第12話『夜明けの灯(ひ)』
数日間の休暇を取り、海野守は、長い年月を経て、再び汐見崎へと向かう列車に乗っていた。窓の外には、都会のビル群が次第に遠ざかり、緑豊かな田園風景が広がっていく。車窓を流れる景色は、彼がこの地を離れた時とはいくらか変わっていたが、遠くに見える山の稜線や、空の広さは昔のままだった。彼の心の中は、これから対峙するであろう過去への重圧感と、同時に、長年背負ってきた重荷を下ろせるかもしれないという、微かな期待感が入り混じり、静かに揺れていた。
バスを乗り継ぎ、汐見崎のバス停に降り立った時、懐かしい潮の香りが、彼の肺をいっぱいに満たした。海鳥の声が空高く響き渡り、遠くからは、絶え間なく寄せては返す波の音が聞こえる。五感が、眠っていた記憶を呼び覚ます。彼は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、あの場所へと向かった。
岬の先端に立つ、白亜の灯台。それは、彼が去った時とほとんど変わらない姿で、青い空と海を背景に、凛として聳え立っていた。しかし、近づくにつれて、その違いも明らかになる。かつては生活の気配があった付属舎は固く窓を閉ざされ、人の手入れが行き届かなくなった庭には雑草が生い茂っている。そして何より、そこに「人」の気配が全くないことが、灯台そのものをどこか寂しげに見せていた。自動化された灯器が、真昼の太陽の下で、ただ無機質に、静かに回転を続けている。
海野は、灯台の周りをゆっくりと歩いた。足元の草を踏む感触、頬を撫でる潮風、遠くに見える水平線。全てが、彼の記憶の中にある風景と重なり、そして微妙にズレている。彼は、ジャケットの内ポケットに入れてきた、あの真鍮製の灯台の模型を取り出し、そっと手のひらに載せた。この小さな模型が、都会の喧騒の中で、彼にとっての唯一の拠り所だった。
彼は、灯台の白い壁に背をもたせ、目を閉じた。楽しかったこと、辛かったこと、単調な日々の中で感じた小さな喜び、そして、あの嵐の夜の出来事……。記憶の洪水が、彼の内側で激しく渦巻く。なぜ、自分はこの場所を離れたのか。なぜ、あの記憶に蓋をしてきたのか。それは、ただ、あまりにも重すぎたからだ。自分の判断が招いたかもしれない結果と、それに伴う罪悪感と向き合うことから、無意識のうちに逃げ続けてきたのだ。
どのくらいの時間が経っただろうか。彼は、目を開け、再び灯台を見上げた。そして、意を決したように、灯台に背を向け、手紙に示唆されていた場所へと歩き出した。
そこは、汐見崎の岬を見下ろす、小高い丘の上に建つ、一軒の小さな古い家だった。庭には、季節の花々が手入れされており、潮風に揺れている。海野が、家の呼び鈴を鳴らすのを一瞬ためらっていると、玄関の戸が静かに開き、中から、腰の曲がった小柄な老婦人が姿を現した。年の頃は七十代後半だろうか。深い皺が刻まれた顔には、長年の苦労と、そして海辺の暮らし特有の、ある種の厳しさと優しさが滲み出ていた。
「……あなたが、海野さん、ですね」
老婦人は、静かな、しかし芯のある声で言った。彼女の目は、真っ直ぐに海野を見据えていた。その瞳の奥には、深い悲しみと、そして長年抱え続けてきたであろう、問いかけの色が浮かんでいた。
「はい。お手紙、拝見しました」海野は、深く頭を下げた。
「……遠いところを、わざわざすみません。さあ、どうぞ、中へ」
老婦人に促され、海野は家の中へと足を踏み入れた。古い木の匂いと、微かな線香の香りがする、質素だが清潔な室内。壁には、日に焼けた古い写真がいくつか飾られている。その中の一枚、若々しい笑顔の男性の写真に、海野の目は釘付けになった。あの手紙に書かれていた名前の主、海星丸の船員だった、小泉さん……。そして、彼の隣で、幸せそうに微笑んでいる若い女性は、おそらく、目の前の老婦人の若い頃の姿なのだろう。
お茶を淹れながら、老婦人は、静かに語り始めた。彼女は、事故で亡くなった小泉さんの妻だった。あの嵐の夜、夫の乗った船が遭難したという知らせを受けてからの、混乱と絶望の日々。そして、事故の原因や状況について、公式な説明だけではどうしても納得できなかった、長年の疑問と心の葛藤。夫はなぜ死ななければならなかったのか。本当に、あれは避けられない事故だったのか。そして、あの夜、灯台にいた「あなた」は、何を知っていたのか……。
彼女の言葉は、決して海野を激しく責め立てるものではなかった。しかし、その静かな語り口の中には、愛する人を失った深い悲しみと、真実を知りたいという、切実で、揺るぎない想いが込められていた。
海野は、彼女の言葉を、一言も聞き漏らすまいと、真摯に耳を傾けた。そして、彼女の話が一段落した時、彼は、ゆっくりと口を開いた。
「奥様のお気持ち、お察しいたします。そして、長年、辛い思いを抱えさせてしまったこと、本当に申し訳なく思っています」
彼は、再び深く頭を下げた。そして、意を決して、彼が知る限りの、あの嵐の夜の「真実」を語り始めた。
それは、公式な記録には残されていない、現場の生々しい状況だった。予想を遥かに超える嵐の威力、次々と発生する不測の事態、錯綜する情報、そして、極限状態の中で下さなければならなかった、苦渋の判断。海野は、当時の同僚との意見の対立や、救助活動の限界、そして、最終的に彼が下した「ある決断」について、包み隠さず語った。その決断が、結果的に、いくつかの命を救い、同時に、いくつかの命を救えなかった可能性。彼は、自身の判断への後悔と、灯台守としての責任の重さを、正直に告白した。
「……私は、最善を尽くしたと、今でも信じたいと思っています。ですが、もしかしたら、別の選択肢があったのかもしれない。その思いが、ずっと、私を苦しめてきました」
彼の告白を聞きながら、老婦人は、静かに涙を流していた。それは、怒りや恨みの涙ではなかった。長年の疑問が解けたことへの、ある種の安堵と、しかし、決して変えることのできない過去への、深い悲しみの涙だった。
「……そう、でしたか」彼女は、涙を拭いながら、か細い声で言った。「大変な夜だったんですね……。あなたも……ずっと、お辛かったでしょうね……」
その言葉は、海野にとって、予期せぬものだった。責められることを覚悟していた彼にとって、その労りの言葉は、固く閉ざされていた心の扉を、静かに溶かしていくかのようだった。
「いいえ、奥様のお苦しみに比べれば……」
「もう、いいんです」老婦人は、静かに首を振った。「誰かを責めても、あの人は帰ってこない。私は、ただ……何があったのか、知りたかっただけですから。……これで、やっと、私も、少しだけ、前に進めるような気がします」
完全な赦しではないのかもしれない。深い悲しみが消えることもないだろう。しかし、互いの痛みと後悔を、静かに共有し、理解し合ったことで、二人の間には、確かに、ある種の和解のようなものが生まれていた。それは、長い嵐の後に訪れた、束の間の凪のような、穏やかで、しかし確かな瞬間だった。
海野は、老婦人に深く感謝の意を伝え、彼女の家を後にした。丘の上から見下ろす汐見崎の海は、初夏の陽光を浴びて、きらきらと輝いていた。彼の心にも、長年覆っていた厚い雲が晴れ、わずかながら光が差し込んできているような気がした。過去の重荷から、完全に解放されたわけではない。だが、真実と向き合い、それを受け入れることで、彼は、ようやく新たな一歩を踏み出す準備ができたのかもしれない。
数日後、海野は再び、深夜の東京の街を走っていた。タクシードライバーとしての、いつもの日常。しかし、彼の纏う空気は、以前とは明らかに違っていた。影を背負ったような、どこか近寄りがたい雰囲気は消え、そこには、静かで、穏やかな、しかし芯の通った落ち着きが漂っていた。
その夜、彼は、大きなギターケースを抱えた、若いミュージシャンの青年を乗せた。青年は、これから始まる自分のライブへの期待と、音楽への情熱を、目を輝かせながら語っていた。
「まだ全然、無名なんですけどね。でも、いつか、自分の音楽で、たくさんの人を元気づけたいんです!」
海野は、彼の話に、静かに耳を傾けていた。青年のひたむきな夢と希望が、彼の心にも温かく響く。
夜明け前の、空が白み始めた美しい時間帯。タクシーは、朝の光に向かって走っていく。海野は、自身の過去、現在、そして未来について考えていた。
過去の痛みや後悔が、完全に消え去ることはないだろう。それは、彼の人生の一部として、これからも彼と共にあり続ける。しかし、それを受け入れた上で、前を向いて生きていくことはできる。この深夜の街で、様々な人生とすれ違いながら、誰かのための小さな「灯り」として走り続けること。そして、かつての自分がそうであったように、暗闇の中で道を探している人々に、そっと寄り添うこと。それが、彼が見出した、これからの人生の、新たな航路なのかもしれない。
「頑張ってください」タクシーが目的地に着き、青年が降りる際、海野は静かに声をかけた。「あなたの音楽が、たくさんの人の心を照らす日が来るのを、楽しみにしています」
「はい!ありがとうございます!」青年は、満面の笑みで頷き、希望に満ちた足取りで去っていった。
彼を見送りながら、海野は、昇り始めた朝日に目を細めた。新しい一日が始まる。
ダッシュボードの上の、真鍮の灯台模型が、朝の柔らかな光を受けて、静かに、しかし力強く輝いていた。それはまるで、過去の嵐を乗り越え、新たな夜明けを迎えた海野守自身の魂の光のように、そして、これからも誰かの行く先を照らし続けるであろう、希望の灯りのように、見えた。