第7話『再会の波止場』
週が明けたばかりの月曜日の深夜。日曜までの喧騒が嘘のように、街は深い静寂に包まれていた。アスファルトには、しとしとと降り始めた春先の冷たい雨の筋が、街灯の光を頼りなく反射している。車の往来も少なく、タクシーのタイヤが濡れた路面を滑る音だけが、やけに大きく聞こえる夜だった。
海野守は、ステアリングを握る手に意識を集中させながら、ワイパーの規則的な動きを見つめていた。雨の夜の運転は、視界が悪くなり、神経を使う。灯台守だった頃も、悪天候の夜は気が抜けなかった。激しい雨風が灯台の壁を打ち、視界不良の中で、沖合を行く船の安全をただひたすら祈る。遠くで響く霧笛の音だけが、暗闇の中の心細さを慰めてくれることもあった。過去の記憶は、こんな雨の夜に、不意に蘇ってくることがある。時間の経過は、記憶を風化させると同時に、予期せぬ形で現在と結びつけることもあるのかもしれない。
そんなことを考えていると、都心にある、少し格式の高そうなホテルのエントランス近くで、傘を差して佇む一人の女性の姿が目に入った。年の頃は五十代前半だろうか。落ち着いた色合いの上質なコートを着こなし、きちんとした身なりをしている。だが、その佇まいはどこか落ち着かず、時折、手に持った携帯電話の画面を確認しては、小さくため息をついている。タクシーを探しているようだった。
海野がゆっくりと車を寄せると、女性は安堵したような表情を見せ、軽く会釈をして乗り込んできた。ドアが閉まると、雨に濡れたコートの湿った匂いと、ほのかに上品な香水の香りが、静かな車内に漂った。
「どちらまでお送りしましょうか」
海野が尋ねると、女性――水野響子と名乗った――は、少しだけ躊躇うような間を置いてから、目的地の名前を告げた。それは、都心から少し離れた、古い港にある待合室の名前だった。かつては離島への定期船などが発着し、賑わいを見せていた時代もあったが、今はもうその役割を終え、訪れる人もほとんどいない、寂れた場所のはずだ。こんな時間に、なぜわざわざそんな場所へ? 海野は内心で少し訝しんだが、表情には出さず、ただ「承知しました」とだけ答えた。
タクシーが走り出すと、車内には雨音が単調に響き始めた。ワイパーがフロントガラスの水滴を拭う音と、タイヤが水を切る音。響子は、後部座席で固くなっているようだった。膝の上に置いたハンドバッグを、時折、ぎゅっと握りしめている。窓の外を流れる雨に濡れた街並みを眺めているかと思えば、また携帯電話の画面を点灯させ、何かを確認するように見つめている。明らかに、強い緊張と不安の中にいることが窺えた。
「何か、大切なご用事ですか? ずいぶん、緊張なさっているご様子ですが」
海野は、あくまで事務的な口調を装いながら、静かに尋ねた。彼の声には、相手の警戒心を解き、心を少し開かせるような、不思議な響きがあったのかもしれない。響子は、びくりと肩を揺らしたが、やがて、意を決したように、ぽつりぽつりと話し始めた。
「ええ……これから、人に、会うことになっているんです。とても……とても、久しぶりに」
その声は、緊張で少し震えていた。
「何十年ぶり……でしょうか。若い頃に……いえ、子供の頃と言った方がいいかもしれません。そのくらい昔に、とても、大切な……関わりのあった人なんです」
彼女は言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。相手とは、ある出来事がきっかけで、突然離ればなれになってしまったこと。それ以来、一度も連絡を取ることはなく、相手が今どこでどうしているのかも、全く知らなかったこと。それが、ほんの数週間前、共通の知人を介して、偶然、相手がまだ生きていて、この近くにいるらしいということを知ったのだという。
「それで……思い切って、手紙を書いたんです。もし、迷惑でなければ、一度だけでも会っていただけないかと。そうしたら、数日前に、返事が……。『今夜、あの場所で待つ』と、短いメッセージだけが」
「あの場所」というのが、これから向かう古い港の待合室なのだろう。そこは、かつて二人が別れた場所なのか、あるいは、何か特別な思い出のある場所なのかもしれない。
「嬉しいはずなのに……正直、怖いんです」響子の声は、さらに小さくなった。「何十年も経っているんですもの。お互い、すっかり変わってしまっているでしょうし……。私のことなんて、もう覚えていないかもしれない。それに、もし会えたとして、何を話せばいいのか……。もしかしたら、会わない方が、お互いのためだったのかもしれない、なんて……そんなことばかり考えてしまって」
再会への微かな期待と、それ以上に大きな不安。時間の経過がもたらした隔たりへの恐れ。彼女の揺れ動く心情が、痛いほど伝わってくる。海野は、黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
響子は、さらに、会う相手の人物像について、断片的に語り始めた。若い頃は、少し無鉄砲なところもあったけれど、根はとても優しく、海が好きで、いつか船乗りになりたいと話していたこと。そして……。
「彼は……昔、海の近くに……そう、たしか、汐見崎とかいう名前の岬の近くに、しばらくいた時期があると、人から聞いたことがあるんです。灯台があったとか……」
その地名を聞いた瞬間、海野の心臓が、小さく、しかし確かに波打った。汐見崎――それは、彼が二十年以上もの歳月を過ごした、あの灯台のある岬の名前だった。偶然だろうか? それとも……。
海野は、平静を装いながらも、内心の動揺を抑えるのに苦労した。バックミラー越しに見える響子の横顔。上品な佇まいの中に、どこか懐かしい面影があるような気がする。だが、思い出せない。自分の記憶の中の、誰かと結びつかない。しかし、汐見崎という地名が、彼の心の奥底に眠っていた、何か重い記憶の蓋を、こじ開けようとしているかのようだった。
彼女が会おうとしている相手は、一体誰なのか? 自分が灯台守だった時代に、何か関わりがあった人物なのだろうか? 事故、事件、あるいは、もっと個人的な、忘れかけていた出来事……。様々な可能性が、海野の頭の中を駆け巡る。だが、どれも確信には至らない。記憶は、時間の霧の中に霞んで、判然としなかった。
「記憶というのは、不思議なものですね」海野は、努めて落ち着いた声で言った。「時間が経つと、薄れていく部分もあれば、逆に、些細なことが妙に鮮明に思い出されたりもする。同じ出来事でも、人によって記憶のされ方が全く違うこともあります」
「……そう、かもしれませんね」響子は、同意するように頷いた。
「私がいた灯台から見える景色も、毎日、少しずつ変わっていきました」海野は続けた。「海岸線の形、砂浜の色、遠くに見える漁村の家並み……。十年、二十年と経つうちに、すっかり様変わりしてしまう。人の記憶も、それと同じなのかもしれません。時間を経て、少しずつ形を変えていく」
「……私たちは、どう変わってしまったんでしょうね」響子は、不安そうに呟いた。
「変わらないものも、きっとあるはずですよ」海野は静かに言った。「心の奥底にある、大切な想いのようなものは、時間が経っても、簡単には消えないのではないでしょうか」
彼の言葉は、響子の心を少しだけ軽くしたようだった。彼女は、ふっと息を吐き、窓の外に目を向けた。タクシーは、いつしか都心部を抜け、古い港へと続く道を走っていた。雨は、先ほどよりも少し小降りになっている。街灯の少ない道沿いには、古い倉庫や、今は使われていないような工場が、闇の中に静かに佇んでいた。
目的地の待合室が近づくにつれて、響子の緊張は再び高まってきたようだった。彼女は、ハンドバッグを握りしめ、浅い呼吸を繰り返している。
「もし……もし、彼が来ていなかったら……」 「もし、会って……がっかりさせてしまったら……」
不安な言葉が、彼女の口から次々と漏れる。
「船も」海野は、静かな声で言った。「嵐の中、目的の港へ向かう時、途中で引き返そうか、このまま進むべきか、迷うことがあるかもしれません」
「……」
「ですが、今は、まず約束の場所へ向かうことだけを考えられてはいかがですか。着いてから、どうするかを決めても、遅くはありません」
その落ち着いた、しかし確かな力を持つ言葉に、響子は少しだけ、自分を取り戻したようだった。
「……そう、ですね。ありがとうございます、運転手さん」
彼女は、海野に向かって、微かに微笑んだ。そして、その目に、何か特別なものを感じ取ったかのような、不思議な表情を浮かべた。
やがて、タクシーは、古びた港の待合室の前に到着した。二階建ての小さな建物は、コンクリートの壁が黒ずみ、窓には錆びた鉄格子がはまっている。入り口のドアの上に、かろうじて「待合室」という古い看板が残っているが、文字は掠れて読みにくい。周囲には人気がなく、ただ、打ち付ける雨音と、遠くで響く汽笛のような音だけが聞こえる。待合室の中には、薄暗い裸電球の明かりが一つ灯っているのが見えたが、人の気配は感じられなかった。
「着きましたよ」
海野が告げると、響子は、まるで宣告を受けたかのように、びくりと体を震わせた。
「……はい」
彼女は、震える手で財布を取り出し、料金を支払った。その指先は、氷のように冷たくなっている。
「ありがとうございました」
消え入りそうな声でそう言うと、彼女は意を決したように、車のドアを開けた。降りしきる雨の中に、傘を差して立つ。そして、一度だけ、タクシーの中にいる海野の方を振り返った。その目には、期待と不安、そして、何か運命的なものに導かれているかのような、複雑な光が宿っていた。
彼女は、深く一礼すると、待合室の古びた木の扉に向かって、ゆっくりと歩き出した。その一歩一歩が、とても重く感じられた。彼女が扉に手をかけ、ゆっくりとそれを開ける。中から、薄暗い光が漏れ出した。彼女は、一瞬ためらうように立ち止まったが、やがて、意を決したように、その中へと姿を消した。扉が、重い音を立てて閉まる。中の様子は、もう窺い知ることはできない。
海野は、すぐにはタクシーを発進させることができなかった。しばらくの間、彼は、ただじっと、雨に打たれる待合室を見つめていた。あの扉の向こうで、今、何が起こっているのだろうか。響子は、会いたかった人物に、無事、会うことができたのだろうか。そして、その人物は……。
言いようのない不安と、そして、自分の過去に繋がるかもしれないという、不吉な予感のようなものが、海野の心を重く覆っていた。汐見崎、何十年ぶりの再会、古い港の待合室……。断片的なキーワードが、彼の頭の中を巡り、忘れかけていた記憶の扉を、少しずつこじ開けようとしている。
この出会いは、偶然ではないのかもしれない。止まっていた自分の時間が、再び動き出すきっかけになるのかもしれない。そんな予感が、彼の胸を騒がせた。
雨が、再び勢いを増してきた。ワイパーが、せわしなくフロントガラスの水滴を拭い去る。海野は、深呼吸を一つすると、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
車内の、ダッシュボードの上に置かれた真鍮の灯台模型が、行く先の暗闇を静かに照らしている。それはまるで、これから海野を待ち受ける、過去との対峙という名の、新たな航海の始まりを告げているかのようだった。