第3話『港町のブルース』
土曜の夜が、その深淵へと差し掛かろうとしていた。週末の解放感に浮かれた喧騒は、まだ街のあちこちでくすぶってはいるものの、ピークを過ぎた祭りの後のような、どこか物憂げな空気が漂い始めている。湿ったアスファルトが街灯の光を鈍く反射し、時折走り抜ける車のタイヤが水を跳ね上げる音が、静寂を破る。
海野守は、クラウンコンフォートをゆっくりと走らせながら、そんな夜の気配を肌で感じていた。彼のタクシーは、まるで夜の海を音もなく進む船のように、滑らかに街路を移動していく。ふと、視線を上げると、遠くに港湾地区の巨大なクレーン群が、闇の中にシルエットとなって浮かび上がっているのが見えた。あの向こうには、彼がかつて対峙し続けた、広大な海が広がっている。灯台守だった頃の記憶が、潮の匂いとともに蘇る。無数の船が行き交う海の道、荒天の中で必死に点滅する船の灯り、そして、遠く近く響いていた霧笛の音……。
そんな感傷に浸りかけた時、脇道から続く細い路地の入り口に、小さなライブハウスの看板が目に入った。ブルースバー、と書かれた古びた看板の下で、一人の初老の男性が、所在なさげにタクシーを探している様子だった。煤けたモスグリーンのブルゾンに、頭には少し型崩れしたハンチング帽。年齢は六十代後半から七十代前半といったところか。その手には、古いレコードジャケットらしきものを、まるで宝物のように大事そうに抱えている。足元は少しおぼつかないように見えるが、酔っているというよりは、音楽の強い余韻の中にまだ漂っている、そんな風情だった。
海野がタクシーを寄せると、男性は待っていたかのように、軽く手を挙げた。自動で開いた後部ドアから乗り込んできた彼からは、煙草と安酒の匂い、そして、それらに混じって微かな、しかし確かに感じられる潮の匂いがした。
「すまんな、拾ってもらって」
しゃがれた、しかし芯のある声だった。長年、潮風に晒されてきたような、そんな響きがあった。
「どちらまでお送りしましょうか」
海野が尋ねると、男は少し間を置いてから、港に近い、古い地名を告げた。かつては港湾労働者や船乗りたちが多く暮らし、活気に満ちていたが、今ではすっかり寂れてしまったと聞く地区だ。
「昔馴染みの場所でね。もう、ずいぶん変わっちまっただろうが」男は、どこか遠くを見るような目で呟いた。
タクシーが走り出すと、男は抱えていたレコードジャケットを膝の上に置き、満足そうに溜息をついた。ジャケットには、ブルースの巨人として知られる、黒人ギタリストの写真が印刷されている。
「いやあ、今夜も沁みたねぇ……」男は、独り言のように呟いた。「あのギターときたら、まるで魂で泣いてるみてぇだ。やっぱりブルースは、こうでなくっちゃ」
海野は、バックミラー越しに男の横顔を見た。深い皺が刻まれた顔には、音楽への深い愛情と、そして人生の年輪が滲み出ている。
「良い音楽ですね」海野は、静かに相槌を打った。「ブルース、お好きなんですか」
「好きなんてもんじゃねぇよ。俺の人生そのものみてぇなもんだ」男は、少し機嫌を良くしたように言った。「あんた、ブルース聴くのかい?」
「たくさんは知りませんが、心に響く音楽だと思います」
「そうだろう、そうだろう」男は頷いた。「人生の苦労や悲しみをよ、ただ嘆くんじゃねぇ。それを音にして、歌にして、笑い飛ばすような力強さがある。まあ、若いあんたには、まだピンとこねぇかもしれんがな」
男は、海野のことを「若いあんた」と呼んだ。自分の年齢からすれば、そう見えるのかもしれない。海野は、特に訂正はしなかった。
「わしが若い頃はよ」男は、懐かしむように語り始めた。「船に乗ってたんだ。世界中の海を渡り歩いてよ。そりゃあ、面白いことも、ひでぇ目に遭うことも、山ほどあった」
彼の名前は浜崎譲二というらしい。若い頃、貨物船の船員として、アジア、アメリカ、ヨーロッパと、様々な港を渡り歩いた経験を持つ、いわゆる「海の男」だった。
「港に着きゃあ、まずは安酒場で一杯だ。荒くれ者の船乗り仲間と、くだらねぇことで喧嘩したり、笑い転げたり。次の日には、また別の港へ向けて出航だ。陸に根を下ろすことなんざ、考えもしなかったな」
彼の語り口は、荒っぽくはあったが、どこか飄々としていて、聞き手を引き込む魅力があった。海の厳しさ、嵐の恐ろしさ、そして、時折見せる息をのむような美しい風景。彼の話は、海野が灯台から見ていた世界とはまた違う、海と共に生きた人間の生々しい実感に満ちていた。
「灯台の光が見えると、ホッとしたもんさ」浜崎は、煙草に火をつけながら言った。灰皿を使うよう促すと、彼は少し面倒臭そうにしながらも従った。「特に、荒れた夜なんかはな。あの光だけが頼りだった。あの中にいる人間は、どんな気持ちで俺たちを見てるんだろうって、時々思ったもんだ」
「……私も昔、灯台におりました」
海野が静かに告げると、浜崎は驚いたように目を見開いた。咥えていた煙草を落としそうになり、慌てて指で挟み直す。
「なんだって? あんたが、灯台守?」
彼は、信じられないといった表情で、バックミラー越しに海野の顔をまじまじと見つめた。
「へぇ……そりゃあ驚いた。あんたみたいな若いのが、あんな孤独な仕事をしてたとはな。いや、失礼、見かけによらず、あんたも結構な歳なのか?」
「もう、五十を過ぎました」
「そうかい、そうかい。そりゃ失敬」浜崎は、少しばつが悪そうに頭を掻いた。「どこの灯台だ? わしも、日本の沿岸は大抵知ってるつもりだが」
「汐見崎です。太平洋に面した、小さな岬の」
「汐見崎……?」浜崎は、記憶を探るように眉を寄せた。「ああ、あの鼻っ先か。潮の流れが速くて、霧も深い、難所だったな。ずいぶんと世話になったかもしれん。いやはや、世間は狭いもんだ」
直接の面識があったわけではないだろう。だが、同じ海を見て、それぞれの場所で生きてきたという事実が、二人の間に目に見えない繋がりを生んだようだった。灯台守から見た船、船乗りから見た灯台。それぞれの視点からの記憶が、言葉少なながら交わされる。孤独な持ち場を守る者同士の、静かで、しかし確かな共感が、車内の空気を満たしていく。
「あの頃の灯台守は、大変だったろう」浜崎は、しみじみと言った。「今みたいに、何でもかんでも自動じゃなかったからな。嵐の夜も、雪の降る夜も、たった一人で……」
「あなた方、船乗りの方も、同じだったでしょう」海野は静かに返した。「海の厳しさは、陸にいては想像もつかない」
「まあな」浜崎は、短く答えると、窓の外に目をやった。タクシーは、いつの間にか、目的地の港湾地区へと入っていた。
だが、そこに広がっていたのは、浜崎の記憶の中にある風景とは、かけ離れたものだった。かつて木造の倉庫や、船乗り相手の安酒場が軒を連ねていたであろう場所には、真新しい巨大な冷凍倉庫や、洒落た外観の物流センター、そして、海とは不釣り合いな高層マンションなどが建ち並んでいた。道は広く舗装され、行き交う車も、かつての無骨なトラックではなく、小綺麗な乗用車や輸入車が目立つ。
「……こりゃあ……」浜崎は、呆然と呟いた。「すっかり変わっちまったな……面影もねぇや」
彼の声には、深い寂寥感が滲んでいた。
「俺たちが、汗水たらして荷揚げした岸壁も、どこにあったんだか……あの頃の活気は、もうどこにもありゃしねぇ」
失われゆくものへの郷愁。時代の奔流から取り残されたような、言いようのない喪失感。彼の愛するブルースの旋律が、まるでこの風景のBGMであるかのように、海野の心にも響いてきた。
海野自身も、無人となり、ただ機械的に光を放つだけになった故郷の灯台や、少しずつ姿を変えていく故郷の風景を思うと、浜崎の気持ちが痛いほどわかる気がした。時は容赦なく流れ、全てを変えていく。それは自然の摂理なのかもしれないが、その流れの中で失われていくものの価値を思うと、胸が締め付けられるような思いがした。
「今は、どうされているんですか」海野は、静かに尋ねた。
「わしか? わしは、もうただの年金暮らしの爺だよ」浜崎は、自嘲するように言った。「女房にはとっくに先立たれて、ガキどもも、それぞれ所帯を持って寄り付きもしねぇ。まあ、達者でやってるなら、それでいいんだがな」
彼は、ハンチング帽を目深にかぶり直した。
「今の楽しみは、こうして、たまに昔馴染みの店でブルースを聴くことくらいのもんだ。あとは、この古いアパートで、昔のレコードを引っ張り出して、一人で酒を飲む。そんなもんよ、わしの人生は」
その言葉には、諦めと、しかしどこか開き直ったような潔さも感じられた。ブルースが彼の人生そのものだと言った言葉の意味が、少しわかったような気がした。
やがて、タクシーは、浜崎が告げた古い木造アパートの前に到着した。二階建てのその建物は、明らかに年月を重ね、壁の塗装は剥げ落ち、窓枠も錆び付いている。だが、いくつかの部屋の窓には、温かな生活の灯りが灯っていた。この場所にも、まだ人々の暮らしが続いているのだ。
「着きましたよ」
「おう、すまんな」
浜崎は、ポケットからくしゃくしゃの紙幣を取り出し、料金を支払った。
「久しぶりに、海の話ができて良かったよ」彼は、少し照れたように、しかし真っ直ぐに海野の目を見て言った。「あんたも、達者でな。夜中の運転は、気ぃつけろよ」
「ありがとうございます。あなたもお元気で」
浜崎は、抱えていたレコードジャケットを、もう一度愛おしそうに見つめた。
「こいつがよ、まあ、わしの人生の相棒みたいなもんだ」
そう呟くと、彼は少しよろけながらも、確かな足取りでアパートの階段を上がっていった。その背中には、長年海と格闘してきた男の、消えない誇りのようなものが感じられた。
海野は、浜崎の姿が見えなくなるまで、しばらくの間、そこに車を停めていた。ブルースの、あの物悲しくも力強い旋律が、まだ耳の奥に残っているような気がした。人生の哀しみを知り、それでもなお、背筋を伸ばして生きていこうとする人間の魂の歌。それは、海の厳しさと豊かさ、その両方を知る者たちの心に、深く響くのかもしれない。
車を発進させ、変わり果てた港を後にする。埠頭の先に、停泊している貨物船の灯りが、いくつか見えた。あの船にも、かつての浜崎のような、海の男たちが乗っているのだろうか。あるいは、彼らが語り継いできた魂は、今もこの港の潮風の中に、漂っているのだろうか。
海野は、ルームミラーに目をやった。後部座席には、もう誰もいない。しかし、そこには、煙草と潮の匂い、そしてブルースの気配が、まだ微かに残っているような気がした。
ダッシュボードの上の、真鍮の灯台模型が、前方を静かに照らしている。それはまるで、失われた時間と、今も続く人生とを、等しく見守っているかのようだった。夜は、まだ深い。海野守のタクシーは、再び、静かに夜の海へと走り出した。