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第4話『真夜中の忘れな草』

火曜日の深夜。週の半ばを少し過ぎたばかりの夜は、まるで長いトンネルの中間地点のように、静かで、どこか息苦しい空気を纏っていた。週末の華やぎは遠く、次の休息もまだ見えない。オフィス街のガラス張りのビルには、まだ煌々と明かりが灯る窓がいくつも残っており、この時間まで働き続ける人々の影を映し出している。人通りはまばらで、時折、疲れ切った表情のサラリーマンが、駅へと続く道を足早に通り過ぎていく。




海野守は、クラウンコンフォートをゆっくりと流しながら、そんな都会の夜の営みを眺めていた。車内には、いつものように静かな空気が満ちている。エアコンの微かな作動音と、遠くで響く救急車のサイレンの音だけが、その静寂を破る。ふと、彼は家族というものについて考えていた。かつて自分にも、ささやかながら家庭があった時代のこと。灯台守という仕事は、必然的に家族と離れて暮らす時間が長かった。海を隔てた向こう岸で、自分の帰りを待つ人がいる。その事実が支えであると同時に、言いようのない寂しさを伴うこともあった。当たり前のようにそこにあるはずの温もりを、自分は十分に大切にできただろうか。そんな問いが、時折、彼の胸をよぎる。




前方、ガラス張りの近代的なオフィスビルから、一人の男性が慌てた様子で飛び出してきたのが見えた。年齢は三十代後半から四十代前半だろうか。少し着崩れたスーツ姿で、額には汗が滲んでいる。そして、その腕には、この時間、この場所には不釣り合いなほど大きな花束が抱えられていた。青と白を基調とした、清楚で美しい花束だ。男性は、きょろきょろと辺りを見回し、タクシーを探している様子だった。


海野がゆっくりと車を寄せると、男性は待っていたかのように駆け寄ってきた。


「すみません! タクシー、お願いします!」


息を切らしながら、彼は後部座席に乗り込んできた。ドアが閉まると、車内にふわりと甘く、そして少しだけ青っぽい花の香りが広がった。男性――小林健太と名乗ることになる彼は、花束を壊さないように慎重に膝の上に置き、ぜえぜえと肩で息をしながら、目的地の住所を告げた。都心から少し離れた、閑静な住宅街にあるマンションだ。おそらく、それなりに高級なのだろう。






タクシーが走り出すと、小林は落ち着かない様子で、何度も腕時計に目をやった。そして、深い深いため息をつく。その背中からは、焦りと後悔の色が濃く滲み出ている。


「何か、お急ぎでしたか?」


海野が、静かに尋ねた。その声に、小林は堰を切ったように話し始めた。


「いや、急いでるというか、もう手遅れかもしれないんですけど……」彼は、力なく笑った。「今日、結婚記念日だったんですよ。完全に、すっかり、忘れてまして……」


その声は、情けなさと自己嫌悪で震えていた。


「仕事が立て込んでて、ここ数日、ほとんど寝てなくて……。妻が、今朝、それとなく『今日、何の日か覚えてる?』って聞いてきたんですけど、その時も上の空で……。さっき、ようやく仕事が終わってスマホ見たら、妻から『もう寝るね』って短いメッセージが入ってて……それで、やっと……」


彼は、がっくりと頭を垂れた。


「最低ですよね、俺……。去年も、残業で遅くなって、レストランの予約キャンセルしちゃって……。もう二度としないって、あれほど約束したのに……」


彼は、顔を覆った。指の間から、絞り出すような声が漏れる。


「さっき、慌てて夜中までやってる花屋さんを探し回って、なんとかこれだけは見つけたんですけど……。もう一時過ぎてるし……妻、絶対怒ってるだろうな……。いや、怒るより、呆れてるかもしれない……。なんて言って謝ればいいのか……」


その姿は、子供がおもちゃを壊してしまって、親に叱られるのを待っているかのようにも見えた。仕事では、おそらく有能な人物なのだろう。だが、こと家庭のこととなると、どこか不器用で、抜けているのかもしれない。海野は、彼の言葉に黙って耳を傾けていた。相槌を打つことも、慰めの言葉をかけることもしない。ただ、彼の混乱と後悔を、静かに受け止めている。




車内に、花の甘い香りが満ちている。小林が抱える花束は、暗い車内でも、その清楚な美しさを放っていた。デルフィニウムの青、トルコキキョウの白、そして、それらに寄り添うように、小さな忘れな草の青い花々が可憐に散りばめられている。


「綺麗なお花ですね」海野は、ふと呟いた。「忘れな草ですか」


その言葉に、小林ははっと顔を上げた。そして、膝の上の花束に目を落とす。


「あ……はい。妻が好きなんです、この花」彼の声に、少しだけ温かい響きが戻った。「初めてデートした時に、道端に咲いてるのを見つけて、彼女が『可愛い』って言ったのを覚えてて……。プロポーズの時も、小さな忘れな草の花束を渡したんです」


彼は、花束を優しく撫でた。


「さっきの花屋のおばあちゃんに、『記念日を忘れちゃったんです』って正直に話したら、『あらあら、それは大変。でも、お花を買いに来ただけ偉いじゃない』って笑ってくれて……。『奥さんが好きな花は?』って聞かれて、忘れな草って答えたら、『じゃあ、"私を忘れないで"って気持ちと、"あなたのこと忘れてなかったよ"って気持ち、両方込めて作りましょうね』って、この花束を作ってくれたんです」


花を選んでいる時の記憶を語るうちに、彼の表情は少しずつ和らいでいった。焦りや後悔の奥にある、妻への深い愛情が、その言葉の端々から窺える。彼は、不器用ながらも、心から妻を愛しているのだろう。ただ、それを伝えるのが下手なだけなのかもしれない。




「灯台の光も」海野は、静かに語り始めた。「遠くから見れば、ただ黙って光っているだけに見えます」


小林は、話の意図がわからず、不思議そうな顔で海野を見た。


「毎日、同じ場所で、同じように光を放ち続ける。沖を行く船にとっては、それが命綱になることもある。でも、あまりにも当たり前のようにそこにあるから、普段は、その存在を意識することさえ少ないのかもしれません」


海野の声は、夜の静寂に溶け込むように、低く、穏やかだった。


「悪天候の日や、霧の深い夜には、その光のありがたみを痛感する。でも、穏やかな晴れた夜には、他にもたくさんの星や街の明かりがあるから、その一つの光のことなど、忘れてしまいがちです」


「……」


「でも、灯台守は知っているんです。たとえ誰にも気づかれなくても、その光が、暗い海のどこかで、誰かの道を照らしているかもしれないということを。だから、一日も欠かさず、光を灯し続けるんです」


海野は、そこで言葉を切った。小林は、黙って彼の言葉を聞いていた。その表情は、何かを深く考え込んでいるようだった。




やがて、小林は、ぽつりと言った。


「……俺、妻のこと、灯台みたいに思ってたのかもしれないな……」


その声は、自嘲的でありながら、どこか切実な響きを帯びていた。


「いつも、当たり前のように、そこにいてくれる。俺がどんなに仕事で遅くなっても、文句も言わずに待っててくれる。それが普通だと思ってた……。甘えてたんだ、完全に」


彼は、再び深いため息をついた。


「記念日を忘れたのも、もちろん最低だけど……問題は、そこだけじゃない気がする。俺、普段から、全然、感謝の気持ちとか、伝えられてなかった……。妻が俺のためにしてくれてること、全部、当たり前だと思っちゃってたんだ……」


「……」


「ダメだな、俺……。本当に、全然ダメだ……」


小林の声は、消え入りそうに小さくなっていた。


「当たり前の日々を照らす小さな灯りこそ」海野は、静かに続けた。「案外、一番大切な道しるべなのかもしれませんね」


彼の声には、わずかな、しかし確かな重みが加わっていた。


「その灯りが消えてしまってから、その大切さに気づいても……もう、遅い場合もありますから」


その言葉には、海野自身の過去の経験から来る、深い悔恨の響きが込められているように、小林には感じられた。彼は、思わず尋ねた。


「運転手さんも……何か、あったんですか?」


海野は、一瞬、遠くを見るような目をして、すぐに視線を前に戻した。


「……昔の話ですよ。私も、不器用な人間でしたから」


それ以上のことは語らなかったが、その短い言葉と沈黙の中に、多くのものが含まれているように感じられた。車内に、再び静かな時間が流れる。それは、先ほどまでの焦燥感に満ちた沈黙ではなく、互いの心の内に秘めた想いを、静かに共有するような、穏やかな沈黙だった。






やがて、タクシーは目的地のマンションの前に到着した。エントランスは、暖色系の柔らかな照明に照らされ、高級感と落ち着きを漂わせている。時刻は、午前二時を少し回ったところだった。


「着きましたよ」


海野の声に、小林は我に返った。メーターの料金を確認し、財布を取り出す。


「あの……ありがとうございました」


料金を支払いながら、彼は少しだけしっかりとした声で言った。その表情には、まだ不安の色は残っているものの、先ほどまでの狼狽ぶりは消えている。


「運転手さんと話せて、少し……覚悟が決まりました」


彼は、膝の上の花束を、改めてぎゅっと抱きしめた。


「ちゃんと、正直に謝って、この花を渡します。それから……これからは、もっとちゃんと、言葉にして伝えようと思います。当たり前じゃないんだってこと」


「ええ」海野は、静かに頷いた。「きっと、奥さんには、その気持ちが伝わりますよ。言葉よりも、その花束が、何よりの証拠でしょう」


小林は、その言葉に少し勇気づけられたように、ふっと息を吐いた。そして、「じゃあ、行きます」と短く言うと、ドアを開けて車を降りた。


マンションのエントランスに向かう彼の背中は、まだ少し頼りなく見えた。しかし、その一歩一歩には、誠実に妻と向き合おうとする、確かな意志が感じられた。彼が自動ドアの向こうに消えていくのを、海野は見送った。






再び、タクシーをゆっくりと発進させる。車内には、まだ微かに、忘れな草の甘く切ない香りが残っていた。その香りは、海野の心の奥底にしまい込んでいた、過去の記憶の扉を、そっと開けるかのようだった。


失われた灯り。伝えられなかった言葉。当たり前だと思っていた日常が、いかに脆く、かけがえのないものだったか。後悔という名の重い(いかり)は、今も彼の心の海底に沈んでいる。


それでも、と海野は思う。あの男性が、今夜、妻との間に、再び温かな灯りを灯すことができるのなら。失われた時間を取り戻すことはできなくても、未来に向けて、新たな航路を描き出すことができるのなら。




夜空を見上げると、雲が切れ、いくつか星が見えた。都会の空でも、時には星が見える。希望の光は、どんな暗闇の中にも、きっと存在しているのだ。


ダッシュボードの上の、真鍮の灯台模型が、静かに前方を照らしている。それはまるで、人生という航海において、愛する人という存在が、いかに大切なしるべとなるかを、静かに語りかけているかのようだった。海野守のタクシーは、夜明け前の静かな街を、再び走り始めた。

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