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第11話『汐見崎からの手紙』

あれほど激しかった嵐が嘘のように過ぎ去り、数日が経った。季節は初夏へと戻り、夜の空気には、雨上がりの湿った土の匂いと、むせ返るような草いきれが混じり合っている。蛙の声が、どこか遠くで聞こえる。街はいつもの静けさを取り戻していたが、海野守の心の中は、嵐が去った後の海のように、静かでありながらも、底の方で複雑な潮流が渦巻いているかのようだった。




その夜、海野は非番だった。都心から少し離れた、静かな住宅街にある彼のアパートの部屋は、質素だが、隅々まで整頓されている。読みかけの本が置かれた小さなテーブル、窓辺で丸くなっている老猫のミオ、そして壁に掛けられた一枚の古い海図。いつもの、穏やかなはずの空間。しかし、今の海野には、その静けさがかえって落ち着かなかった。


ここ最近、立て続けに起こった出来事が、彼の心の湖に、次々と波紋を広げていた。泥酔した若い女性会社員、家出してきた少年、港町のブルースマン、記念日を忘れた夫、異国から来た労働者、そして、サンタクロースの格好をした老人……。彼らとの出会いは、海野に、様々な人生の断片を見せ、彼自身の内面にも、少なからぬ変化をもたらしていた。




そして、決定打となったのは、あの雨の夜に乗せた水野響子と、故郷への帰省帰りの村上浩との出会い、そして、嵐の夜の出来事だった。彼らが口にした「汐見崎」という地名。それは、海野が人生の半分近くを捧げ、そして、ある重い記憶とともに封印してきた場所の名前だった。さらに、若い小説家、神崎との対話は、語られなかった過去、記録に残されなかった出来事の意味を、彼に改めて問いかけてきた。


嵐の夜、ずぶ濡れで助けを求めてきた坂井美咲を無事に送り届けた後も、海野の脳裏には、かつて汐見崎で経験した、別の嵐の夜の記憶が、断片的に蘇っては消えるようになっていた。濃い霧、鳴り響く警報、緊迫した無線のやり取り、そして……あの貨物船の姿。靄がかかっていた記憶の輪郭が、少しずつ、しかし確実に、鮮明になりつつある。だが、核心部分には、まだ厚いヴェールがかかったままだ。思い出そうとすると、言いようのない罪悪感と恐怖感が、彼の思考を鈍らせる。






そんなことを考えながら、いつものようにアパートの集合郵便受けを確認しに行った時、彼は、そこに一通の、見慣れない封筒が差し込まれているのを見つけた。


古風な、少し黄ばんだ和紙の封筒。宛名には、彼の名前と住所が、丁寧だが、どこか硬質な、見覚えのあるような、ないような筆跡で書かれている。差出人の名前はない。しかし、裏面に押された消印を見て、海野の心臓は、どくん、と大きく跳ねた。


それは、汐見崎に最も近い、隣町の郵便局の消印だった。


言いようのない予感が、彼の全身を貫いた。それは、恐怖に近い感情であり、同時に、長年避け続けてきた何かに、ついに向き合わなければならない時が来たのだという、宿命的な覚悟のようなものでもあった。


彼は、震える手でその封筒を取り出し、足早に自分の部屋へと戻った。ドアを閉め、鍵をかける。まるで、これから何か、恐ろしい秘密に触れようとしているかのように。




テーブルの上に封筒を置き、しばらくの間、彼はただそれを見つめていた。開けるべきか、否か。この手紙は、彼の静かな日常を、根底から揺るがすものかもしれない。再び、あの暗い記憶の海へと、彼を引きずり込もうとしているのかもしれない。


しかし、もう、逃げることはできない。最近の出来事が、彼にそう教えていた。彼は、深呼吸を一つすると、ペーパーナイフを手に取り、慎重に封を切った。


中には、便箋が数枚、折り畳まれて入っていた。インクで書かれた文字は、封筒の宛名と同じ、丁寧だが硬質な筆跡。それは、ある人物からの、長年にわたる想いが込められた、告白の手紙だった。




『海野守様


突然のお手紙、失礼いたします。あなたが、かつて汐見崎灯台にいらっしゃった海野守さんご本人であると信じて、この手紙を書いております。私の名前を名乗るべきか迷いましたが、今はまだ、その勇気が持てませんこと、お許しください。


あなたがこの手紙を読んでくださるかどうかも分かりません。もしかしたら、読まずに破り捨ててしまうかもしれない。あるいは、読んだとしても、私のことなど、あるいは、私がこれから書くことなど、とうに忘れ去ってしまっているかもしれない。そう思うと、今も、指が震えております。


ですが、私は、どうしても、あなたにお伝えしなければならないことがあるのです。長年、私の胸の中に、重い鉛のように沈み続けてきた、あの日のことについて……。


あなたが覚えていらっしゃるかは分かりませんが、〇〇年前の秋、汐見崎沖で、貨物船「海星丸」が座礁した事故がありました。激しい嵐の夜のことでした……』




手紙は、そう始まっていた。海星丸座礁事故。その名前を聞いた瞬間、海野の記憶の扉が、激しい音を立てて開かれた。そうだ、あの船の名前は、確かに海星丸だった。


手紙には、事故当時の状況が、差出人の視点から、克明に、あるいは感情的に綴られていた。嵐の中、必死で助けを求めた船員たちのこと。現場に駆けつけた救助隊のこと。そして、灯台から状況を見守り、指示を出していたであろう、海野自身のこと……。




『あの夜、灯台からの情報は、我々にとって唯一の頼りでした。しかし、その情報は、時に混乱し、錯綜していたように記憶しています。本当に、他に取るべき道はなかったのでしょうか。もっと早く、救助の手が差し伸べられていれば、助かった命があったのではないでしょうか……』




手紙の筆致は、次第に熱を帯び、長年抑え込んできたであろう、悲しみ、怒り、そして深い疑問が、行間から滲み出てくるかのようだった。




『あなたは、あの時、現場で何を見て、何を知っていたのですか? 全ては、避けられない天災だったと、本当にそう言い切れるのでしょうか? 私には、どうしても、そうは思えないのです。何か、私たちが知らない事実が、隠されているのではないかと……』




そして、手紙は、ある特定の人物の名前を挙げ、問いかけていた。




『〇〇さんのことを、覚えていらっしゃいますか? 彼は、あの船に乗っていました。そして、最後まで、他の乗組員を助けようと、奮闘していたと聞いています。彼の最後の瞬間を、あなたはご存知ではないでしょうか……』




その名前……。海野は、息を飲んだ。そうだ、確かに、そんな名前の船員がいた。若い、実直そうな青年だった。彼の顔が、朧げながら、記憶の霧の中から浮かび上がってくる。


手紙を読むうちに、海野の顔からは血の気が引き、呼吸は浅く、早くなっていた。全身から、冷たい汗が噴き出す。まるで、嵐の海の冷たい水の中に、再び突き落とされたかのようだ。封印してきたはずの記憶の奔流が、彼の意識を飲み込もうとしていた。




『……どうか、一度、お話を聞かせていただけないでしょうか。私は、ただ、真実が知りたいのです。そして、長年抱え続けてきたこの想いに、区切りをつけたいのです。もし、お会いいただけるのなら……』




手紙の最後は、差出人の切実な願いで結ばれていた。連絡先は書かれていない。ただ、会うことを望むならば、という、一方的な呼びかけだけが、そこにはあった。


手紙を読み終えた海野は、しばらくの間、呆然と便箋を握りしめたまま、動くことができなかった。頭の中が、激しく混乱している。罪悪感、怒り、悲しみ、恐怖、そして、真実を知りたいという強い欲求。様々な感情が、嵐のように渦巻いていた。


彼の脳裏に、あの嵐の夜の光景が、これまでにないほど鮮明な映像となって、フラッシュバックした。




……激しい風雨が灯台の窓を叩き、建物全体が軋むような音を立てている。無線からは、雑音に混じって、海星丸からの緊迫した声が断続的に聞こえてくる。「浸水が止まらない!」「機関室に応答がない!」「船体が傾いている!」……。レーダーには、岬の岩礁に異常接近していく船影が映し出されている。外は、完全な闇と、吹き荒れる嵐。救助艇を出すことは、不可能に近い状況だった。




「なんとか、持ちこたえてくれ!」海野は、マイクに叫んでいた。隣には、年上の同僚(そういえば、彼がいたはずだ)が、青い顔で海図と睨めっこしている。「このままでは、岩にぶつかるぞ!」


「進路変更を指示しろ!」同僚が叫ぶ。


「無理です! もう舵が効かないと!」


絶望的な状況。時間だけが、刻一刻と過ぎていく。そして、ついに、無線から、あの言葉が聞こえた。「総員、退船準備!」……。


その後の記憶は、断片的だった。救助活動の混乱、打ち上げられた残骸、そして、冷たくなった体……。助かった命と、失われた命。自分は、あの時、灯台守として、最善を尽くしたのだろうか? 下した判断は、正しかったのだろうか? もっと、何かできたことがあったのではないか……?


そして、事故後の処理。公式な報告書。そこには、書かれなかったこと、あるいは、意図的に伏せられたことが、あったのではないか……? なぜ、自分は、これまでこの記憶に、深く蓋をしてきたのだろう。それは、耐え難い罪悪感から逃れるためだったのか。それとも、何かを守るためだったのか……。




どのくらいの時間が経っただろうか。海野は、はっと我に返った。手の中に握りしめられた便箋は、彼の汗で湿っていた。窓の外は、いつの間にか、深い夜の色に染まっている。


彼は、立ち上がり、部屋の中をゆっくりと歩き回った。壁に掛けられた海図を見つめる。汐見崎の、あの複雑な海岸線。そして、海星丸が座礁したとされる、沖合の岩礁地帯。


このまま、この手紙を破り捨て、再び記憶に蓋をして、何もなかったかのように生きていくこともできるかもしれない。誰も、彼を責めはしないだろう。事故から、もう何十年も経っているのだ。




だが、彼の心は、それを許さなかった。ここ数か月で出会った、様々な人々との対話。彼らの抱える苦悩や、過去への後悔、そして、未来へのささやかな希望。それらに触れる中で、海野自身も、少しずつ変わってきていたのだ。過去から目を背け、沈黙を守り続けることは、もう、彼にはできなかった。


手紙の差出人は、真実を知りたいと願っている。そして、海野自身もまた、心の奥底では、あの日の真実と向き合いたいと、ずっと思っていたのかもしれない。たとえ、それがどれほど痛みを伴うものであったとしても。


彼は、深呼吸を一つすると、顔を上げた。その目には、もう迷いはなかった。恐怖や不安を乗り越えた、静かだが、鋼のように強い決意の色が宿っていた。




彼は、電話を取り、タクシー会社に連絡を入れた。数日間、休暇を取りたい、と。理由は、個人的な用事、とだけ告げた。


そして、彼は、旅の準備を始めた。目的地は、ただ一つ。


汐見崎。


手紙の差出人に会いに行くためか、あるいは、まず自分自身の記憶と向き合うために、あの場所へ、自分の足で赴く必要があった。




深夜のタクシー業務を終え、アパートに戻った海野は、小さな旅行鞄に着替えを詰めた。そして、最後に、いつもダッシュボードの上に置いている、あの真鍮製の灯台の模型を、そっと手に取り、ジャケットの内ポケットにしまい込んだ。それは、これから始まる、過去への長く、そしておそらくは困難な航海における、彼自身の、唯一の羅針盤となるのかもしれない。


窓の外は、静かな夜がどこまでも広がっている。しかし、海野守の心の中では、過去の嵐が再び吹き荒れ、そして、真実へと向かう、新たな航海の始まりを告げる、静かな号砲が鳴り響いていた。

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