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浅緑  作者: 菜箸
7/20

七、



日本食の店で鮨を食った夕暮のことである。

街の方で画を描き終わって、今日はゆっくり休もうなどと考えていると下宿の軒先で例の老人にばったり出くわした。

「こんばんは。」

「こんばんは。」

老人は懇切に会釈した限り、どこかに行ってしまわれそうになったからあわてて話しかけた。

「どちらへ向かわれるのですか。」

「丁度、いい天気になりましたから店で珈琲でも飲もうかと思いまして。」

「ちと付いて行っても構いませんか。」

「平気ですよ。」

私は老人と肩を並べて歩く。やはり老人は喋らない。喋らないが、いままさに死にゆく春の太陽を、全身に浴びて頗るいい画になる。慥か、婆さんは枯れ木の下か冬の月の下に置くのが美しいといった人があった。その人には是非、爺さんは春の陽光の下に置くべきだと言ってやりたい。

銅が錆びて緑色になってしまった大きな橋を渡る。橋の出口には、下宿辺りとは一転していかにもローマ時代の都市というふうな活気あふれる街が広がっている。やはりローマの時代にはこの橋は赤銅色をしていたのであろうか。かつて英雄が朝敵征伐を掲げて、歓声の下、馬に跨って出陣したこの橋を、幾千の時を越えて今、二人の名もなき画家が寂しげに歩いている。さらに幾億年先には、宇宙人がここを歩いているかもしれない。あるいはその時にはすでにこの橋は錆びの緑を通り越して、朽ち切った黒になっているのかもしれない。

橋を渡り切ると、川沿いに道路を一つ挟んで珈琲店がある。私と老人はその店の赤と黄の廂の下の冷えた椅子に向かい合って腰かけた。

「今日はどうなすってたんです。」

「今日は朝早くから散歩をしていました。まだ雨が降る前でした。」

「道理で朝いらっしゃらなかった訳だ。ーーー実をいうと今朝、七時くらいにあなたを散歩に誘おうとしてたんです。」

「そうですか。すみません。」

「なに謝ることはありません。現にこうして一緒に散歩できてるじゃありませんか。」

「それは確かです。ーーーーはい、これを一つ戴きましょう。(以降、便宜上英語は日本語で記す)あなたはどうなさいます。」

「では私はブラックコーヒーを。」

ウエイターが足早に去っていく。そろそろ閉店なのだろう。再び会話は私から始まる。

「それでですね、今朝一人で散歩をしていたところ雨に降られまして、偶々日本食の店に寄ったんです。」

「へえ。」

「どうもそこの店主があなたのことを知っているみたいでして。」

「そう来ると、泰造君で確かでしょう。看板に大きく日本食と書いてありませんでしたか。」

「ええ書いてました。朝から鮨を食わされて大変狼狽しましたよ。」

「泰造君はあなたに何か言いましたか。」

「何かというと。」

「私のことです。」

「はあ、あなたのことですと慥か、私が人でなしの国に住んでいるというと、あなたはもっと深いところに住んでいると言っていました。」

「それ限りですか。」

「ええ、しかしなぜ。」

ここまで来て、注文の品が届く。私と老人の二人だけの世界にウエイターが迷い込んで、別な世界になってしまった。会話は一旦切れる。

「時にあなたは、泰造君からどのような印象を受けられましたか。」

「あの人は激しい感じでした。私が、触らぬ神に祟りなしといって怯えて触らんところを、その諺を知るのか知らんのか、とにかく事もなさげに触りに行く人のように感ぜられました。」

「実をいうと、あの人は昔外交官をやっていたんです。」

「そこで、ヨーロッパに居る訳ですか。」

「ええ。」

「しかしなぜ辞めてしまったんです。」

「まあ色々なことが起こったんです。」

「色々なことというと。」

「悲劇ですよ。」

私は悩ましく思った。この老人は、ものの形は見せるが肝要なところを見せてくれない。まるで煙のようだと思った。しかし私には、この煙の正体を解き明かして、それを画にする義務があるから、簡単に煙で済ますことはできぬ。

「その泰造さんがあなたの奥さんの画を見たことがあると言っていました。私にも見せていただけませんか。」

「そうですね。見せましょう。此方ばかり問を投げかけちゃ不相応だ。」

そう言って老人は力強く、しかしゆっくりと袂から掌くらいな画を取り出した。

古い画だった。燦爛たる春の上に藍色の涙を滴らして、小鳥の囀りの裏に独り幽玄の琴を弾ずるが如き眼をしている。冬の哀哭に草臥れて、来る春の活発なるに潜む大地の眠りに身を投げて裸の姿のまま死んでしまったようでもある。哀れの眼が細く切れた上には濃い眉がある。手のあたりまで伸びた艶やかな黒髪がある。その目鼻口及び手は人の茫然として眺むるうちに、か細き脈を通わしている。身に纏う着物はもちろん藍染めである。

「今こうして見てみるとあなたに大分と似ていますね。」

この老人の似ていますねという言葉は、容姿に対して使われた言葉ではないと容易に解った。

「これをあなたに見せられてよかったです。」

そういうと老人は私から目を離して、白い髭の中に熱い珈琲を流し込んだ。



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