第5話『異国のラジオ』
午前三時過ぎ。街は深い眠りの底に沈んでいた。ほとんどの家の窓は暗く閉ざされ、通りを走る車の数もめっきり減っている。しかし、この大都会の眠らない細胞のように、夜通し活動を続ける場所もある。高層ビルの建設現場、巨大な物流倉庫、そして、それらを繋ぐ道路の補修工事現場。煌々と照らされたライトの下で、人々の営みは夜明けを待たずに続けられている。
海野守は、クラウンコンフォートをゆっくりと走らせながら、車窓から見える建設現場の明かりを眺めていた。巨大なクレーンが夜空にそびえ立ち、溶接の火花が時折、闇の中に閃く。あの中で、今も多くの人々が汗を流しているのだろう。故郷の汐見崎灯台から、遠く水平線の彼方に見えた外国船の灯りを思い出す。言葉も、肌の色も、文化も違う人々が、同じ広大な海のうねりの中で、それぞれの人生を航海している。その事実を思うと、不思議な感慨が胸に広がった。
巨大な再開発工事現場のゲート近くを通りかかった時、一人の男性が、タクシーが来るのを待っているかのように、ぽつんと立っているのが見えた。年の頃は三十代くらいだろうか。着慣れた作業着は土と汗で汚れ、小脇に抱えたヘルメットには無数の傷がついている。顔には深い疲労の色が浮かび、うつむき加減のその姿からは、長い夜勤の過酷さが窺えた。アジア系の顔立ちをしているように見える。
海野がゆっくりとタクシーを寄せると、男性は少し驚いたように顔を上げた。そして、海野のタクシーだと分かると、どこか遠慮がちに、しかし安堵したような表情で、そっと右手を挙げた。
自動ドアが開き、男性が乗り込んでくる。車内には、汗と土埃、そして微かに機械油のような匂いが漂った。
「どちらまでお送りしましょうか」
海野が尋ねると、男性は少し辿々しい日本語で答えた。
「エート……ココ、オネガイシマス」
そう言って、彼は作業着のポケットから、くしゃくしゃになった一枚の紙切れを取り出して見せた。そこには、カタカナとアルファベットで、古いアパートメントの名前と住所が書かれている。海野はその地名に聞き覚えがあった。都心から少し離れた、比較的家賃の安い地区で、近年、多くの外国人労働者が暮らしていると聞く場所だ。
「承知しました」
海野は頷き、カーナビに住所を入力した。男性――後にアリ・ラフマンと名乗る彼は、ほっとしたように息をつくと、後部座席のシートに深く体を沈めた。
タクシーが走り出すと、アリはよほど疲れているのか、すぐに目を閉じてしまった。規則正しい寝息が聞こえてくるわけではないが、全身の力が抜け、深い疲労の中に沈み込んでいる様子が伝わってくる。海野は、彼を起こさないように、いつも以上に静かに車を走らせた。
車内のラジオからは、深夜放送の静かなクラシック音楽が微かに流れていた。ショパンのノクターン。月の光が降り注ぐ水面のように、穏やかで、どこか切ない旋律が、疲れた心を優しく包み込むかのようだ。
しばらく走った頃だろうか。アリが、ふと身じろぎをして、ゆっくりと目を開けた。そして、窓の外を流れる景色を、ぼんやりとした目で眺め始めた。深夜の街並みは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、街灯の光だけが、人気のない道を照らしている。
「……ニホン、キレイデスネ」
アリが、ぽつりと呟いた。それは、独り言のようでもあり、海野に語りかけているようでもあった。
「デモ……ツカレマス」
その言葉には、実感のこもった重みがあった。海野は、バックミラー越しに彼を見た。
「お仕事、大変ですね。夜通しだったのですか?」
「ハイ。マイバン、オナジ。アサまで」アリは、少しだけ微笑んだが、その目には深い疲れが宿っていた。「コウジ、イソガシイ。デモ、ニホンゴ、ムズカシイ。ミンナ、ハヤイ……」
片言の日本語で、彼は建設現場での過酷な労働について語り始めた。重い資材を運び、危険な高所での作業もあるという。言葉の壁は厚く、指示を正確に理解するのも、自分の意思を伝えるのも、一苦労だという。周りの日本人作業員たちは親切にしてくれる人もいるが、忙しさの中で、彼の辿々しい日本語に耳を傾ける余裕がない時もあるのだろう。異国で働くことの厳しさ、そして、言葉が通じないことによる深い孤独感が、彼の言葉の端々から滲み出ていた。
海野は、ただ静かに耳を傾けていた。彼が言葉を探して詰まる時には、急かさずに待ち、分かりにくい表現は、ゆっくりと別の言葉で言い換えて尋ねる。その丁寧な対応に、アリも少しずつ心を開いていくようだった。
ふと、アリが自分のスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで操作を始めた。すると、車内に、先ほどまでのクラシック音楽とは全く違う、陽気でリズミカルな音楽と、早口でまくし立てるような異国の言葉のDJの声が、小さな音量で流れ始めた。インターネットラジオのようだ。
「ア……コレ、クニのラジオ」アリは、少し照れたように、はにかんだ。「バングラデシュ。ワタシのクニ」
「バングラデシュですか。良い音楽ですね」海野は、興味深そうに言った。
「ハイ。マイバン、コレ、キキマス」アリは、スマートフォンの画面を愛おしそうに見つめた。「コレ聞くと……カゾクの声、キコエルみたい」
彼は、スマートフォンの写真フォルダを開き、海野に見せてくれた。そこには、サリーを纏った美しい女性と、大きな瞳をした二人の幼い子供たちが、満面の笑みで写っていた。
「カナイと、ムスコ、ムスメ」アリは、目を細めて写真を見つめる。「カワイイデショ?」
「ええ、とても可愛らしいお子さんたちですね。奥さんもお綺麗だ」
「ハイ」アリは、誇らしそうに頷いた。「みんな、ワタシ、マッテル。ワタシ、ガンバル。ミンナのため」
彼は、故郷に残してきた家族の話をし始めた。貧しい村の出身であること。家族にもっと楽な暮らしをさせてあげたい一心で、借金をして日本へ働きに来たこと。毎月、稼いだお金のほとんどを故郷へ送金していること。子供たちの成長を、写真やビデオ通話でしか見られないことが、何よりも辛いこと……。
彼の語る言葉は、片言ではあったが、そこには家族への深く、強い愛情と、故郷への尽きせぬ想いが溢れていた。その純粋でひたむきな想いに、海野は心を打たれた。金銭的な豊かさだけではない、家族という存在が持つ、かけがえのない価値。それは、国や文化が違っても、何一つ変わらない普遍的なものなのだろう。
「私も」海野は、静かに語り始めた。「灯台にいた頃は、家族と離れて暮らしておりました。海を隔てた向こうに、帰りを待つ人がいる。その想いが支えであり、同時に、会えない時間が長く続くと、寂しさが募るものです」
アリは、海野の言葉に、驚いたように顔を上げた。
「遠く離れていても、心は繋がっているものですよ。あなたがご家族を想うように、ご家族もまた、遠い日本の空の下で頑張っているあなたのことを、きっと毎日想っているはずです」
「……ソウデスカ?」アリの目に、わずかに潤みが浮かんだように見えた。
「ええ」海野は頷いた。「灯台から、時折、外国の船と交信することがありました。モールス信号や、国際信号旗を使って。言葉は直接通じなくても、互いの船の無事を祈ったり、天候の情報を交換したり……。不思議なものですが、言葉が通じなくても、相手の存在を感じ、心を通わせることはできるんです」
「……」
「言葉や文化は違っても、家族を大切に想う気持ち、故郷を懐かしむ気持ち、懸命に生きようとする気持ちは、きっと、世界中の誰もが同じように持っているものでしょう。大切なのは、その違いの奥にある、共通の想いに気づくことなのかもしれません」
アリは、海野の言葉を、じっと聞いていた。そして、しばらくの沈黙の後、ぽつりと呟いた。
「ニホン、イイトコロ。ミンナ、シンセツ。デモ……」
彼は、言葉を選びながら、続けた。
「トキドキ、コワイ。ワタシタチ、チョット、チガウカラ……。ヘンな目で、見られるコト、アル」
異国で暮らす中で感じる、目に見えない壁。好奇の視線や、時にはあからさまな偏見に晒されることもあるのだろう。彼の表情に、深い悲しみと戸惑いの色が浮かんだ。
海野は、彼の痛みを想像し、静かに言葉を返した。
「海の上には、国境線はありませんでした」
「……?」
「船から陸地を見ても、そこがどの国かなんて、すぐにはわかりません。見えるのは、ただ、緑の山々であり、家々が立ち並ぶ風景であり、港で働く人々の姿です。大切なのは、その土地にどんな名前がついているかではなく、そこにどんな人々が暮らし、どんな想いで日々を送っているか、ということではないでしょうか」
「……」
「地上に引かれた様々な境界線も、もしかしたら、海の上から見れば、たいした意味を持たないのかもしれない。我々が互いを隔てる壁だと思っているものも、心の持ち方次第で、案外、簡単に乗り越えられるのかもしれませんよ」
海野の言葉は、説教でも同情でもなかった。ただ、彼が長年の灯台守としての経験の中で得た、一つの真実を、静かに語っているだけだった。だが、その偏見のない、人間そのものを見つめるような眼差しは、アリの心を深く打ったようだった。彼は、それまで見せていた遠慮がちな態度を少し解き、海野に対して、確かな信頼感を抱き始めているように見えた。
やがて、タクシーは目的地の古いアパートメントの前に到着した。三階建てのその建物は、築年数を経て古びてはいたが、いくつかの窓にはまだ明かりが灯っており、様々な国の言葉が混じり合ったような、独特の生活感が漂っていた。
「着きましたよ」
「ア……ドウモ、アリガトウゴザイマシタ」
アリは、財布を取り出し、料金を確認すると、少し多めの紙幣を差し出した。
「コレ、チップ……。ウンテンシュさん、イイヒト」
「いえ、お気持ちだけで結構です」海野は、笑顔でそれを固辞し、メーター通りの料金だけを受け取った。「深夜までのお仕事、本当にお疲れ様でした」
そして、領収書を渡した。アリは、少し驚いたような顔をしたが、すぐに納得したように、深々と頭を下げた。
「オヤスミナサイ」
「おやすみなさい。ゆっくり休んでください」
アリは、名残惜しそうにもう一度海野に頭を下げると、疲れた足取りで、しかしどこか少しだけ軽くなったような様子で、アパートの中へと消えていった。
再び、タクシーを発進させる。車内には、先ほどまで流れていた異国のラジオの陽気なリズムと、アリが語った家族への想いの温かさが、まだ余韻として残っているようだった。言葉や文化、肌の色が違っても、懸命に働き、遠い家族を想い、ささやかな幸せを願って生きる人々の姿は、どこにいても変わらない。海の上には境界線はない、と海野は思った。ならば、この地上に引かれた様々な境界線も、我々自身の心の中にある壁も、乗り越えられないはずはない。
夜空は、すでに東のほうが白み始めていた。夜明けが近い。今日もまた、この街のどこかで、様々な人生が動き出す。
ダッシュボードの上の、真鍮の灯台模型が、静かに前方を照らしている。それはまるで、国籍や文化の違いを超えて、この地上で懸命に生きる全ての人々の行く末を、等しく、そして温かく照らし出しているかのようだった。海野守のタクシーは、夜明けの気配が満ち始めた街を、静かに走り続けていた。