモさながらに気炎を上げている。剣を佩いている者、棍棒を振り立てている者、ピッチフォークを肩にかついでいる者――老いも若きも男ばかりだが、女性の姿もちらほら目につく。バリケードの前で押し合い圧し合いしている彼らに向けて、将校が大声で注意する。いいですか皆さん、そこがあなた方の持ち場です、無闇に前へ出ないように!
非近代的な軍隊と武装市民の戦争準備風景――またもや映画のセットに紛れ込んだような気持ちになる。その感覚に落ち着かなくなり、アキラは南側の眺望に向き直る。なだらかに隆起しながら延々と続く農耕地。地平線の凹凸を形作っている丘陵と山。青く霞む、万年雪を頂いた山脈。来週か再来週には、あの山脈のずっと先にいるんだろうか? この世界の測量技術に疑問は残るが、カランの知識を信じるなら、カルナリー王国まで九〇〇キロ。道のりは長い。
そこで思いついて、胸壁から軽く身を乗り出す。一六〇〇メートル右手――ハルドワイネン河の対岸に広がる森は生憎、それほど深くなさそうだ。森の向こう側も南側も、農耕地らしき薄い緑が覗いており、麦か何かの穂が波打っている。あの地形を利用すれば上手く逃げられるかもしれない。
胸壁から頭を引っ込めたアキラの傍を、三〇名ほどの兵士が通り過ぎる。その半数近くは、地上では一人も見かけなかった女性兵士だ。自分と大して歳の変わらない少女までいる。アキラはその少女を盗み見、目で追う。その娘に限らずみんな杖を手にしている。なぜ? 足が悪いようには見えないけれど……
祈りを終えたカランがやって来る。
「アキラ、そろそろ食事を取っておいで」
「食べたい気分じゃない」
「食べなければ駄目だ」含みを持たせて言い足す。「ここからは体力勝負になる」
「ああ……確かにね。きみは食べないのか?」
「馬車の中で食べすぎたんだ。ほら、行っておいで」
きちんとした昼食の代わりに軽食が配られる。干し肉は硬く、赤パンはぼそぼそし、革袋の水はぬるい。
戦闘に参加しない市の奴隷たちにも緊張が漂う。若い頃に何度か実戦経験があるというミハイロは、笑顔を浮かべている少数派だ。
「おれたちは怪我人を運び、弓兵に矢を届ける。難しいことじゃない。周りを良く見て動けば、かすり傷一つ負わんよ。ところで、若いの」
アキラは機械的に噛んでいた干し肉を口から離す。「なんだい?」
「詮索するつもりはないんだが、一つ気になっていてね。こっちへ来る前やら道中やらで、アミピダス様とごたごたやっとったろ? ありゃなんだったんだね?」
逃亡の打ち合わせさ、とアキラは胸の中で答える。食べ物が咽を通らないほどの不安と、良心に刺さった棘の存在を意識しながら、口ではこう答える。「カランの手伝いを頼まれたんだ」
「おやまあ、そりゃ高く買われたもんだ。なら、おまえさんはいっとう安全だな。エクサリオの田舎もんどもといえど、司祭様を狙うような馬鹿者はおらんだろうから」
「ああ、そんな馬鹿はおらん」無口なニムトが同意する。ニムトの声を聞いたのは、今日はこれが初めてだ。
「でも事故が心配だ」とアキラ。
「司祭様は何も、戦場の真ん中で死者の冥……冥……」言葉を探してミハイロの視線が上に泳ぐ。
「冥福?」
タルノーの指物師が恥ずかし気に笑う。「おまえさんにリュシナリア語を教わるなんて、ふた月前の自分に言っても信じなかっただろうな。ロフト語もすぐに覚えちまうんじゃないか?
そう、冥福。司祭様は、兵隊が殺し合う横で死者の冥福を祈るわけじゃない。ちっとばかし後ろのほうで瀕死の者に祈るんだ。流れ矢すら飛んで来んさ。司祭様の手伝いなら、おまえさんにも女神様の加護があるよ」
「じゃあ、前もってアルマ=クフに感謝しておかなきゃだね」
「そうするがええ。おや、噂をすれば司祭様だ」
カランが南門の辺りに姿を見せ、「アキラ」と呼びかけながら手招きする。無口にして大食漢のニムトに食べかけの干し肉を渡してから、アキラは手招きに応じる。
「急ぎの用だ。来てくれ」カランが返事を待たずに踵を返す。
せかせか歩く朱の僧衣を追いながら尋ねる。「急ぎって?」
「首輪だよ。きみの首輪のことをすっかり忘れていた」
「首輪が何?」
「個人所有の物と取り替える」
「ふうん?」
最前列正面の草地に、オーグ隊長の姿がある。軍側の数人の将校と打ち合わせ中のようだ。カランが丁重な物腰で割り込み、彼の首輪を外していただきたい、と申し出る。
「先ほども申し上げましたが、彼は今、わたしの奴隷で、従者候補です。この首輪では勘違いする方も出るでしょうから、今のうちに取り替えておきたいのです」
「申し訳ありませんが、少々立て込んで――」
言いかけたオーグ隊長を遮って、カランが続ける。
「このままでは具合が悪いんですよ。この戦場が、わたしの補佐として彼の初仕事になるわけですし」
「あー、替えの帯はお持ちでしょうな?」
カランが懐から革紐のように細いチョーカーを取り出してみせると、オーグ隊長はうなずき、アキラの首輪に手を伸ばす。
「ほれ、じっとするんだ」
オーグ隊長が首輪を指先でつまみ、小声で何やら短く唱える。首輪からバチっと音がする。硬くて小さなものがアキラの肩や鎖骨を打ち、ぽろぽろと足元の草地に落ちていく。見ると、頭の潰れた鋲。
オーグ隊長がするりと首輪を抜いて、上着の隠しに突っ込む。「さあ、これで良し。どうぞ、司祭殿」
「アキラ、背中を向けて」
チョーカーが背後から首に回されたところで、アキラは、街道の向こうの最前列に気を取られる。剣や槍で武装した軍の奴隷たちだ。武器を手にした元犯罪者たちを警戒してか、警備の人員が増えている。アキラは成田をすぐに探し当てる。一〇〇メートルも離れていない場所で剣をだらりと下げ、足元に視線を落としている。その姿に向けて心の中で語りかける。
ナリ、河だぞ。ぼくたちは逃げて自由になるんだ。カルナリーに着いたら、これまでの不運を笑い飛ばせるくらい愉快にやろう。コックをやって、流行の仕掛け人をやって――
ぱちん、と金具が嵌まる音にアキラは我に返る。
「司祭殿」と立派な髭をたくわえた軍の将校が横から言う。「軍議が終わりましたら、わたしの部下たちと共に祈っていただけませんか?」
「もちろん結構ですとも」
将校連とオーグ隊長が打ち合せを再開すると、カランがアキラにさり気なく合図する。一〇歩ほど離れてからアキラの首元を指さす。
「意匠はなんでもいいが、黒い帯が個人所有の証になる。それを着けていれば今後、誰かにとやかく言われることはないはずだ」聞き取り難いほど声を落として、「逃亡中は特に役に立つ」
「了解。で、さっきのはあれはなんだったんだい? 隊長が首輪に触ったら、音がして鋲が抜け――」
絶叫が響き渡る。
二人がぱっと振り向くと、軍の奴隷の列が乱れ、火の手が上がっている。人間松明と化した者が数人、列から飛び出して、叫びながら草地を転がり回る。続いて、小麦色の髪の男が剣を構えながら列を出、あとじさる。それを追うように成田が列から進み出る。小麦色の男がさらに後退し、成田に剣の切っ先を向けながら「やめろ、やめろ、やめろ、畜生、やめろ」とわめき散らす。
アキラは目撃する。成田が愉し気に微笑むのを。真昼の太陽の下でも視認できる眩い火の粉が、成田の周りでぽつぽつと舞い始めるのを。それらが一筋の流れとなって、螺旋を描くように宙を走るのを。
無数の火の粉に撫でられて、小麦色の男の上半身が炎に包まれる。
新たな絶叫。
成田が自分の首輪をつかみ、背後に注意を転じる。活人画を実演中の軍の奴隷たちに向き直るなり、切断面がめらめらと燃えている首輪をぽいと放り捨てて、その手を指揮者のようにさっと上へ躍らせる。瞬時に現れた大量の火の粉がぶわっと舞い上がる。手が振り下ろされるのと同時に、火の粉が奔流となって真正面の奴隷たちを呑み込む。
複数の火柱。
さらなる絶叫。
「なんてこった」
カランのつぶやきに重なって、髭の将校が鋭く命じる声。
「警備、あいつを止めろ!」
命令されるまでもなく、警備兵はとっくに動きだしている。しかし全員、瞬く間に火達磨になる。活人画が割れ、軍の奴隷たちが蜘蛛の子を散らすように逃げだし、その中の数名が各々の得物を構えて成田を死角から襲おうとするも、何もできないうちに人間松明の仲間入りを果たして、逃げた奴隷も次々と火の粉に抱擁され、事態を収拾しようとした近くの兵士も炎の洗礼を浴びる。
「やはりメイガスだったのか。だから軍に……でもなぜあんな扱いを……」
カランの言葉がアキラの耳に届くが、頭には届かない。メイガスの語義――超常の力を操る者/魔術師――は知っているが、まるで理解できない。アキラはただただ、成田の生み出した阿鼻叫喚の巷に目を奪われて、呆然とする。
燃え盛る炎を透かして友人の後頭部が見え――
アキラ、と呼びかける声がする。
頭の中で。
アキラの頭の中で、成田の声が語りかけてくる。
おれは行かなきゃいけない。
妖精が行けって言ってる。
だからおまえとは行けない。
幻聴なのか、現実の声なのか、アキラには判然としない。それを言うなら、街道の向こうで成田が火の粉を操り、軍の奴隷と兵士をほしいままに大量殺戮していること自体が、著しく現実味を欠いている。
頭の中の声が続ける。
ああ、スゲーいい気分だ。
このクソども、ざまあみろ。
死ね、死ね、死ね、おまえらみんな死ね。
時間が止まってしまったかのような一瞬、手足を振り乱すいくつもの人型の炎と、断末魔の悲鳴と、肉の焼ける臭いと、黒々とした煙を隔てて、アキラと成田は見つめ合う。成田はもう笑っていない。棒立ちで、酷く疲れているように見える。その姿が薄れる。ピントがずれたように細部がぼやけ、濡れた紙に広がる水彩絵の具のように全身が滲み、煙のように輪郭が空気に溶けだす。
じゃあな、アキラ。
そして、ふっと掻き消える。
最初の絶叫から成田の消失まで、二〇秒足らずの出来事。たったの二〇秒足らずで、軍の奴隷と警備兵と一般兵士が合わせて数十名、炭化した焼死体と成り果てる。無造作に転がる黒こげの遺体はどれも、まだぶすぶすと焼ける音を立て、白煙を上げている。指揮官たちが口々に「隊列を整えろ」とがなりたてる。逃げたりしゃがんだり地面に伏せたりしていた兵士たちが、自分の持ち場へ戻り始める。
「きみは知っていたのか?」カランが尋ねる。
「へ?」アキラは呆けた声を出す。
「彼が魔術師だと、きみは知っていたのか?」
「まさか。あんなの全然……というか、魔法使いってお伽話の存在じゃないの?」
カランがぽかんとする。あまりにもじろじろ見てくるので、アキラは極まり悪くなる。
「カラン?」
「いくらなんでも無知にもほどが……きみは本当にどこから来たんだ? いいかい、魔術師はお伽話の存在じゃない。実在する」
「つまりこの世界には……魔法が存在する?」
「する。今のを見ただろ?」カランが焼死体の山に手を振る。「きみの友人がやったことを?」
アキラは両手をひらく。「見たけど、信じられない。上手く呑み込めない。魔法のこと、なんで今まで教えてくれなかったんだ?」
「当たり前のことすぎて、教える必要があるとは思わなかったんだ。それにこれは、気軽に持ち出せる話題じゃない」
「なんで?」
「格差だよ。きみはグラティアを〝才能〟と解釈しているようだが、その語義は文字どおり〝加護〟だ。神々より賜りし加護が魔術の形を取ることはそれほど珍しくない。二〇人に一人はそうさ。そして魔術の才に乏しくとも、何かしら社会に貢献できる道がある。よって彼らは優遇される。国への数年の奉仕と引き換えに、身分を問わず無償で専門教育を受けられる。大学で学問を修めることもできる。独り立ちとなったら引く手数多だ。国や領の文官にだってなれる。軍、商会、果てはそこらの肉屋まで魔術師を優先的に雇用する。
グラティアによる格差だ。その辺りを気にしない者もいるが、人によっては酷く気にする。社会構造と文化に植え付けられた劣等感ゆえにね。魔術の一つでも使えればもっと違った人生を歩んでいたであろう奴隷たちは、そのあたりを特に気にする」
「珍しくないって言うけど、魔法使いなんて一人も見たことがない」
「きみは会っているよ。ヨヒト隊長、オーグ隊長、コンスタヌ隊長がそうだ。彼らは魔術が使えるから高い立場にいる。もちろん、有能でもあるからだが」
「でも隊長たちが魔法を使うのも見たことがない」
「わざわざ見せびらかすとでも? 高い能力がある人ほど、そんな真似はしないよ」
「あー、カラン、きみは? もしかして、きみも魔法使い?」
「ぼくは違う。ぼくが戦女神メイシア=ウギ=アルマ=クフから授かったのは、行くべき場所、進むべき道、友誼を結ぶべき人物といった、人生を豊かにしてくれる何かしらを直観的に悟る加護だ」
「戦いの方法じゃなくて?」
「彼女は旅の守護神でもある」
アキラはカランの話をどう受け取っていいのかわからなくなる。
「なんだか……女神が本当にいるみたいな口ぶりだ」
カランが呆れたようにかぶりを振る。「〝みたい〟じゃない。神々はおわす」
やはり理解が追いつかず、アキラもかぶりを振る。「女神と会ったことがあるとか?」
「いや、残念ながら。でも直観的に物事を悟るたびに、彼女の息吹を感じてきた。小さな子供の頃からね」
「なあ、待った。さっきオーグ隊長が首輪に――」
言い終える前に、アキラは南東の遠い畑が地面を吐き出すのを目にする。大量の土砂と、ねじれたハラスと、複数の人体が、宙高く放り上げられる。一・五秒遅れて、物理的な圧力を伴う爆発音と衝撃波が到達する。
今度はなんだ?
あれもナリの仕業か?
胸壁の上から物見が叫ぶ。
「ピアァァァ‐ボォォォウルレェェェット!」
ピア‐ボウルレット――火の玉。
火の玉?
物見は南側の畑のほうを指さしている。カランも南のほうへ顔を向けている。アキラもそっちを見、二つの現象を目に留める。一つは、畑のずっと向こう、約三キロ先の山の頂から、眩い輝きが照明弾のように上がっていること。もう一つは、竜巻じみた突風が突如、草地を吹き荒れたこと。
まるで風の壁。草地に点在する木々が傾いで葉と弱い枝が千切れ飛び、畑からは農作物が、地面からは草がむしり取られている。しかし陣の辺りでは、少し強い横風が吹いているにすぎない。〝まるで〟じゃない、とアキラは思う。現実に風の壁があるのだ。一〇〇メートル先に。轟々と音を立てて。その不可視の壁を可視ならしめている、巻き上げられた無数の草と葉を通して、照明弾みたいなやつが垂直に上昇し続けているのをアキラは認める。
もちろん、照明弾ではない。そして、垂直に上昇しているのでもない。
青空高く打ち上げられた光点が速度と大きさを増しつつ弧を描いてぐんぐんこちらへ迫り、それが白熱する火の玉とわかるくらい接近した次の瞬間には、風の壁を貫いて、隕石よろしく南門の脇にぶち当たる。
大爆発。
粉砕された石材が辺りに飛散し、門の近くにいた者が打ち倒される。続けざまに飛来した二発めと三発めがさらなる石材の散弾を撒き散らして、四発めと五発めが陣中に飛び込む。広範囲の草地が噴火し、無数の兵士の体が空中に放り上げられる。
火の玉はまだ飛んできている。
「伏せろ!」
カランに肩をつかまれたまさにそのとき、アキラは巨人の平手打ちを背中に食らう。