第10話『嵐、止むとき』
それは、まるで世界が終わるかのような、凄まじい嵐の夜だった。梅雨の末期に訪れた、発達した低気圧。叩きつけるという表現が生易しく感じるほどの激しい雨が、フロントガラスを絶え間なく打ち、視界を白く染め上げる。強風は、街路樹を根元から引き抜かんばかりに揺さぶり、建物の壁にぶつかっては、獣のような低い唸り声を上げていた。道路はあっという間に冠水し、マンホールからは水が逆流している。
海野守は、クラウンコンフォートのステアリングを、いつも以上に強く握りしめていた。ワイパーを最速で動かしても、降り注ぐ雨量には到底追いつかない。まるで、濃霧の中を手探りで進む船のように、タクシーはゆっくりと、しかし確実に前進していた。こんな夜に車を出すのは危険極まりない。それは重々承知している。しかし、こういう夜だからこそ、助けを必要としている人がいるかもしれない。その思いが、彼をハンドルから手を離させなかった。
灯台守だった頃の、嵐の夜の記憶が、嫌でも蘇ってくる。陸から隔絶された岬で、自然の猛威にたった一人で対峙する恐怖。岩に砕け散る波の轟音、全てを薙ぎ倒そうとする風の叫び。そして、闇の中で点滅する船の灯りが、ふいに消えた瞬間の、あの心臓が凍りつくような感覚……。救いを求める無線の声、混乱と絶望が入り混じった叫び。そして、自分の無力さを突きつけられた、あの朝の光景……。後悔と罪悪感が、重い錨のように、今も彼の心の奥底に沈んでいる。
「危ない!」
突然、助手席側の歩道の暗がりから、何かが飛び出してきた。海野は、咄嗟にブレーキを踏み、ハンドルをわずかに切る。キーッというタイヤが水を裂く音とともに、車はすぐ目の前で停止した。ヘッドライトに照らし出されたのは、ずぶ濡れになった一人の若い女性だった。
年の頃は三十代前半だろうか。薄手のワンピース一枚という姿で、雨に打たれて髪は顔に張り付き、服装は泥で汚れている。まるで、家の中からそのまま飛び出してきたかのようだ。彼女は、恐怖に歪んだ顔で、車の前に立ち尽くしている。そして、タクシーだと認識すると、わなわなと震える手で、必死にドアを開けようとした。
海野は、すぐにロックを解除し、後部ドアを開けた。女性――坂井美咲と後に分かる彼女は、まるで何かに追われるように、転がり込むようにして後部座席に体を滑り込ませた。そして、ドアが閉まるか閉まらないかのうちに、叫ぶような声で言った。
「お願い、早く! どこでもいいから、ここから離して! 早く!」
彼女は、体を極限まで小さく縮こまらせ、怯えた目で後方を振り返っている。その尋尋常でない様子に、海野はただならぬものを感じ取った。今は理由を尋ねている場合ではない。彼は、後方の安全を確認し(追ってくる車の姿は見えなかった)、ゆっくりと、しかし確実にアクセルを踏んだ。タクシーは、再び激しい雨風の中へと走り出す。
車内には、美咲の荒い呼吸と、雨が車体を叩く音だけが響いていた。彼女は、まだ恐怖から抜け出せないのか、小刻みに体を震わせ続けている。時折、うめき声のようなものを漏らし、後方の窓を何度も振り返る。明らかに、何か、あるいは誰かから逃げてきたのだ。
「大丈夫ですか? 少し、落ち着いてください」
海野は、できるだけ穏やかな、しかし落ち着いた声で話しかけた。急な問い詰めは、彼女をさらに混乱させるだけだろう。
「何か、ありましたか? 怪我はしていませんか?」
美咲は、びくりと肩を揺らし、海野の顔を怯えた目で見た。その瞳には、深い恐怖と、誰をも信じられないというような不信の色が浮かんでいる。
「……」彼女は、何かを言おうとして、しかし言葉にならず、ただ首を横に振るだけだった。
「警察に行きますか? それとも、どこか安全な場所にご案内しましょうか?」
海野の冷静な問いかけと、外界の嵐から守られた車内という空間が、少しずつ彼女の心を解きほぐしていったのかもしれない。彼女の呼吸が、ほんの少しだけ、落ち着きを取り戻し始めた。
「……追ってくる……」しばらくして、彼女は、か細い、途切れ途切れの声で呟いた。「あの人が……私を……殺そうと……」
具体的な状況は語られなかった。だが、その言葉と、彼女の全身から発せられる恐怖の波動は、彼女が深刻な危機――おそらくは、身近な人間からの暴力や脅威――に晒されていたことを、雄弁に物語っていた。
「もう、どこにも……逃げ場なんて……ない……」
絶望的な響きを帯びたその言葉に、海野の胸が締め付けられた。守らなければならない。この人を、安全な場所へ送り届けなければならない。その思いが、彼の中で急速に強まっていく。
その時だった。突風が、まるで巨大な手で車体を横殴りにするかのように吹き付け、車が大きく揺れた。同時に、ワイパーの動きを遥かに超える量の雨が、滝のようにフロントガラスに降り注ぎ、一瞬にして視界が完全に奪われた。まるで、深い海の底に突き落とされたかのような感覚。
「うわっ!」
後部座席で、美咲が短い悲鳴を上げた。
海野の脳裏に、あの嵐の夜の光景が、鮮明にフラッシュバックした。叩きつける波、全てを飲み込むような闇、無線から聞こえた断末魔のような叫び、そして、朝日の中に浮かび上がった、無惨な残骸……。救えなかった命への、深い悔恨と無力感。あの時と同じような状況が、今、目の前で繰り返されようとしているのか?
「くそっ!」
海野は、思わず奥歯を噛みしめた。ステアリングを握る手に、汗が滲む。過去のトラウマが、彼の冷静さを奪おうとする。しかし、彼は首を振って、その幻影を振り払った。今は、過去に囚われている場合ではない。目の前には、助けを必要としている人がいるのだ。今度こそ、守り抜かなければならない。
彼は、深呼吸を一つすると、努めて落ち着いた声で、後部座席の美咲に語りかけた。
「大丈夫ですよ。落ち着いてください」
その声には、彼自身の恐怖を抑え込もうとする、強い意志が込められていた。
「私がいた灯台でも、これほどの嵐は、何度も経験しました」彼は、自分自身に言い聞かせるように、そして美咲を励ますように、語り始めた。「視界が全く効かなくなり、風と波の音で、自分の声さえ聞こえなくなるような夜もありました。世界が、闇と混沌に飲み込まれてしまったかのような……」
「……」美咲は、息を詰めて彼の言葉を聞いていた。
「ですがね」海野の声に、力がこもる。「どんなに激しい嵐も、永遠には続きません。必ず、止む時が来るんです。そして、どれほど視界が悪くても、経験を積んだ船乗りは、僅かな兆候から、安全な港へと続く航路を見つけ出すものです」
彼は、バックミラー越しに、美咲の目を見た。その瞳には、まだ恐怖の色は濃いが、同時に、彼の言葉の中に、何か一条の光を見出そうとしているかのような、かすかな希望の光が灯り始めていた。
「あなたも、今、人生の激しい嵐の中にいるのかもしれない。どこへ逃げればいいのか、航路を見失い、絶望的な気持ちになっているのかもしれない」
「……でも、どうすれば……」美咲の声は、まだ震えていた。
「まずは、落ち着いて、状況を把握することです。そして、どこへ向かうべきか、自分で決めること。ただ逃げ惑うだけでは、漂流する船と同じです。どこか、目指すべき港を定めなければ」
海野の言葉と、彼の持つ、どんな嵐にも揺るがない灯台のような存在感が、美咲の混乱した心に、少しずつ秩序を取り戻させていったようだった。彼女のパニックは収まり、代わりに、自分の置かれた状況と、これからどうすべきかという、現実的な問題に向き合おうとする意志が見え始めていた。
「警察に……行くべきでしょうか……でも、あの人が……」彼女は、ためらいながら言った。報復を恐れているのかもしれない。
「警察は、あなたを守るための選択肢の一つです。あるいは、女性のためのシェルターのような、一時的に身を隠せる場所もあります。遠くに、頼れるご親戚や、ご友人はいますか?」
海野は、具体的な選択肢をいくつか提示した。決して、彼が判断を下すのではない。あくまで、彼女自身が考え、決断するための材料を提供するだけだ。
「どこへ行くかは、あなたが決めることです。決めていただければ、私は、責任を持って、安全にそこまでお送りします」
彼の静かで力強い言葉に、美咲はしばらくの間、黙って考え込んでいた。車内には、依然として激しい雨音と風の音が響いていたが、その音は、先ほどまでとは少し違って聞こえた。それは、ただの脅威ではなく、乗り越えるべき試練のように感じられたのかもしれない。
やがて、美咲は、顔を上げた。その目には、まだ涙が浮かんでいたが、そこには確かな決意の色が宿っていた。
「……警察へ、連れて行ってください」彼女は、はっきりとした声で言った。「もう、逃げるのはやめます。ちゃんと、助けを求めます」
「承知しました」
海野は、力強く頷いた。ちょうどその時、まるで彼女の決意に応えるかのように、あれほど激しかった雨風が、少しだけ、その勢いを弱め始めたようだった。
タクシーは、最も近い警察署へと向かった。嵐はまだ続いていたが、先ほどまでの絶望的な状況は脱し、ワイパーもなんとか視界を確保できる程度には回復していた。
警察署の青い看板が見えてくると、美咲は深呼吸を一つした。
「着きましたよ」
海野が告げると、彼女は財布を取り出そうとした。
「いえ、結構です」海野は、静かにそれを制した。「今は、ご自身の安全のことだけを考えてください」
「……」美咲は、驚いたように海野を見た。そして、その目に、深い感謝の色を浮かべた。
「ありがとう……ございました」彼女の声は、涙で震えていた。「あなたがいなかったら、私……どうなっていたか……」
「強く生きてください」海野は、短く、しかし心を込めて言った。「嵐は、必ず止みますから」
美咲は、何度も何度も頭を下げると、意を決したように車を降り、雨の中を警察署の入り口へと駆け込んでいった。その小さな背中には、まだ恐怖の影は残っていたが、同時に、暗闇の中から一歩を踏み出そうとする、人間の持つ強い生命力が感じられた。
彼女の姿が見えなくなるまで見送った後、海野は、ゆっくりとタクシーを発進させた。彼の心には、嵐の夜の激しい体験と、過去のトラウマと再び向き合ったことによる、重いが、しかし確かな手応えのようなものが残っていた。
「守る」ということ。それは、時に、自身の内なる嵐とも対峙しなければならない、重い責任を伴う行為だ。かつて救えなかった命への悔恨が、完全に消え去ることはないだろう。だが、今夜、目の前の人を守り、次の一歩へと送り出すことができた。その事実に、彼は、ほんのわずかながら、救いのようなものを感じていた。
嵐は、明らかに峠を越え、雨脚はさらに弱まっていた。東の空が、厚い雲の向こうで、ほのかに明るくなり始めている。夜明けが近い。
ダッシュボードの上の、真鍮の灯台模型が、静かに前方を照らしている。それはまるで、どんなに激しい嵐の後にも、必ず静かな夜明けが訪れるのだと、そして、人生の航路を照らす希望の灯りは、決して消えることはないのだと、静かに、しかし力強く、告げているかのようだった。