第6話『十二月の幻』
十二月二十四日、クリスマス・イブの夜が、その最も深い時間へと沈んでいく。ほんの数時間前まで、街はイルミネーションの光と、プレゼントを抱えた人々、そして恋人たちの楽しげな声で溢れかえっていたはずだ。しかし、午前一時を過ぎた今、その喧騒は急速に潮が引くように消え去り、後に残されたのは、きらびやかな装飾だけが虚しく輝く、しんと冷え込んだ静寂だった。吐く息は白く、夜空は冬特有の硬質な藍色に澄んでいる。
海野守は、クラウンコンフォートを走らせながら、フロントガラス越しに、まだ消灯されずに残る街路樹のイルミネーションを眺めていた。色とりどりの小さな光が、冷たいガラスの上で瞬いている。綺麗だとは思う。だが同時に、その人工的な明るさが、かえって夜の孤独を際立たせるようにも感じられた。灯台守だった頃の冬は、厳しかった。容赦なく吹き付ける雪混じりの強風、全てを凍てつかせるような寒さ。そして、何よりも深い孤独。クリスマスのような特別な夜は、特に、遠く離れた家族への想いが募ったものだ。ランプの灯りの下で、一人、熱いコーヒーを啜りながら、海の向こうの温かな食卓を想像した夜が、何度あったことだろうか。
ふと、大通りから一本入った、少し薄暗い通りに差し掛かった時、海野は思わずアクセルを緩めた。歩道脇のバス停のベンチに、サンタクロースの格好をした老人が、大きな白い袋を傍らに置いて、寒そうに座っていたからだ。その姿は、周囲の冬景色や、まだ残るクリスマスの華やかさとはあまりにも不釣り合いで、まるで時代に取り残された幻灯の絵のように、物悲しく見えた。
赤い衣装は、よく見ると生地が擦り切れ、染みのようなものも見える。白い豊かな顎鬚も、よく見れば安物の付け髭で、少しずれて曲がっている。年の頃は六十代後半だろうか。小柄で、猫背気味のその背中からは、深い疲労と、そしてそれだけではない、何か別の種類の重荷のようなものが感じられた。
海野は、ゆっくりとタクシーをその前に寄せた。音もなく近づいてきた車に、老人は驚いたように顔を上げた。そして、それがタクシーだと分かると、凍えた手で、ほっとしたように合図を送った。
自動ドアが開き、老人が乗り込んでくる。車内には、ひんやりとした外気とともに、安酒の匂いが微かに漂った。
「いやあ、助かったよ。もう凍えちまうかと思った」
しゃがれた、しかしどこか人の良さそうな声だった。老人は、傍らに置いていた大きな白い袋を、よいしょ、と後部座席に引き入れた。プレゼントが詰まっているにしては、袋の形がいびつで、重さもあまりなさそうだ。
「どちらまでお送りしましょうか」
海野が尋ねると、老人は目的地の住所を告げた。都心からかなり離れた、郊外にある古いアパートだ。
「施設の近くまで、知り合いに送ってもらった帰りなんだがね。そいつが急用ができちまって、途中で降ろされちまってさ」老人は、独り言のようにつぶやいた。「まあ、仕方ないわな」
タクシーが静かに走り出すと、車内の暖房の温かさに、老人はほっとしたように息をついた。そして、自分の着ているサンタクロースの衣装を、少し照れたように見下ろした。
「その格好で、何かイベントでもあったのですか?」
海野が尋ねると、老人は少しはにかんだような、それでいて寂しそうな複雑な笑みを浮かべた。
「いやいや、イベントなんて、そんな大層なもんじゃないよ」彼は、かぶりを振った。「毎年、やってることでね。まあ、わしの勝手な酔狂みたいなもんだ」
老人は、吉岡誠一と名乗った。彼は、毎年クリスマスイブの夜になると、こうしてサンタクロースの衣装を身にまとい、郊外にある児童養護施設に、ささやかな「届け物」をしているのだという。
「プレゼント、なんて呼べるような立派なものじゃないんだ」吉岡は、後部座席の白い袋を撫でながら言った。「古着とか、まだ使えるおもちゃとか、日用品の残りとか……まあ、わしが集められる範囲のもんを、ちょこちょこっとね。施設の子供たちにとっては、ゴミみたいなもかもしれんが」
「いえ、そんなことはないでしょう。きっと喜ばれていると思いますよ」海野は静かに言った。
「だと、いいんだがねぇ……」吉岡は、力なく笑った。「なんでサンタの格好なんかしてるのかって? そりゃあ……まあ、あれだ。少しでも、子供たちに夢を見せてあげたい、なんて言ったらおこがましいかな。本当は、違うのかもしれん。わし自身の、自己満足なのかもな」
その言葉には、深い諦念と、そして自分自身への問いかけのような響きがあった。彼の目には、楽しいはずの聖夜に似つかわしくない、暗い影が宿っている。
「ただね……」吉岡は、言葉を探すように、しばらく黙り込んだ。「こうでもしないと、なんだか……自分が自分でなくなっちまうような気がしてね」
彼は、重い口を開き、自身の過去について、ぽつりぽつりと語り始めた。それは、後悔と懺悔に満ちた、痛切な告白だった。
若い頃、彼は小さな町工場を経営していたという。仕事一筋で、朝から晩まで働き詰め。家庭のことは、ほとんど妻に任せきりだった。一人息子がいたが、その成長をそばで見守ってやることも、父親らしいことをしてやることも、ほとんどできなかった。
「気がつけば、仕事はそこそこ軌道に乗っていたが、家庭は冷え切っていたよ。妻とは会話もなくなり、息子はすっかり懐かなくなっていた。それでもわしは、仕事さえしていれば、いつか分かってくれるだろうなんて、馬鹿なことを考えていたんだ」
転機が訪れたのは、彼が五十代半ばの頃。無理な投資が失敗し、工場は多額の借金を抱え、倒産寸前に追い込まれた。彼は必死で金策に走り回ったが、どうにもならず、ついには手を出してはいけない金にまで手を出してしまったらしい。その詳細は語られなかったが、それが原因で、彼は全てを失った。会社も、家も、そして、最後まで彼を見捨てずについてきてくれた妻さえも、心労がたたって病に倒れ、亡くしてしまったという。
「息子には、勘当同然で縁を切られたよ。『あんたみたいな親父は、もういらない』ってな。まあ、当然だわな。わしが全部、壊しちまったんだから」
彼の声は、淡々としていたが、その奥には、骨身に染みるような深い後悔が刻まれているのが分かった。
「それからずっと、わしは一人だよ。借金は、なんとか細々と働きながら返してきたが、失ったものは、もう二度と戻ってこない。息子がどこでどうしているのかも、知らねぇ。孫がいるのかどうかも……」
吉岡は、窓の外に目をやった。通り過ぎる家々の窓には、クリスマスの飾り付けや、温かな家族団欒の灯りが見える。それらは、彼にとって、あまりにも遠い世界の光景だった。
「このサンタの格好はね……」彼は、自分の赤い服の袖を、ぎゅっと握りしめた。「わしなりの、償いなんだよ。息子にしてやれなかったこと、孫にしてやれるかもしれなかったこと……それを、見ず知らずの子供たちに、勝手に押し付けてるだけかもしれん。偽善者だって言われても、仕方ないわな」
「……」
「こんなことしても、過去は消えねぇし、息子が許してくれるわけでもねぇ。わかってるんだ。わかってはいるんだが……それでも、何もしないでいるよりは、マシな気がしてね。クリスマスの夜くらい、誰かの役に立っているような、そんな幻でも見ていないと、やってられないんだよ」
彼の痛切な告白に、海野は静かに耳を傾けていた。人間の犯す過ち、取り返しのつかない後悔、そして、それでも何かをせずにはいられない、複雑な心の動き。海野自身、灯台守時代に、自分の力の及ばなさや、救えなかった命に対する無力感を、幾度となく味わってきた。その経験が、目の前の老人の深い苦悩に、静かな共感を寄せさせていた。
誰かのために灯りを灯すこと。その行為の意味は、灯す側だけで決まるものではないのかもしれない。たとえそれが、自己満足や償いの気持ちから始まったものであっても、その光が、暗闇の中で誰かの心を照らすことがあるのなら、それは決して無意味ではないはずだ。
「施設の子供たちは、喜んでくれるんですか?」海野は、静かに尋ねた。
その問いに、吉岡の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「さあ、どうだかねぇ」彼は、照れたように笑った。「わしは、直接子供たちには会わねぇんだ。こっそり玄関先に荷物を置いて、すぐに帰るだけだから。迷惑かもしれねぇとも思うんだが……それでも、施設の人たちは、毎年『ありがとうございます』って言って受け取ってくれるよ」
「去年、こっそり様子を窺ってたら、一人の小さな女の子が、わしが置いていった古びたクマのぬいぐるみを見つけて、『サンタさんが来た!』って、飛び上がって喜んでたんだ」吉岡の目に、一瞬、温かい光が宿った。「あれを見た時は……なんだか、涙が止まらなくなっちまってね。嬉しかったんだか、情けなかったんだか……」
その一瞬の笑顔が、彼の行動の根源にある、純粋な想いを物語っているように思えた。たとえ歪んだ形であっても、誰かを喜ばせたい、誰かの役に立ちたいという願い。
「でもね」彼の表情は、すぐにまた曇った。「家に帰って、この格好を脱いだら、わしはただの寂しい爺さんだよ。狭いアパートで、一人で冷えた飯を食って、テレビを見るだけ。誰も訪ねてくる人もいねぇ。そんな現実が待ってるだけだ」
深い孤独感が、彼の言葉の端々から滲み出ていた。聖夜の華やかさとは裏腹の、厳しい現実。
「あなたが届けたものが」海野は、静かに言った。「誰かの寒い夜を、温めているのかもしれませんよ。あのクマのぬいぐるみが、小さな女の子の心を慰めたように」
「……そうだと、いいんだがね」
「サンタクロースがいると信じる子供たちの心は、あなたが守っているのかもしれません。たとえ、それが幻だとしても、人は時に、幻を信じることで、現実を生きる力を得られるものです」
海野の声は、静かで、しかし確かな響きを持っていた。
「灯台の光も、ある意味では幻のようなものかもしれません。ただの機械的な光の点滅に、船乗りたちは様々な希望や意味を見出す。でも、その幻が、実際に彼らを救うことがあるんです」
「……」
「あなたのしていることが、自己満足なのか、償いなのか、それは私にはわかりません。でも、その行為が、誰かの心に温かい灯りを灯しているのなら、それは決して、無駄なことではないと思いますよ」
吉岡は、黙って海野の言葉を聞いていた。彼の目には、戸惑いと、そしてほんの少しの救いが浮かんでいるように見えた。
やがて、タクシーは目的地の古いアパートの前に到着した。クリスマスイブだというのに、飾り付け一つなく、ひっそりと静まり返っている。いくつかの窓からは明かりが漏れているが、楽しげな雰囲気は感じられない。
「着きましたよ」
「おう、どうもすまなかったねぇ」
吉岡は、料金を支払いながら、力なく笑った。
「爺さんの繰り言に、長々と付き合わせちまって。運転手さんには、つまらねぇイブの夜になっちまったな」
「いいえ、そんなことはありません」海野は静かに答えた。
「そうかい?」吉岡は、少しだけ安心したような顔をした。「まあ、なんだ……少しだけ、気が晴れたよ。ありがとう、運転手さん」
彼は、後部座席から大きな白い袋をよいしょ、と引きずり出した。そして、サンタの衣装の裾を気にしながら、少しよろけながらも、アパートの入り口へと向かった。その背中は、やはりどこまでも小さく、寂しげに見えた。クリスマスの赤い衣装が、彼の孤独を一層際立たせているかのようだった。
海野は、彼がアパートの中に消えていくのを見届けてから、静かに車を発進させた。
クリスマスイブの夜に、サンタクロースの格好をして寄付を続ける老人。彼の背負った過去の重荷、癒えることのない後悔、そして、償いを求める心。人間の心の奥底にある、光と影、善意とエゴイズムの複雑な絡み合い。誰もが、程度の差こそあれ、心の中に、それぞれの「聖夜」と、そして背負うべき「十字架」を抱えて生きているのかもしれない。
海野は、冬の夜空を見上げた。星々は、凍てつくような空気の中で、鋭く輝いている。あの老人の人生にも、いつか、静かな赦しと、温かな光が訪れる日が来るのだろうか。
車内のラジオからは、賛美歌が静かに流れていた。ダッシュボードの上の、真鍮の灯台模型が、フロントガラスに映る街のイルミネーションの最後の名残を受けて、控えめに、しかし確かに輝いていた。それはまるで、どんなに深い後悔や孤独の中にあっても、人の心には、他者を想う小さな灯りが宿っているのだと、静かに語りかけているかのようだった。