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浅緑  作者: 菜箸
4/20

四、


どうやら、宿屋においては日本のものが西洋よりニ三歩優れているようだ。

八畳程度の謙虚な部屋で、壁にはいかにも西洋風な印象派の画が立てかけられている。大方、モネのものだろう。

この部屋の大部分はベッドが占領していて、ここが日本の宿屋との大きな相違である。

結局は、寝る時分に私の四肢が横たわる範囲は、同じくらいなものだが、どうもベッドでやると寝ても寝た気がしないものだ。

やはり、堅い畳の上に大の字に臥せるほうが好い。そちらのほうが自然と繋がっているように感ぜられて、寝ている間に大地の養分を吸収できる。

こういうと安っぽい詐欺師のようだが、これが事実であるから詐欺が罷り通るのである。

私の批判がここまで漂流してきたところでベッドに倒れこんで、今日起こったことを思い出す。

あれから老人は、彼が住んでいる下宿屋を紹介してくれて、私は今そこで一番広い部屋で寝ている。

あのくらいな老人の風貌からすると、家の一つや二つは持っていそうなものだが、やはり画家なもんで定住というものが憚れるのだろう。

そしてあの老人は、この宿屋に向かう時も、無口であった。長屋の色彩が綺麗ですね、といっても、ええ、と返ってくるだけであった。

下宿の案内の際に少々喋ったくらいである。横でずっと話されるよりはましなものだが、あそこまで無口だと、あの老人の深いところまで入り込めないような心持になる。まあ、特段焦るものではないのだろうが。

ー視界がぼやけてきて、モネの画もいよいよ三途の川に見えてくる。すやすやと夢に寝入る。

忽然、目を醒ました。袂にごそごそと腕を突っ込んで懐中時計を見ると、一時を打っている。妙な時刻に起きたものだ。

おぼつかない足を動かしながら廊下に出て、厠に向かっていると、窓の外からぽつぽつと橙の光が見えた。

用を足すと、厭に目が覚めてしまった。随分暗くなってしまったなと冷たい息を吐いていると、例の老人に出くわした。

「こんばんは、こんな夜半までなにをされているんですか。」

「ちと、厠にいっていたところです。」

「そうですか、ではおやすみなさい。」

「まだ、起きられますか。」

「ええ、老いてくるとなかなか寝付けないものですから。」

「では、一杯やりませんか。」

「酒は飲めませんよ。」

「ええ、珈琲を淹れます。」

私は珈琲を淹れながら、老人の顔を覗き見た。私の部屋に誘ったのは彼にとっては迷惑だったかもしれないが、あの顔では何とも思ってなさそうだ。

珈琲を机にもっていって、老人の隣に座る。

「ここにはどれくらいいらっしゃるんですか。」

「ほんの三年くらいですよ。前までは、ミュンヘンにいました。」

「ご家族は。」

「子供が二人、日本に。」

「奥さんは。」

「妻は亡くなりました。」

「これはつかぬ事を伺いました。」

「いいえ、もう三十年も前のことですから。」

「しかし、あなたの細君ということは、甚だ愛していらっしゃったんでしょう。」

「ええ、愛していました。しかし、彼女は私の愛のために死んだのです。」

忽然発せられた、老人のこの台詞は人々に様々な邪推をさせうるほどの効力があったが、私はかえってこの老人に親しみを覚えた。

先刻、愛は醜いと言っていたがそれは愛に関して老人の周りに憐れな物語があったからだろう。私はその憐れを推理する方向でいた。

「この話はやめにしましょう。あなたに話したって仕方ない。」

「なぜ。」

この時私は、外から見て取れるほど、不満の表情を浮かべていたらしい。

「あなたに信用を置いていないから話さないんじゃありません。本当に話す意味がないんです。私が言い出したのに、変に焦らせて結局言わないんじゃ不公平なのもわかります。しかしながらこれは私が長い人生を経てうちたてた結論なんです。」

「あなたがいうのならそうなんでしょう。しかし、私はあなたの事情を知りたいというのも事実です。いつか好いと思ったら是非私に話して下さい。」

「ええ、わかりました。もう遅いですし、今夜ほこれで失礼します。」

そういうと老人はゆっくりと部屋から出て行った。

先ほどの老人は珍しく昂奮していたように思われる。老人の表情が哀れの一色にほんの少しながら、激情の赤をたしたような感じだった。

しかし、老人の言う通り、今考えたって仕方がないんだろう。明日は町にでも行って画を描こう。



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