第2話『迷子の星を探して』
週の半ばを過ぎた水曜日の深夜は、週末のそれとは違う種類の静けさを纏っていた。喧騒の名残のような微かな熱気はまだ空気にとどまっているものの、街全体がどこか疲れたように息を潜め、明日への短い休息を貪っているかのようだ。ネオンの光も、心なしか週末より勢いを失い、点滅の間隔が長くなっているようにさえ感じられる。
海野守は、濃紺のクラウンコンフォートをゆっくりと走らせながら、そんな夜の気配を感じ取っていた。数日前の金曜の夜に乗せた、あの若い女性客のことを、ふと思い出す。泥酔し、自暴自棄になっていた彼女。別れ際に口にした「ちゃんと会社に行きます」という言葉は、果たして守られただろうか。海野には知る由もない。ただ、嵐が去った後の凪いだ海のように、彼女の心にも静かな朝が訪れていれば良い、と願うだけだ。
ふと、フロントガラス越しに夜空を見上げる。高いビルの稜線に切り取られた空は、街の灯りに照らされて、白っぽく濁っている。星はほとんど見えない。故郷の汐見崎灯台から見上げた、あの吸い込まれそうなほどの満天の星空とは、あまりにも違う。無数の星々が、それぞれの光を放ち、星座を描き、天の川となって夜空を流れる様は、宇宙の壮大さと、そこに存在する自分という存在の小ささを、同時に教えてくれた。都会の光は、多くのものを便利にし、夜を昼に変えたが、同時に、大切な何かを見えにくくしてしまったのかもしれない。
そんなことを考えていると、繁華街の喧騒から少し離れた、薄暗い路地裏に人影を見つけた。コンビニの明かりも届かないような場所に、若い男の子が一人、壁に寄りかかるようにして佇んでいる。ダメージ加工の激しいジーンズに、派手なロゴの入った黒いパーカー。耳にはいくつものピアスが光り、染めた髪は無造作に伸びている。手にしたスマートフォンに視線を落としているが、その横顔には、年齢に見合わない険しさと、そしてどこか怯えたような色が混じっているように見えた。
海野は、タクシーをゆっくりとその近くに寄せ、エンジン音を静かに響かせた。少年――相川蓮と名乗ることになる彼は、車の気配に気づき、鋭い視線をこちらに向けた。その目には、あからさまな警戒心と、大人に対する反抗心が宿っている。だが、海野が何も言わずにただ待っていると、彼は興味を失ったかのように、再びスマホの画面に視線を落とした。しかし、その指は画面を操作するでもなく、ただ一点を見つめているだけだった。まるで、何かを決めかねているかのように。
数分の時間が流れただろうか。短いようで長い沈黙の後、蓮は、何かを振り払うように、あるいは衝動に突き動かされたかのように、乱暴にタクシーの後部ドアを開けた。そして、どさりと音を立ててシートに体を沈める。
「どこまでお送りしましょうか」
海野は、いつも通りの落ち着いた声で尋ねた。
「……どこでもいい」
蓮は、顔を上げずに、吐き捨てるように言った。
「とりあえず、どっか明るいとこ。こんなジメジメしたとこ、もうウンザリだ」
その声には、苛立ちと、そして行き場のない焦りのようなものが滲んでいた。海野は黙って頷き、ゆっくりとアクセルを踏んだ。タクシーは、再びアスファルトの海へと滑り出す。
車内には、気まずい沈黙が流れた。蓮は腕を組み、ふてくされたように窓の外を眺めている。時折、ポケットからスマホを取り出しては画面を確認するが、すぐに舌打ちをしてポケットに戻す。誰かからの連絡を待っているのか、あるいは、来るはずのない連絡を期待しているのか。
海野は、バックミラーで彼の様子を窺いながら、当たり障りのない言葉をいくつか投げかけてみた。
「遅い時間ですが、何かご用事でしたか?」 「……別に」
「ご自宅は、この近くですか?」 「……関係ねぇだろ」
返ってくるのは、短く、棘のある言葉ばかりだった。まるで、全身で外部からの接触を拒絶しているかのようだ。海野は、それ以上無理に話しかけることはしなかった。灯台守だった頃、彼は海とも対話してきた。言葉を持たない海は、その日の波の色や風の音、空の色で、多くのことを語りかけてきた。目の前の少年もまた、今は言葉ではなく、その全身から発せられる硬質な雰囲気で、何かを訴えかけているのかもしれない。
沈黙が続く。エアコンの微かな音と、時折遠くで響くサイレンの音だけが、車内を満たしていた。蓮は、その沈黙に耐えかねたかのように、貧乏ゆすりを始めた。居心地の悪さが、その小さな動きに表れている。
「『どこか明るいところ』とのことですが」海野は、静かに切り出した。「少し遠回りになりますが、この街の夜景が綺麗に見える場所があります。高い場所から見下ろす街の灯りも、なかなかですよ。行ってみますか?」
蓮は、一瞬、意外そうな顔をして海野を見た。彼のぶっきらぼうな要求に対して、予想外の提案だったのだろう。少し迷うような素振りを見せた後、彼は再び窓の外に視線を向けたまま、吐き捨てるように言った。
「……好きにすれば」
その言葉には、投げやりな響きの中に、ほんの少しだけ、何かを期待するような色合いが混じっているように、海野には感じられた。
タクシーは、市街地を抜け、緩やかな坂道を登り始めた。道沿いの建物は次第にまばらになり、代わりに木々の深い緑が窓の外を流れていく。やがて、視界が開け、小さな展望スペースのような場所に到着した。数台の車が停められるだけの、簡素な場所だ。先客は誰もいない。
海野はエンジンを切り、サイドブレーキを引いた。途端に、車内は深い静寂に包まれる。虫の声だけが、すぐ近くで聞こえていた。
「着きましたよ」
海野が言うと、蓮は無言で窓の外に目を向けた。そこには、宝石箱をひっくり返したような、と形容される、都会の夜景が広がっていた。無数の光の点が、暗闇の中に広がり、遠くまで続いている。それは確かに美しかったが、同時に、どこか現実感のない、無機質な光の集合体にも見えた。
二人は、しばらくの間、言葉もなくその景色を眺めていた。それぞれの光の下には、それぞれの人生がある。喜びも、悲しみも、怒りも、諦めも。その無数の営みが、この巨大な光の海を作り出している。
「……星、全然見えねぇのな」
沈黙を破ったのは、蓮だった。呟くような、独り言のような声だった。
「そうですね」海野は静かに応じた。「この街の光が、星の光を隠してしまっている」
「ふーん……」蓮は、興味なさそうに相槌を打つ。
「私がいた灯台の周りには、明かりというものがほとんどありませんでした」海野は、ゆっくりと語り始めた。「夜になれば、そこは本当の闇に包まれる。だからこそ、星がよく見えた」
「……」
「降るような星空、という言葉がありますが、まさにそれでした。空一面の星が、すぐそこまで迫ってくるような感覚。一つ一つの星が、ダイヤモンドのように鋭く、強く輝いているんです」
海野の声は、昔を懐かしむような、穏やかな響きを帯びていた。
「昔の船乗りたちは、その星の光を頼りに、広い海を旅したそうです。北極星、南十字星……それぞれの星に名前があって、それらが正確な方角を示してくれる。夜空は、彼らにとって、巨大な海図であり、羅針盤だったんでしょう」
「……くだらねぇ。今はGPSがあんだろ」
蓮は、悪態をつくように言った。だが、その声には、先ほどまでの刺々しさは少し和らいでいるように感じられた。
「ええ、今はそうですね。便利な世の中になりました」海野は、彼の言葉を否定しなかった。「ですが、自分の目で星を読み、風を読み、進むべき道を決めるというのは、きっと、今とは違う種類の確かさがあったのではないでしょうか」
「……」
「この街の光は、確かに明るく、夜道を照らしてくれる。でも、その明るさが、かえって、遠くにあるものや、本当に大切なものを見えにくくしているのかもしれない。星の光のように、静かに、しかし確かにそこにあるものを」
海野の言葉は、夜景の美しさを語るようでいて、同時に、蓮自身の心の奥底にある何かを、そっと指し示しているかのようだった。蓮は、黙って夜景を見つめている。その横顔に浮かぶ表情は、複雑だった。反抗心と、戸惑いと、そしてほんの少しの寂しさ。
どれくらいの時間が経っただろうか。海野は、再び静かにエンジンをかけた。
「そろそろ、行きましょうか。体が冷えてしまいます」
蓮は、無言で頷いた。タクシーは、再び坂道を下り、光の海へと戻っていく。
帰り道、蓮は、以前よりも少しだけ口を開くようになった。それは、堰を切ったような告白ではなく、まるで硬い殻が少しずつ剥がれていくような、途切れ途切れの言葉だった。
「……別に、家出したとかじゃねぇし」彼は、ぶっきらぼうに言った。「ただ、帰りたくなかっただけだ」
「……」
「家にいたって、どうせ誰も俺のことなんか見てねぇんだ。親父は仕事ばっか。オフクロは……なんか、自分のことで精一杯って感じ? 俺が何してようが、どこにいようが、多分、気づきもしねぇよ」
その声には、諦めと、そして裏切られたような子供っぽい怒りが混じっていた。
「学校? ……つまんねぇだけ。センコーはうぜぇし、ツレとか言ってる奴らも、結局、上辺だけ。マジで話せる奴なんて、一人もいねぇ」
彼は、自嘲するように笑った。その笑いは、乾いていて、痛々しかった。
「どこにも、俺のいる場所なんてねぇんだよ。家にいても、学校にいても……どこにいても、なんか、浮いてるっていうか……」
言葉が途切れ、再び沈黙が訪れる。海野は、彼の言葉を静かに受け止めていた。彼の孤独は、海野が灯台で経験した物理的な孤独とは種類が違う。人の群れの中にいながら感じる、魂の孤独。それは、時に物理的な孤独よりも、深く、冷たいものかもしれない。
「灯台も」海野は、静かに言った。「ずっと、同じ場所に、たった一人で立っていました」
蓮が、少し驚いたように顔を上げる。
「周りは、見渡す限りの海。訪ねてくる人もほとんどいない。嵐の夜などは、世界に自分一人だけしか存在しないような、そんな心細さに襲われることもありました」
「……」
「それでも、灯台は、ただそこに立ち続けなければならない。誰かのためになっているのか、自分の存在に意味があるのか、わからなくなる時もある。でも、信じるしかないんです。あの沖の暗闇のどこかで、この光を必要としている船が、きっといるはずだと」
海野の声は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
「自分のいる場所に意味があるかどうかは、自分だけでは決められないのかもしれません。誰かが、あなたという存在を、遠くから見守っているかもしれない。あなたが気づかない場所で、あなたの光を必要としている人が、いるのかもしれない」
蓮は、黙って海野の言葉を聞いていた。その表情は読み取りにくかったが、少なくとも、彼の心の中で何かが揺れ動いているのは確かだった。
やがて、タクシーは住宅街へと入っていった。先ほどまでのネオンの洪水はなく、家々の窓から漏れる生活の灯りが、ぽつりぽつりと道を照らしている。
「……次の角、右」
蓮が、小さな声で言った。
「その先の、三軒目の家……の前でいい」
海野は、指示通りに車を停めた。そこは、庭のある、比較的新しい一軒家だった。窓からは明かりが漏れており、まだ起きている人がいるようだ。
「ここでいい」蓮は、そう言って財布を取り出した。
料金を告げると、彼は黙って数枚の紙幣を差し出した。お釣りを渡そうとすると、彼はそれを制するように手を振った。
「……いらねぇ」
そして、ドアを開けようとして、一瞬、動きを止めた。何かを言おうとして、ためらっているような、そんな間があった。
「……悪かったな、変なこと言って」
結局、彼は小さな声でそう呟くと、早口で付け加えた。
「……あと、その、夜景……別に、悪くなかった」
そう言うと、彼は逃げるように車から降り、足早に自宅とは反対方向の暗い路地へと歩き去っていこうとした。
「相川さん」
海野が呼び止めると、蓮はぴたりと足を止めたが、振り返りはしなかった。
「気をつけて、帰りなさい」
海野は、それだけを言った。蓮は、しばらくの間、その場に立ち尽くしていたが、やがて、ゆっくりと踵を返し、今度は自宅の方向へと歩き出した。彼が門の中に消えていくのを、海野はバックミラーで見届けた。彼があの家の中で、自分の居場所を見つけられるのか、それとも再び夜の街へと飛び出してしまうのか、それは海野にはわからない。
タクシーを再び走らせながら、海野は、もう一度、白み始めた空を見上げた。やはり、星は見えない。だが、見えないからといって、そこに存在しないわけではない。無数の星々が、この厚い光のヴェールの向こうで、今も静かに輝いているはずだ。
あの少年のような、迷子の星も。
いつか彼が、自分の力で輝き、自分の進むべき航路を見つけられる日が来ることを、海野は静かに願った。
深夜ラジオから、古いジャズのバラードが流れ始めた。サックスのメロウな音色が、夜明け前の静かな街に沁みていく。ダッシュボードの上の灯台模型が、昇り始めた太陽の気配を映して、小さく光を放った。それは、迷子の星たちを導く、ささやかな道しるべのようにも見えた。