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浅緑  作者: 菜箸
9/20

九、



吾人には吾人の世界がある。日が昇る時、どこかでは日が落ちる。人が生まれる時またある人が死んでいる。ヨーロッパで序を踏むとき、日本では破に差し掛かかっているかもしれない。私はここで叙述の方面をヨーロッパから日本に移す必要がある。そのほうが後の老人の哀れを引き出すことができるからである。世界というのは各人がもっていて尚且つ、世界は複数の世界によって成る。私はこの物語の世界を複数の世界をもって説明する義務がある。


丁度ヨーロッパの世界で、私がチェコ行きの汽車に揺られながら茫然として縹渺たる地平線を見詰めていた時分、日本の世界では、ある女が蝋燭ひとつの書斎のうちに、独りで時計の針の音を聞きながら、ある封筒と睨めっこをしていた。ある女とはのぶ代さんのことである。もう七十くらいな婆さんである。しかし、髪は黒いままである。背筋もすっと通っている。皺があっても頬肉が綺麗に締まっている。鼠色の着物を着こなしていて、若人のような派手は無い。しかし気品というのはこの人の為の言葉であるように思われる。のぶ代さんの、掌を膝の上で強く握って凝と見詰める先は、やはり漆塗りの机に据えられた一枚の封筒である。春の月が書斎を照らす。かちかちと時計が鳴る。蝋燭の炎がゆらゆら搖らぐ。汗がのぶ代さんの額を這う。それでも見詰めたままである。のぶ代さんは鬼気迫ったりといった表情である。ついに鬼気がのぶ代さんの喉元に逼った時、のぶ代さんは忽ち封筒を手に取った。封筒には大胆かつ繊細な字で遺言書と書かれている。次にのぶ代さんは封を開ける。紙が擦れる音が書斎に満たされる。もう大分なくなってしまった蝋燭の光が、勢いよく取り出した遺言書の文面を明らかにした。

のぶ代さんは正義の人である。困っている人があれば、損得を顧みず手を差し伸べる。のぶ代そんは義理の人である。受けた恩には、天地がひっくり返っても報いる。夫が胃潰瘍に罹ってからは女手一つで家を守ってきた。近所の者たちもみんな何かあったらのぶ代さんを尋ねる程であった。しかし昔からこうであった訳では無い。昔ののぶ代さんは、菊で髪飾りを作ったりするのが好きな愛らしい人であった。今より輪郭も大分と丸かった。今ののぶ代さんを形作ったのは凡てのぶ代さんの夫である。のぶ代さんの夫は生まれつきの正義の男であった。世の中を思って懸命に勉強した結果、立派な弁護士になった。のぶ代さんはこの男と出会って、男の正義が移ったのである。また、男はのぶ代さんの愛嬌に惹かれた。まったく性質の異なる二人の結婚が、二人を柔らかく融合させたのである。ここまでが昔話である。つい先刻、夫は胃潰瘍が悪化して死んでしまった。目の前には遺書がある。遺書にはこんなことが記されていた。


「これが読まれたということは、私、笹木哲夫は死んだのだろう。当然だが、これを書いている今現在私は活きている。丁度朝刊を読み終わったくらいなことだ。一寸胃が痛いくらいだ。従って、何を書けばいいのか一向分からん。今から死んだ後を想像するのは頗る難儀である。そもそも活きている内に死んだ後のことに頭を悩ますことが馬鹿げている。しかしながら、何もせずに死んでしまってはみんなに多分の迷惑をかけるだろうから、ひとつ奮発して書くことにした。まず、恐らくこれを初めに読むのはのぶ代だろう。お前には随分と世話になった。殊に胃がやられてからはお前に苦労させてしまった。結婚する時に、お前に迷惑はかけんとか言ったような気がするがそれを履行出来なかったことを済まなく思う。また、感謝の辞も述べたい。今、なにか一つ例をあげて感謝をしようと思ったが、特段何も思いつかない。とにかく有難く思っていることは確かだ。次に息子たちにだが、特にお前たちに言い残すことは無い。今まで通り気侭にやれば好い。不意があったら私の人生を参考にしろ。但し、恩は忘れるな。私たちは動物の類ではない。誇り高き人間である。故に、人情を重んじろ。お前たちなら私が居なくても御母さんを大事にするだろうからそこに憂いはない。続いて財産についてだが、家はのぶ代にやる。金銭の方は兄弟で三等分しろ。しかし、和夫がもう直ぐ結婚するようであるから少しばかり多めにくれてやってもいい。細かいところは、私には勘定出来んから、三人で話し合って極めろ。そして、申し訳ないが、今から言う人に感謝として指定の物を渡して欲しい。本来、私自身で渡すべきだが、どうも医者がやめろと言うからお前たちに一任する他ない。まず、隣の銀次さんには永らく世話になった。私が洋行した時分の土産と銀次さん宛の手紙があるからそれを渡しておいてやってくれ。東京に住んでいる、一君と与次郎君にも似たような物を用意しているから頼んだ。私を診てくれていた先生には、私の書斎にある漆塗りの机をやってくれ。どうやらあの人は骨董を趣味にしているらしい。清さんにも感謝をせねばならん。私が家を建ててから永らく下女として助力してくれた。この家には色々不平があるだろうが、私は清さんのことを家族の一員だと勝手に思っていた。また、私の本棚に名簿帳を挟んでおいたからそこに記載のある者に挨拶に行って欲しい。随分と長くなってしまった。ここまできて漸く死ぬ準備が出来たものと見える。しかし私はまだ死ぬ気は一向ない。また、今死んだところを想像して後悔があるかと言われるとないと答える。まあなんとなく好い人生であったように思われる。有難いものだ。」


これで遺言書は終わってしまった。次第にのぶ代さんの瞳から涙がぽたぽたと落ちてきて、遺言書に斑の模様が出来る。書斎はしんとしている。春の月は虫だけが元気に鳴いている夜を満遍なく照らしている。

半刻ほど経って、漸く涙が止まってきた。のぶ代さんは何でも結婚してから泣いた試しが無かったからどうすれば好いか判然としなかった。只、流るるが儘に流していたところに、ふやけた封筒の中にもう一つの手紙を発見した。震える手を何とか動かして手に取る。視界が涙でぼやけて読みにくいところを懸命に読む。


「のぶ代へ。例の遺言書を書いてから、三日程たった。あれから色々考えてみたが、我が人生に後悔なしというのは誤りであったふうに思われる。どうもあの男が思い浮かんでやまない。私はどうやら卑怯な様だ。こんな瀬戸際に至るまで思い出すこともなかった。紀文君との記憶は私の人生において最も疚しい問題である。そして彼は私の人生を通して最も尊敬の出来る男である。私はこの問題から逃げてはならん。死ぬ迄に日常に埋めてしまったこの問題を掘り起こして、なんとか解決せねばならん。しかし、誠に遺憾なことに私のこの身体では今紀文君のいるヨーロッパに活きている内にたどり着けるか判らん。もし、私がこの問題の中途に倒れてしまったら、後はお前に任せたい。お前は紀文君に並んで尊敬の出来る女だから任せるのだ。どうか頼まれてくれ。今紀文君がどんな状態かは一向わからん。しかしわからんからと言って諦めてしまっては私の凡てを否定することになる。実を言うと、私は紀文君に会った後の事を全く考えていない。紀文君はもうとっくにこの問題を忘れていて、久闊を叙することになるかもしれん。あるいは、紀文君は私を大いに恨んでいて、もはや口も利いてくれんかもしれん。紀文君の反応如何はこの際気にしない。とにかく私は紀文君に会わなければならん。あまりに自己中心的だろう。今思えば私はかなりの自己中心的人間であったかのように思われる。しかし、それでも紀文君とも出会ったし、お前とも出会えた。これまた自己中心的たが、私は最期に、私の人生は影の差すことのない幸福なものであったと思いたいのである。」


のぶ代さんはこれを読み切った時、初めて涙を拭いた。ばっと立ち上がってそのまま書斎の戸を開けた。のぶ代さんを心配した息子たちが直ぐに駆け寄ってきた。のぶ代さんは息子たちに遺書を渡した。長男が遺書を読み上げる。長男は読んでいる最中に泣き出してしまった。それに続いて下の二人も泣き出した。のぶ代さんは、そんな三人を傍目に荷造りを始めた。のぶ代さんは決意した。私が紀文さんに会わねばならん。私が私と夫の人生の光輝燦然たるを示さねばならん。

のぶ代さんは次の晩に日本を発った。

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