六、
「へいらっしゃい。」
我が身から春雨が滴って、コンクリートに斑の影が差す。
「へいらっしゃい。」
この男は、幾億年前からへいらっしゃいを言い尽くして今朝の春雨に至ったのだろう。
「だいぶ濡れたね。」
私は円柱状のしゃれた椅子に腰かける。丈の高い洋卓が椅子の前に据えられていて、その奥に台所と男がある。壁に掛けられた北斎の画が様式の建物の中で異彩を放っている。この店は暗い。天井にかかっているランプが時折消えかかる。入口があるのみで東西南北のどれにも窓はなく、脳が夜だと錯覚しそうだ。
「傘を持ってこなかったのかい。」
「ええ、どうもヨーロッパの温い春雨にあたってみたくて。」
「ハハハ、随分と気味の悪い趣味だね。」
「なに詩歌の趣です。」
「詩歌か、道理で解せんわけだ。」
否、芸術は万人が相応の心持で観ずれば、解せるものだ、解すというより感ずるものだ、といつもの反駁が喉ぼとけのあたりまで昇ってきたが、春の陽気がそれを押し流した。男が四方八方に気儘に伸びた鼠色な髪をぼりぼりと掻く。今、私と、この男は雄大なる春の中に、ヨーロッパの春雨の中に、一軒の日本食屋の微光の中に、たった二人存在している。日本では黄昏がビルジングを照らしている。アフリカでは戦争をやっている。南極では熊が魚を貪っている。レールが人を運んで軋んでいる。川が岩を削っている。人が生死を果たしている。吾人には吾人の世界がある。私は現在の私の世界を、かく観じ得て、一つの画を描いている。
「さあ、注文は極まったか。」
「ぜんたい、ここは何が出るんです。」
「日本食だぜ。当然鮨に極まってらあ。」
「朝から鮨はちと性急すぎやしませんか。」
「なに、日本人は性急が似合うんだ。」
「はあ。」
私は頬杖をついて、壁にかかっている札を左から順に眺めていく。
「鯛を二つ。」
「まいど。」
男の声が小さな仄暗い家屋に似合わない声量で響く。この男が近くにあってはいくらヨーロッパでも安眠は許されないであろう。
男が冷蔵庫から大きな鯛を取り出して、勢いよくまな板に叩きつける。魚がぺちぺち暴れて可哀そうだなと思ったあたりで、男がふんと洩らしながら魚の頭を叩き切ってしまった。朝から物騒なものだ。欠伸が出そうな春の下、私の頬杖目の前で命のやり取りが行われている。魚の呆気ない死にざまは哀れが出ることもない。単に死んでしまったという感じのみが残る。身投げもこんなものなのだろうか。私がまだ中学校に通っていたころ、一度だけ身投げをする人を見たことがある。身投げをしようと欄干に手をかける女の周りにぞろぞろと人がたかっていたのを覚えている。よせだの、危ないだの言っていたようであった。女は泣いていた。私はこの女が一向に泣き止まないから、このまま身を投げずに、石に苔がむすまでこのまま居るのかもしれないと思った。私も何となくそれを見ていたいなと思った。しかし次の刹那とうとう女は身を投げてしまった。あ、と思った。後に聞くとその女は生来付き添ってきた主人に裏切られてこれに至ったらしいが、身を投げるうちは、死んだなというのがあったのみである。親族なら憐れんだのかもしれない。しかし私は、あるいは群衆は、いっても怖い程度にしか感じていなかったようである。
「出来ましたぜ。」
大将はどんと洋卓に鯛を置く。信楽焼のような皿には二巻の鮨が乗るのみで、淋しげである。
私は醤油もつけずに鮨を一つまみに食べる。
「ちと硬いね。」
「地中海の鯛だ。日本のならもっと工夫できるんだがね。」
「でも、色は頗るいい。殊に透け具合においては逸品だ。」
「そんなので誉められたってちっとも嬉しかないね。」
「画家からの色についての賛辞ですよ。」
「ハハハハハ、現代の画家は適当なものを芸術と言い切って高尚な気でいるからいけない。」
「なに冗談じゃないですよ。」
「なにが。」
「私は画家です。」
「本当に。」
「本当に。」
「画家といえばあの紀文さんと同じだね。」
「紀文とういうのは。」
「君、知らないのかい。ここらに住む日本人は大方彼の世話になるものなんだがね。簡単な仕事を斡旋したり。ーーほら、骨ばった顔に白い髭を生やしている男さ。」
「白髭の老人になら、昨夕世話になったばかりです。」
「名前は知らなかったのかい。」
「ええ、向うも私の名前は知らないでしょう。」
「はじめましての挨拶に名を名乗らない国が一体どこにあるというんだい。」
「ですから、我らは人でなしの国にでも住んでいるんでしょう。」
「ハハハハハ、しかし君、あの老人はきっともっと深いところに住んでいるだろうね。」
「一体どこでしょう。」
「そこを聞いちゃあ、せっかくの詩味が台無しだ。」
店の外から、子供の声が聞こえる。鎖された空間に春という背景が塗られる。詩味とはこういうことを指す。
今度は向こうから切り出す。
「確かあの人には、綺麗な細君があった筈だ。むろん画の中でしか見たことはないがね。しかしどうやらその細君が死んじまったみたいで、うんと昔のことだがああいう性分の人は今でもその死体を引きずっているんだろうね。」
「どんなふうに死んだんです。」
「知らんさ。あの人は己のことを話したがらないからね。」
しばらく沈黙が流れる。
「もう出ます。」
「まだ、二巻しか食ってなかろう。」
「しかし腹はいっぱいなんです。」
「そうかい。また来るがいい。」
「老人の住所を暴いた時分にでも来ます。」
「ハハハハ、そりゃ何時になるか一向わからんね。」
煙管を咥えた男を背に、外へ出る。
雨はあがったらしく、太陽が気難しそうに顔を覗かせていた。