第8話『書かれなかった航海日誌』
週の半ば、水曜日の深夜。街は一日の疲れを癒すかのように、深い静けさに包まれていた。時折、遠くで響くサイレンの音や、大型トラックが走り去る地響きが、その静寂を破るだけで、ほとんどの営みは眠りについている。空には薄い雲がかかり、星は見えない。数日前に降った春先の冷たい雨の湿気が、まだ路面に微かに残っているようだった。
海野守は、クラウンコンフォートを走らせながら、数日前の出来事を反芻していた。あの雨の夜、古い港の待合室へと向かった女性、水野響子。彼女が口にした「汐見崎」という地名。そして、何十年ぶりかの再会に臨む彼女の、期待と不安に満ちた表情。あの後、彼女は無事に目的の人と会えたのだろうか。そして、その相手は、自分の過去と、どう繋がっているのだろうか……。
考え始めると、忘れかけていたはずの記憶の断片が、不意に蘇ってくる。荒れ狂う海、濃い霧の中で必死に鳴らした霧笛の音、助けを求める無線のかすかな声、そして、自分の力の及ばなさを痛感した、あの日の出来事……。記憶は曖昧で、靄がかかったように判然としない。だが、あの女性の出現が、固く閉ざしていたはずの記憶の扉を、少しずつ軋ませ始めているのは確かだった。語られなかったこと、記録に残されなかったこと。それらが、長い年月を経て、今、自分の前に姿を現そうとしているのだろうか。
そんな内省に沈んでいた時、繁華街から少し外れた、レトロな雰囲気の喫茶店の前に、一人の若い男性が立っているのが目に入った。時刻は午前二時を回ったところ。深夜まで営業しているその店から、ちょうど出てきたところらしい。手にはノートパソコンの入ったバッグを抱え、少し猫背気味に夜空を見上げている。ラフな格好だが、古着のジャケットや、少し個性的なデザインの眼鏡など、どこかこだわりが感じられる。考え事に没頭しているのか、タクシーが近づいていることにも気づいていない様子だった。
海野が車の存在を知らせるように、軽くヘッドライトを点滅させると、青年ははっと我に返り、慌てて手を挙げた。
乗り込んできた彼――神崎樹と名乗るその青年からは、淹れたてのコーヒーと、微かな煙草の匂いがした。年の頃は二十代後半だろうか。少し神経質そうな細い指、寝不足なのか目の下にはうっすらと隈ができている。だが、その瞳の奥には、何かを探求するような、強い好奇心の光が宿っていた。
「すみません、お願いします」
彼は、少し早口で目的地の住所を告げた。都心からは少し離れた、古くからの住宅街にあるアパートだ。その地区は、かつて文士や芸術家が多く住んでいたとも聞く。彼の雰囲気と、どこか合っているような気がした。
タクシーが走り出すと、神崎は落ち着かない様子で、窓の外を流れる景色を眺めながら、時折、ぶつぶつと独り言のような言葉を漏らした。
「違うな……もっと、こう、抉るような……リアルな……」 「ありきたりすぎる……どこかで読んだような話じゃダメだ……」
その様子は、明らかに何かに行き詰まっている人間のそれだった。
「何か、お探し物ですか?」
海野が静かに尋ねると、神崎は一瞬、きょとんとした顔をし、すぐに苦笑いを浮かべた。
「あ、いや……すみません、独り言がうるさかったですよね」彼は、少しばつが悪そうに頭を掻いた。「探し物、というか……物語、ですかね。面白い物語を探してるんです」
彼は、自分が小説家(あるいは、まだそれだけで食べていけてはいないが、小説家を目指している者)であることを明かした。そして、現在、深刻なスランプに陥っており、新しい作品の構想が全く浮かばずに苦しんでいるのだと語り始めた。
「もう何か月も、まともなものが一行も書けてなくて……。編集者からは催促されるし、自分でも焦ってるんですけど、書こうとすればするほど、陳腐なアイデアしか出てこないんです」
彼は、自嘲するように笑った。
「だから、こうして深夜の街を徘徊したり、喫茶店に籠って人間観察したりしてるんですけどね……。面白い話なんて、そう簡単には転がってないもんですね。人の心の中にある、もっと深いところの、本当のドラマみたいなものを書きたいんですけど……なかなか、見つからない」
その言葉には、創作に携わる人間の、切実な渇望と苦悩が滲んでいた。海野は、彼の言葉に静かに耳を傾けていた。自分とは全く違う世界に生きる人間の悩み。だが、何かを生み出すことの苦しみという点では、灯台守として、ただひたすらに光を守り続けるという行為の中にも、通じるものがあったのかもしれない、とふと思った。
「人の心の中、ですか」海野は、呟くように言った。「それは、深い海の底のようなものかもしれませんね。普段は見えないけれど、そこには様々な思いや記憶が、静かに堆積している」
「海の底……ですか」神崎は、その比喩に興味を示したようだった。「確かに、そうかもしれませんね。普段、表に出ているのは、ほんの一部で……」
「昔、海のそばで働いていたことがありまして」海野は、ごく自然に、そう口にした。特に意識したわけではなかったが、目の前の青年の「物語」への渇望が、彼自身の記憶の扉を、少しだけ開かせたのかもしれない。
その言葉を聞いた瞬間、神崎の目の色が変わった。彼は、身を乗り出すようにして、海野に問いかけた。
「海のそばで働いてたって……え、もしかして、船乗りとかですか?」
「いえ……灯台です。灯台守をしておりました」
「灯台守!?」神崎の声が、興奮で上擦った。「あの、海のそばの塔に、一人で住んで……光を灯し続けるっていう……? うわ、すごい! 現代にもまだ、そんな職業があったんですね! いや、もう、今は自動化されてるんでしたっけ?」
彼の反応は、海野の予想を超えて、熱烈なものだった。まるで、伝説上の生き物にでも出会ったかのような、驚きと興奮。
「はい、私が辞める少し前から、ほとんどの灯台は自動化され、無人になりました」
「そうなんですか……。でも、あなたがいた頃は、まだ人がいたんですね? どんな生活だったんですか? やっぱり、孤独なんですか? 嵐の夜とか、怖くなかったですか? 何か、こう、不思議な体験とか……例えば、幽霊船を見たとか!」
矢継ぎ早に繰り出される質問に、海野は少し戸惑いながらも、彼の純粋な好奇心と、物語への飢餓感のようなものに、悪い気はしなかった。むしろ、忘れかけていた過去の記憶が、誰かの心をこれほどまでに動かすという事実に、一種の新鮮な驚きを感じていた。
「まあ、幽霊船は見たことはありませんが……」海野は、苦笑しながら、少しずつ語り始めた。「孤独かと聞かれれば、確かに孤独でした。特に、冬場は何日も人と顔を合わせないこともありましたから。でも、孤独に慣れるというよりは、孤独とどう付き合うかを学ぶ、という感じでしたかね」
彼は、灯台での単調な日常、厳しい自然との対峙、そして、その中で見出したささやかな喜びについて、断片的に語った。水平線から昇る朝日の荘厳さ、満天の星空の美しさ、遠くに見える船の灯りが与えてくれる安心感、そして、時折、無線で交わす船乗りたちとの短い会話……。
「嵐の夜は、確かに怖いですよ。建物全体が揺さぶられ、窓ガラスが割れんばかりに風雨が打ち付ける。そんな中で、灯りが消えはしないか、機械は正常に動いているか、絶えず気を配らなければならない。眠れない夜も、何度もありました」
海野の話は、飾り気のない、淡々としたものだった。だが、その言葉の端々には、実際にその場で生きた者だけが持つことのできる、確かな実感が込められていた。神崎は、目を輝かせ、食い入るように海野の話に聞き入り、時折、興奮した様子でメモ帳に何かを書きつけている。
「すごい……想像以上です……」神崎は、感嘆の息を漏らした。「なんていうか、現代に残された、神話の世界みたいだ……」
「神話、というほど大袈裟なものではありませんよ。ただの、地味な仕事です」
「いやいや、そんなことないです!」神崎は、熱っぽく反論した。「その孤独、自然との対峙、そして、暗闇の中で光を守り続けるという使命感……。そこには、現代人が失ってしまった、根源的な物語がある気がします!」
彼は、さらに深く、海野の経験について質問を続けた。灯台守になる前のこと、辞めた後のこと、そして、最も印象に残っている出来事など。海野は、答えられる範囲で、しかし慎重に言葉を選びながら、彼の問いに答えていった。
語るうちに、海野自身も、過去の記憶を新たな視点で見つめ直しているような感覚を覚えていた。これまで、ただ個人的な経験として胸の内にしまい込んできた出来事が、この若い小説家の熱意を通して、普遍的な「物語」としての輪郭を帯びてくるかのようだ。数日前の響子のこと、そして、それに連なるであろう汐見崎での過去の出来事もまた、一つの物語として捉え直すことができるのかもしれない。語られずにきた真実は、誰かがそれを「物語」として紡ぎ出すことで、初めて意味を持つのかもしれない……。
「あの……不躾なお願いなのは承知の上なんですが……」神崎は、意を決したように切り出した。「今の話……もし、差し支えなければ、僕の小説の題材にさせていただけませんか? もちろん、プライバシーに関わる部分は変えますし、ご迷惑はおかけしませんから!」
彼の目は、真剣そのものだった。創作への渇望が、彼を突き動かしているのがわかる。
海野は、少しの間、黙って考えた。自分の過去が、物語として他者の手に委ねられることへの、一抹の戸惑い。しかし、同時に、語られずに消えていくであろう無数の記憶や出来事を、誰かが拾い上げ、形にしてくれることへの、微かな期待感のようなものも感じていた。
「……私の話が、あなたのような若い方の創作の、何かのきっかけになるというのなら」海野は、静かに言った。「それは、光栄なことかもしれません」
「本当ですか!?」神崎は、顔を輝かせた。「ありがとうございます! 絶対に、良い作品にします!」
「ただし」海野は付け加えた。「私は、全てを話したわけではありません。語られなかったこと、記録に残されなかった航海日誌のようなものが、人の記憶の中には、たくさんあるものです」
その言葉は、神崎に向けられたものであると同時に、海野自身の心にも響いていた。自分の記憶の中にも、まだ語られていない、あるいは語ることのできない「書かれなかった航海日誌」があるのだ。
「……はい。肝に銘じます」神崎は、真剣な表情で頷いた。
車は、目的地の古いアパートが立ち並ぶ、静かな住宅街へと入っていた。
アパートの前で車が停まると、神崎は興奮冷めやらぬ様子で、料金を支払いながら、再び海野に礼を言った。
「今日は、本当にありがとうございました! 何か、こう、目の前が開けたような気がします!」「もし、また何か思い出したら……いや、もし気が向いたらで結構ですので、ご連絡いただけませんか?」
彼は、そう言って自分の名刺を差し出そうとした。
「いえ、結構です」海野は、静かにそれを制した。「私は、ただのタクシードライバーですから」
そして、付け加えた。
「小説、頑張ってください。あなたの物語を、楽しみにしています」
「……はい! 必ず!」
神崎は、力強く頷くと、何か新しいエネルギーを得たかのように、足早にアパートの中へと駆け込んでいった。
彼を見送りながら、海野は、自分の過去が「物語」という形で、誰かの未来へと繋がっていく可能性に、不思議な感慨を覚えていた。語られなかった記憶、書かれなかった日誌。それらが、誰かの想像力の中で新たな命を得て、別の形で世界に現れる。それは、ある意味で、記憶の継承と言えるのかもしれない。
自分の心の奥底に眠る、あの汐見崎での出来事もまた、いつか誰かに語られ、物語として紡がれる日が来るのだろうか。あるいは、自分自身の手で、その「書かれなかった航海日誌」を、紐解かなければならない時が来るのだろうか。
タクシーを再び走らせる。夜はまだ明けきらない。だが、東の空は、確実に白み始めていた。過去と現在、そして未来へと続く、見えない航路。車内の灯台模型が、その行く先を、静かに、しかし力強く照らし出しているように、海野には思えた。