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浅緑  作者: 菜箸
8/20

八、

老人の奥さんをみてからしばらくたったが、やはり老人の本意は見えないままだ。あれから幾度か老人と散歩に行ったりもした。しかし解せぬ。やはりどうも私の愛のために死んだ、という句が頭にちらつく。それから上手く画も描けなくなった。私が描く哀れより老人の哀れが甚だ上等であると思われる。私は画家である。美しいものを描く義務がある。故に私は老人の哀れに潜むなにかを解かねばなならぬ。解けねば天下に画家を名乗ることが憚られる。自己に不安があれば美しさを見れない。ただの興味の裏に老人に近づいたのみであるが、なんだかなにかに逼られているように感ぜられる。

私は今、教会に来ている。

黒い長椅子が二列に並べられていて、私は適当なところに座っている。

全面にはキリストの画が壁一面に塗られている。人はさほどいない。軽い服装の西洋人がちらちら参拝するくらいである。それ以外は、金縁眼鏡の婆さんが前の方の長椅子に腰掛けているのみだ。オルガンの音色が小ぶりな教会を満たしている。演奏者は見えぬが格別上手いというわけではないのは慥かだ。五彩の磨硝子から差し込む陽光がキリストを温め、その下で器械的にドレミを繰り返しているのであろう。ここのキリストは東大寺の坊主の説法より幾分有難い。

爺さんが杖をついてふらふらとキリストの前に出てきた。恭しく手を重ねている。昔からの敬虔な信徒なのであろう。どこかで愛は信仰に近いと言った人がある。私もそう思う。しかしながら例の老人はそうは思っていないような口ぶりである。愛は醜いと言った。また、彼の昔の画が私のものと似ているとも言った。思うに、彼も過去は私と同じ敬虔な愛の信徒だったのかもしれん。あるいは愛の使徒だったかもしれない。しかし不幸なことに彼はユダだったのだ。最も信仰していた愛を裏切ってしまった。そうして彼は使徒ではなくなった。このように物語を結ぶと老人の哀れに似た感じが出てくる。しかし彼の裏切りの真意が見えない。そして私には彼がまだ愛の信徒であり続けているようにも感ぜられる。

私が更に頭を悩ませていると、どんどんと教会を響かせる音が聞こえた。振り返るとそこには泰造さんがあった。

「おい。」

泰造さんが私に呼びかける。私が、お座り、というと腕を組んでどっすりと座った。この世界の果てまで探検してもこの泰造さんをおいて最もキリストの背景が似合わん男はいないだろう。

「あなたが教会なんかにくるなんて驚きました。」

「なにそういう君も来ているじゃないか。」

私達は真前を向いてキリストの画を眺める。泰造さんにおいては睨むという言葉が似合う。

「時に泰造さん、あなた昔外交官をやっていたそうですね。」

泰造さんはしばらく黙る。

「例の老人から聞いたんです。」

「紀文さんは口が軽くて困るな。」

「失礼でしたか。」

「なにおれは天下一の外交官なんだから恥じるこたあないさ。」

「天下一がなぜ辞めちまったんです。」

「倅が死んだのさ。」

私は尋ねたことを少々後悔した。急いては事を仕損じるとはまさにこの事である。

「そしたらおれの同僚が、おれの癇性があたったんだ、なぞとほざきやがる。なにおれは癇性なんかじゃない。ちと性急なだけだ。おれは天下一の男だ。だからそれを証明するために毎週こんなところに通ってるのさ。」

この時は泰造さんの饒舌がいつもの二割方増して饒舌であったように思われる。

「それは残念でしたね。」

「哀れみはいらんさ。今は天下一の日本食の職人だからね。」

「ハハハ。」

「なにが可笑しい。」

「いえ、ちっと嬉しくなっただけです。また直ぐにでもあなたの店にお伺いしましょう。」

「だいたい画家なんてものは変なところで嬉しくなるもんだ。」

教会から出かけたところで振り返ってみると、足をゆさぶりながら泰造さんが、オルガンを聴いている。やはり泰造さんの性急は教会に似合わぬようだ。


下宿の床でだらだらやっていると戸を叩く音がした。

「なんでしょう。」

私は起き上がりざまにいう。戸を開けると老人が立っていた。

「どうぞお入り。」

「いえ、直ぐ済みますから。」

「へえ。」

「あなたは私と旅と共にしたいとおっしゃりました。」

「はい。」

「それは今も変わりませんか。」

「ええ、確かです。」

「では突然で心底申し訳ないが、チェコのほうに参りませんか。」

「はあ。でもなぜ。」

「特に理由という理由はありません。しかし私たちは画家です。こういうと偉そうだが、あなたのためにも是非チェコには訪れていただきたいのです。」

「構いませんが、チェコになにがあるというんです。」

「古城があります。」

「他には。」

「城下町もあります。教会もあります。美しい人もあります。」

「あなたがそこまで言うのなら確からしい。是非行かせてください。」

「ありがとうございます。では翌朝、汽車で向かいましょう。」

「解りました。」

ここまでいって老人とは別れた。

美味くも不味くもない膳を食べながら、チェコの古城を考えていたところ、どうも近頃は考えすぎなようで頭が痛くなってきたから今日は寝ることにした。


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