第2章 三河の好男子
桶狭間の戦いが終わり、翼は、まだ織田家にいる。どうやら、転生したのは陰陽師の安倍晴明の子孫である土御門家の一族の娘らしいことがわかった。
土御門家は、当時の陰陽師の総本山と言われるべき家柄で、その力は当時の戦国大名に引っ張られ、全国各地にその子孫や親族を軍師として派遣していた。尾張の地にもそのうちの一人である娘が派遣され、その娘の名が偶然にも翼という名だった。
戦国時代の陰陽師は、軍師の役割も担っていた。戦乱の時代において、大名は軍事的な意思決定において、あらゆる利点を求めており、その中で陰陽道の知識を持つ人物が重用されるようになった。
いつ出陣するのが最適か、陣地の位置や方角の良し悪しはどうかなど、軍事に関する助言を陰陽師に求めてくる。陰陽道に通じた軍師は、出陣の吉凶を占い、兵士の士気を高める役割を担っていた。そんな特別な力を持った一族の一人として、転生した先が土御門翼だった。
陰陽師の才能や勉強も一切したことがない翼だったが、なぜかわからないが、スマホはこの転生したこの時代でも使用できた。電源もなぜか充電せずに使える。おかげで、必要に応じて、アプリを使い、信長の要求をこなしていた。
特に重宝しているのが、天気予報アプリと星座占いだ。気象庁が無いにもかかわらず、なぜだか天気予報をしてくれる。それもよく当たるのだ。このおかげで、桶狭間は勝利できたと言ってもいいくらいだ。星座占いは、翼が和暦をよく理解していないせいもあり、生年月日が必要な四柱推命などではなく。誕生日だけで占える星座占いを使うようになった。なせか課金もせずに新しいアプリを落とすこともできて、今や、スマホは、軍師・土御門翼の必須アイテムになっている。
* * *
桶狭間での戦いから数ヶ月が過ぎた。夏の陽射しが清洲城の木々を照らし、軽い風が吹くたびに緑の葉が光を反射して輝きを放っていた。翼は城の一角にある自分の部屋から中庭を眺めながら、深く息をついた。
「はぁ……」
羽織袴姿の武士たちが忙しそうに行き来する様子は、つい先日までの緊迫した雰囲気から一変して活気に満ちていた。桶狭間の勝利は、織田家の運命を変え、その名声は瞬く間に周辺諸国へと広がっていた。
桶狭間で翼が信長を勝利に導いたことは瞬く間に広がり、それまで女だからと疎んじていた家臣たちもこぞって翼のところに相談に訪れるようになった。その中でも頻繁に翼を訪ねる人物がいた。信長の実妹・お市だ。
日が傾きかけた頃、廊下から軽やかな足音が聞こえてきた。
カタ…カタ…
「翼さま、ごきげんよう♪」
鮮やかな紅色の小袖に身を包んだお市が、憂いを含んだ美しい顔で微笑みながら部屋に入ってきた。長く艶やかな黒髪は背筋に沿って流れ、品のある所作で翼の前に座った。
「お市さま、今日はどのようなご用件で?」
と翼が尋ねると、お市はふっと表情を緩めた。
「実は、翼さまが大好きなお菓子を手に入れたの。一緒にいただきたいと思って」
お市は袂から小さな包みを取り出し、丁寧に広げた。シャラリ……と音を立てて包みが開く。中には美しく切り分けられた練り切りが並んでいた。緑の葉の形をした練り切りの上には、透明感のある水滴のような飴が乗せられ、まるで朝露のように輝いていた。
「これは…!」
翼は思わず声を上げた。
「京で有名な『朝露』ではありませんか」
お市は嬉しそうに目を細めた。
「お好きだとお聞きしていたので、兄上に無理をいって特別に取り寄せたのよ♪」
今でこそ、尾張(名古屋)と京都は新幹線で1時間足らずで移動できるが、交通手段のない当時は、どんなに急いでも数日はかかる。お市のことを溺愛している信長だから、家臣にかなり無理をさせたのではないかと察しがつく。
翼は一口練り切りを頬張ると、上品な甘さが口の中に広がった。ほんのりと香る抹茶の風味と、飴の涼やかな甘みが絶妙に調和している。
「本当に美味しい…」
と翼がつぶやくと、お市は満足そうに微笑んだ。
お市は、実の兄妹といっても信長とは、かなり歳の差があるらしい。気性の激しい信長と比較しても、平和的で何事にも平穏に暮らしたいと常に思っている。かなりのブラコンで、そのせいか言い寄ってくる武将も信長に比べると劣るせいか、すぐに振ってしまう。美味しいものがあるとすぐに信長の元へ持っていくし、てんびん座の世話好きのあるあるで、細々とした世話までしてしまう。信長もお市を気に入っているせいか、嫌がらない。
お菓子を楽しみながら、二人は他愛のない話に花を咲かせていたが、突然、お市の表情が少し曇った。
「実は、今日は別の相談があって来たの…」
「何でしょうか?」
と翼が身を乗り出すと、お市の頬が薄紅色に染まった。
「柴田様から…文をいただいたの」
「えっ、柴田様ですか?」
と翼は思わず声を上げた。どうやら、織田家の重臣の柴田勝家から恋文が届いたらしい。噂では聞いてたけど、本当だったんだ。
お市は小さな声で続けた。
「柴田様は、ごつい見かけとは逆で優しいし、悪い人ではないんだけど…」
調和と平和を求めるてんびん座だけあって、直接嫌いとは言わない。
「はあ、で、信長様はなんと?」
と翼が尋ねると、お市の顔が一気に明るくなった。
「今はまだ早い、もう少し、ワシの元におれですって、うふふ♡」
と言った。さすがブラコン、ほとんどニヤケである。
その様子を見て、翼は思わず笑みをこぼした。
* * *
お市が退室すると、予想外の者が訪ねてきた。木下藤吉郎である。彼は、周囲に気配りしながら、さっと入ってきた。
スッ…
「やあ、軍師殿。突然、申し訳ない」
藤吉郎の目は細く、その中に鋭い光を宿していた。背は高くないが、エネルギーに満ち、常に何かを考えているような落ち着きのなさがある。シンプルな茶色の袴に身を包み、腰には小ぶりな刀を差していた。
「木下さま、何かご用ですか?」
と翼が尋ねると、藤吉郎は一歩近づいてきた。
「聞いたぞ、お市様が柴田に恋文をもらったとやら」
「もう知っているのですか?」
藤吉郎はニヤリと笑った。
「この城で起きることは、すべて把握しておる」
これを聞いた木下藤吉郎が、翼にその状況を聞いてくる。魚座の藤吉郎は、惚れてたら、まめにアタックするタイプ。それも平気に二股、三股も当たり前、お市のことを聞くかたわら、翼のことも口説いてくる。
「そういえば、軍師殿もなかなかの美人じゃ。陰陽師の力だけでなく、その容姿も織田家の宝だな」
と藤吉郎は遠慮なく翼に近づいた。
彼の息が頬に当たるほど近い距離になって、翼が身を引こうとした瞬間、襖が勢いよく開いた。
バッ!
「藤吉郎!また女性に無礼を働いているのか!」
そこには前田利家が立っていた。武骨な顔立ちながらも若々しさを残す利家は、怒りに染まった顔で藤吉郎を睨みつけた。がっしりとした体格に逞しい腕の筋肉が浮き出ている。青い直垂には所々に汗のシミが付いており、剣術の稽古の途中だったことが窺える。
「おやおや、前田殿。何をそんなに怒っておる?ただの世間話よ」
と藤吉郎は涼しい顔で言い返した。
「まったく…お前はいつも同じことを」
利家は頭を振り、
「おねさまに告げ口するぞ」
と言った。
藤吉郎の顔から一瞬、血の気が引いた。藤吉郎は、足軽頭の娘・おねにゾッコンで毎日のように通い、求婚しているのは噂になっていた。
「じ、冗談はよせ」
「冗談ではないぞ、今すぐにでも」
と利家が言うと、藤吉郎はすごすご引き下がっていった。
スタスタ…
藤吉郎が去った後、利家は翼に向き直った。
「無礼があったなら、お許しください」
「いえ、ありがとうございます、前田さま」
と翼は礼を言った。
「そういう前田様も新婚生活はどうですか?」
と翼が尋ねると、利家の顔が一気に赤くなった。
利家は、幼馴染で7歳年下の松という女性と結婚していた。桶狭間前にあった時は密かにドキドキしていい男だなと思っていたが、さっさと逃げられてしまった。
「そ、それは…」利家は言葉を詰まらせた。
「まつは良き妻です。料理も上手で、優しくて…」
照れる利家の姿を見て、翼は思わず微笑んだ。硬派な武将の意外な一面が垣間見えた瞬間だった。
「そうだ、軍師殿、殿がお呼びです」
「信長様が、なんだろう??」
* * *
「明後日、三河の松平元康がやってくる」
信長は、翼がくるや否やおもむろに言った。
桶狭間の戦い以降、松平元康は、今川の元を離れ独立した。その元康との会談の席に翼にも同席しろという命令だった。それだけ、信長は翼のことを信頼しているようだ。
数日後、松平元康は、信長の元を訪れた。清洲城の大広間に通された元康は、まず翼を見るために目を向けた。翼は、元康の肖像画を見たことがある。どちらかというとテップリとしたイメージがあるが、ここにいる元康は、どこか気品があり、芯が一本通っているような真面目な風貌の男だった。その端正な顔立ちは、凛とした眼差しを持つ若き大名といった感じだ。茶色の直垂に身を包み、腰には太刀を差している。一見すると控えめな印象だが、その目には並外れた知性と強さが宿っていた。
(こういう誠実そうな男は、好きだな)
と女の直感が翼を刺激した。
「ご無沙汰しております、信長様」
と元康は丁寧に頭を下げた。
「幼少期以来だな、もう何年になるかの」
と信長は穏やかな表情で応じた。
「はい、おおよそ10年になります」
元康は、もともと人質として織田家にとらわれたことがあり、その頃、信長にはよくしてもらった記憶があった。その後、元康は、今川家の人質になった。
「この女子ですか?桶狭間を勝利に導いたのは?」
元康は唐突に翼に視線を送った。透徹した目で、じっと翼を観察しているようだった。
「土御門翼という。他の陰陽師とは違った術を使う」
と信長は少し誇らしげに答えた。
「ほう、それは一度見てみたいですな」
と元康は興味深そうに言った。
「まだ早い、同盟がなってからじゃ」
と信長はやんわりとかわした。
会談は順調に進み、両者の間で今後の協力体制について話し合われた。信長と元康の間には、互いを認め合う尊敬の念が感じられた。
元康退出後、信長に元康の印象を聞かれた。
「そうですね…」
そのとき、翼のスマホが鳴った。
ピコピコ!ブルブルブル!
何か言葉に詰まった瞬間、携帯のアプリが突然激しく振動した。画面には「みずがめ座、今日の危険度MAX、身近な人物に要注意」の警告が点滅している。
(みずがめ座って、もしかして元康様?!)
翼は、知り合った武将の誕生日を登録してあった。元康のことも事前に情報を入れて、入力済みだった。
「松平様が危険です!」
思わず立ち上がる翼に、信長が鋭い眼差しを向けた。
「どういうことだ?」
「説明している時間がありません!松平様が危ないのです!」
翼は、信長に説明もせずに部屋を飛び出した。
ダダダダッ!
翼は廊下を駆けていく時、偶然、稽古が終わった利家に出会った。
「軍師殿?!」
「前田さま!一緒にきてください、急いで!」
利家は翼の切迫した表情を一瞥するだけで状況を理解し、言葉なく頷いた。二人は控えの間へと疾走した。
タッタッタッ!
重厚な扉を開くと、そこには元康と小柄な小性。小性は優雅に茶を注ぎ、元康に差し出そうとしていた。
トクトク…
「お待ちください!」
翼の声に、小性の手が一瞬震えた。細い指が茶碗を握りしめる。
「ぶ、無礼な」
小性は冷たく言い放った。
「その茶、まず貴方が飲んでみてはどうでしょう」
翼が一歩前に出る。
「客人にお出しする茶を、下賤な者が先に口をつけるわけにはいかん」
小性の言葉に違和感を覚えた元康が眉をひそめた。
「私は構いませんが…」
「飲め」
利家の声が低く響いた。
一瞬の沈黙。
突如、小性の表情が一変、手に持っていた茶碗を元康に投げつける。
ばしっ!
利家が木刀を投げつけ、茶碗をたたき落とした。
「くそっ!」
小姓は、狂気の形相で懐から短刀を取り出し、元康に飛びかかる。
「死ね、裏切り者!」
その刃が元康の首筋に届く寸前、閃光のような速さで利家の太刀が動いた。金属が空気を切り裂く音と共に、小性の腕が宙を舞った。
ブシュッ!ザクッ!
「ぐあっ!」
鮮血が畳に飛び散る。小性は苦痛に顔を歪めながらも、なお元康に向かって這いずる。
「いけして置くものか!…!」
再び利家の太刀が閃き、小性の言葉は永遠に途切れた。
ザシュッ!
「松平様、ご無事ですか」
翼が駆け寄る。
元康の顔は青ざめていたが、すぐに平常心を取り戻した。
「土御門殿、前田殿、命の恩人だ」
三人が事の成り行きを収めていると、そこへ信長が姿を現した。彼の鋭い目は小性の亡骸、床に散った毒茶、そして三人の表情を順に見渡した。
「主の知らぬ間に、我が家の者が客人に害をなそうとした。恥ずかしい限りだ」
信長の声は静かだったが、その目には怒りの炎が燃えていた。
* * *
翌日、信長は翼と利家を呼びつけた。
「昨日の件、よくやった…と言いたいところだが」
信長の表情は厳しかった。
「又左、お前が我が小性を殺したのは咎めん。だが、生かしておけば黒幕を暴けたかもしれぬ」
「しかし殿!あのまま放っておけば松平様が!」
翼が食い下がる。
「お前が止める方法は他にもあったであろう」
信長の声に冷たさが混じる。
「その場の判断とはいえ、我が家中にはまだ間者がいるやもしれぬ。一人始末したところで終わりではない」
翼は口を開こうとしたが、信長の鋭い視線に言葉を飲み込んだ。
「これが戦国よ」
信長はそう言い放ち、二人を見据えた。
「次に主の知らぬ間に動くなら、その首、覚悟せよ」
緊張が満ちた空気の中、翼と利家は深々と頭を下げた。元康の命は救ったが、戦国の世界の厳しさを思い知らされた瞬間だった。
その日のうちに、利家は、織田家から放逐された。