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第1話『午前零時の航路』

アスファルトの海が、深い藍色に沈んでいく時間だった。 金曜日の喧騒は、まるで満ち潮が引くように、少しずつその勢いを失い始めていた。週末という名の岸辺を目指し、人々が家路へと吸い込まれていった後の、つかの間の静寂。それでも、眠らない街の鼓動は、遠いエンジンの唸りや、時折響く甲高い笑い声となって、湿り気を帯びた初夏の夜気に溶け込んでいる。




海野守(うみのまもる)は、ステアリングを握る手に意識を集中させながら、フロントガラス越しに広がる夜景を眺めていた。ビルの谷間を縫うように走る車のテールランプの赤い光跡は、まるで夜光虫の群れのようだ、と彼は思う。この都会という名の、果てしない海原を。


彼の相棒である濃紺のクラウンコンフォートは、最新の車両ではないが、隅々まで手入れが行き届き、静かなエンジン音を立てて夜の街を滑るように進む。ダッシュボードの中央には、彼がかつて守っていた汐見崎(しおみざき)灯台を模した、小さな真鍮製の模型が置かれている。磨き込まれたそれは、街灯の光を受けて鈍く輝き、まるでこの車の羅針盤であるかのように、前方を指し示していた。助手席の足元には、アンティーク調のオイルランプ風LEDライトが置かれ、暖かなオレンジ色の光が車内を柔らかく満たしている。ほのかに漂う白檀の香りが、都会の喧騒とは一線を画した、穏やかな空間を作り出していた。




海野は、灯台守としての職を失ってから、この深夜のタクシードライバーという仕事に就いて二年になる。昼間の眩しすぎる光と、絶え間ない人の流れよりも、全ての色が深い闇に溶け、個々の存在が際立つこの時間帯の方が、彼の性には合っていた。灯台守だった頃と同じように、夜の世界で、誰かの道筋をそっと照らす。役割は変わっても、根底にあるものは同じなのかもしれない、と彼は時折考える。


無線は沈黙したままだ。流し営業の彼は、ただひたすらに、このアスファルトの海を漂う。誰かを待っているわけではない。ただ、そこにいる。必要とされる時を、静かに待つ。灯台が、嵐の夜に助けを求める船を待つように。




オフィス街に近い、少し入り組んだ路地へハンドルを切った時だった。前方、ゴミ集積所の脇に、不自然な人影があるのが見えた。近づくにつれて、それがスーツ姿の若い女性であることがわかる。ブランド物の鞄をしっかりと抱えたまま、壁に背を預けるようにして、ぐったりと座り込んでいる。長い髪が顔にかかり、表情は窺えない。だが、その姿は明らかに尋常ではなかった。


海野は、ゆっくりとタクシーを路肩に寄せ、ハザードランプを点滅させた。ドアを開け、外に出ると、むわりとした夜気が肌にまとわりつく。居酒屋の換気扇から漏れる油の匂いと、微かなアルコールの匂い。


「お客さん、大丈夫ですか?」


声をかけるが、女性からの反応はない。肩が小さく上下していることから、眠っているわけではなさそうだ。もう一度、少し大きな声で呼びかける。


「お客さん。こんなところでどうしました? 終電はもうありませんよ」


ぴくり、と女性の肩が動いた。ゆっくりと顔が上がり、海野の方を向く。整った顔立ちだが、化粧は崩れ、目は虚ろに宙を泳いでいる。相当、酔っているようだった。


「……うるさい……ほっといてよ……」


かろうじて聞き取れる声で、彼女は呟いた。だが、その声には力がなかった。


「具合が悪いのですか? それとも、何かありましたか?」海野は努めて穏やかな声で問いかける。彼の低い、落ち着いた声が、少しだけ彼女の意識を現実に引き戻したのかもしれない。


「……さいあく……もう、ぜんぶ、おわり……」


再び俯いてしまう。その肩が、今度は小さく震えているように見えた。




周囲には、時折酔客が通りかかるが、誰も彼女に注意を払う様子はない。この街では、日常的な光景なのかもしれない。だが、海野は放っておけなかった。灯台守だった頃、彼は荒れた海で助けを求める弱い光を、決して見逃さなかった。


「立てますか? とりあえず、車の中へ。少し休んだ方がいい」


海野は屈み込み、彼女の腕にそっと触れた。その瞬間、彼女はびくりと体をこわばらせたが、拒絶はしなかった。むしろ、藁にもすがるように、海野の腕にかすかな力を込めた。


ゆっくりと立ち上がらせ、タクシーの後部座席へと促す。彼女の体は、まるで芯がないかのようにふらついている。なんとかシートに座らせ、ドアを閉める。運転席に戻り、改めて行き先を尋ねた。


「どちらまでお送りしましょうか」


彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で、郊外の住宅地の名前を告げた。呂律はまだ怪しかったが、意識は少しはっきりしてきたようだ。


海野は頷き、ゆっくりとアクセルを踏んだ。タクシーは、再び夜の海へと滑り出した。




しばらくの間、車内には沈黙が流れていた。エアコンの静かな作動音と、タイヤがアスファルトを捉える音だけが聞こえる。後部座席の彼女は、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めているようだった。


だが、その沈黙は長くは続かなかった。まるで、溜め込んでいたものが堰を切ったように、彼女はぽつり、ぽつりと話し始めた。


「……信じられない。あんなミス、するなんて……」


声はまだ震えていたが、そこには酔いだけではない、深い悔恨の色が滲んでいた。


「私が、全部、台無しにしちゃったんだ……あのプロジェクト、どれだけ大事だったか……みんな、どれだけ頑張ってきたか……なのに、私一人のせいで……」


海野は黙って耳を傾けていた。アクセルとブレーキを操作する足元以外、体はほとんど動かさない。バックミラー越しに見える彼女の表情は、街灯の光と影の中で、苦痛に歪んでいる。


「上司にも、めちゃくちゃ怒鳴られて……当然だけど。『君には失望した』って……もう、会社にいられない……行く場所なんて、ない……」




企画部に所属しているらしい彼女――高梨沙織と名乗った――は、大手クライアント向けの重要なプレゼンテーションで、致命的な資料のミスを犯したのだという。数値の間違い、それも桁を一つ間違えるという、初歩的でありながら取り返しのつかないミス。プレゼンはその場で中断され、長期間準備してきたプロジェクト自体が、白紙に戻る可能性すらある、と。


「なんで気づかなかったんだろう……何度もチェックしたはずなのに……もう、自分が信じられない……」


彼女の声は次第に熱を帯び、語気も荒くなっていく。それは自分自身への怒りであり、同時に、どうしようもない状況への悲鳴のようにも聞こえた。


「あんた、聞いてるの!? ただの運転手にはわかんないでしょうけどね! エリートコースから転落する人間の気持ちなんて!」


突然、矛先が海野に向けられた。八つ当たりだと、彼女自身もわかっているのだろう。だが、そうせずにはいられないほど、心が追い詰められている。


海野は、一瞬だけバックミラーで彼女の目を見た。その目は怒っているようで、泣いているようでもあった。


「……聞いていますよ」


静かに、しかしはっきりと答える。それだけだった。余計な同情も、安易な励ましもしない。ただ、事実を告げる。




その反応が、かえって沙織を苛立たせたのかもしれない。彼女はさらに言葉を続けた。


「ふん、聞いてるだけ? 何か言ったらどうなのよ!? 『大変でしたね』とか、『気にするな』とか! 何でもいいから!」


「……」


海野は答えない。ただ、前方の道を静かに見据えている。車はいつしか、きらびやかな都心部を抜け、街灯の数もまばらな郊外へと続く道を走っていた。




沙織は、海野の沈黙に、まるで張り合うように言葉を続けたが、それも次第に途切れがちになっていった。吐き出せば吐き出すほど、虚しさが募るのかもしれない。あるいは、海野の揺るがない静けさが、彼女の荒れ狂う感情の波を、少しずつ鎮めていくのかもしれない。


車内に、再び沈黙が訪れた。今度は、先ほどとは違う、少し重苦しい静けさだった。沙織の荒い息遣いだけが、やけに大きく聞こえる。




窓の外では、いつしか月が雲間から顔を出していた。青白い光が、車内を横切る。


その時、海野が静かに口を開いた。


「海が、いつも穏やかとは限りませんから」


その声は低く、落ち着いていて、夜の静寂にすっと溶け込んだ。




沙織は、虚を突かれたように顔を上げた。バックミラー越しに、海野の横顔が見える。彼は前を向いたまま、言葉を続ける。


「私がいた灯台は、太平洋に面した、ずいぶんと波の荒い場所にありました。穏やかな凪の日もあれば、全てを飲み込もうとするかのような大時化(おおしけ)の日もある」


海野は、遠い記憶を手繰り寄せるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「嵐の夜は、恐ろしいですよ。風は吠え、波は壁のようにそそり立ち、灯台の土台を揺るがす。視界はゼロに近く、雨と波飛沫(なみしぶき)で何も見えなくなる。自分の無力さを、これでもかと思い知らされる夜です」


彼の言葉には、奇妙なリアリティがあった。ただの想像や聞きかじりではない、実体験から来る重み。沙織は、いつの間にか彼の話に引き込まれていた。


「そんな夜でも、灯台守は光を絶やすわけにはいかない。霧が深ければ霧笛を鳴らし、嵐が強ければ、ただひたすら、灯りが消えぬよう見守り続ける。沖合には、その僅かな光を頼りに、必死で舵を取っている船がいるかもしれないからです」


海野の声は淡々としていたが、そこには確かな矜持が感じられた。


「必死に航路を守ろうとしても、どうしても避けられない困難もある。予期せぬ暗礁に乗り上げたり、巨大な波に呑まれたり……自然の力の前では、人間の力など、あまりにも小さい」




彼はそこで一度言葉を切り、小さく息をついた。


「ですがね、高梨さん」


初めて、彼は沙織の名前を呼んだ。


「どんな嵐も、永遠には続きません。必ず、止む時が来る。そして、嵐が去った後の海は、嘘のように静かになることもあるんです。洗い流された空気の中で、朝の光が水平線から差し込む……その美しさは、経験した者でなければわからないでしょう」




海野は、バックミラー越しに沙織を見た。彼女は、じっと彼の言葉に耳を傾けていた。その目には、先ほどの荒々しさは消え、深い混乱と、そしてほんの少しの好奇の色が浮かんでいた。


「人生も、同じかもしれませんな。予期せぬ嵐に見舞われることも、自分の力ではどうしようもない大波に襲われることもある。航路を見失い、途方に暮れる夜もあるでしょう」


「でも……」沙織が、か細い声で呟いた。「私は、自分で船を座礁させたようなものだから……」


「そうかもしれません。ですが、座礁した船も、引き上げられれば、また海に出られるかもしれない。傷を修理し、航路を修正すれば、以前とは違う港にたどり着けるかもしれない」


海野の声は、どこまでも静かだった。


「大切なのは、諦めずに、もう一度、自分の手で舵を取り直そうとすることではないでしょうか。たとえ今は、真っ暗な海の上に、たった一人でいるように感じられたとしても」


車内に、再び静寂が戻った。だが、今度の静寂は、先ほどまでとは明らかに違っていた。それは、重苦しいものではなく、むしろ、何か大切なものが満ちているような、澄んだ静けさだった。




沙織は、窓の外に目をやった。流れていく住宅地の明かりが、先ほどよりも少しだけ温かく見える気がした。自分の犯したミスの重大さが消えたわけではない。明日、会社に行くことへの恐怖がなくなったわけでもない。それでも、心の奥底で凍りついていた何かが、ほんの少しだけ、溶け始めたような感覚があった。


「……なんで、そんなこと、わかるんですか?」


沙織は、ぽつりと尋ねた。


「さあ。ただの、年寄りの繰り言ですよ」


海野は、そう言って、小さく笑ったように見えた。




やがて、タクシーは沙織が告げた住所の、比較的新しいマンションの前に到着した。オートロックのエントランスが、静かに佇んでいる。


「着きましたよ」


海野の声で、沙織ははっと我に返った。メーターに表示された料金を確認し、財布から少し多めの紙幣を取り出す。


「あの……お釣りは、結構です」


「いえ、そういうわけにはいきません」


海野はきっぱりと言い、メーター通りの料金を受け取ると、慣れた手つきでレシートとお釣りを渡した。レシートには、「海野個人タクシー」という文字と電話番号だけが印字されている。




「……ありがとうございました」


沙織は、改めて深く頭を下げた。


「少し……楽になりました。馬鹿なこと、たくさん言ってすみません」


「いいえ」海野は短く答える。「誰にでも、嵐の夜はありますから」


「……明日は、ちゃんと会社に行きます。逃げずに、謝って、それから……どうするか考えます」


その声には、まだ弱々しさは残っていたが、確かな意志が感じられた。


「ええ。それがいいでしょう」海野は頷いた。「お気をつけて」




沙織はもう一度頭を下げ、少しふらつきながらも、自分の足でしっかりとマンションのエントランスへと歩いていった。オートロックのドアが開き、彼女の姿が吸い込まれていくのを見届けてから、海野は静かに車を発進させた。


再び、深夜のアスファルトの海へ。




空は、東のほうが僅かに白み始めていた。夜明けが近い。海野は、ステアリングを握り直し、前を見据える。


人生という航海。誰もが、それぞれの船を操り、それぞれの海を渡っていく。時には順風満帆な日もあれば、激しい嵐に見舞われる日もある。座礁することも、漂流することもあるだろう。それでも、人は夜明けを信じ、再び舵を取ろうとする。




彼は、灯台守だった頃、遠い水平線に昇る朝日を、何度見ただろうか。暗闇を照らし、新たな一日の始まりを告げる、荘厳な光。その光景は、彼の心に深く刻まれている。


あの若い女性もまた、今日の夜明けを、新たな気持ちで迎えられるだろうか。嵐が去った後の、静かな朝の光の中で、自分の進むべき航路を、再び見つけ出すことができるだろうか。


海野には、祈ることしかできない。そして、今日もまた、この深夜の街で、誰かのための小さな灯りを灯し続ける。必要とされる、その時まで。


ダッシュボードの上の、真鍮の灯台模型が、昇り始めた朝の光を反射して、静かにきらめいていた。それはまるで、これから始まる長い一日の航路を、静かに、しかし力強く照らし出しているかのようだった。

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