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浅緑  作者: 菜箸
3/20

三、


画を描き上げたので老人の様子を見てみると、どうやら一足先に終えていたらしく、子供たちの遊びを眺めていた。眺めていたといってはちと語気が強すぎる。

温水に溺れながら、ものの輪郭のぼやける様を見ているというふうな語句があるならそれが適当である。

「終わりましたか。」

「ええ。」

「ちと拝見させていただこう。」

そう言って私たちは画を交換した。

老人の画は深い青と緑で、朧げで、忘れかけている曖昧な記憶のようだった。私はこの画をしばらく眺めていた。

私は先述した通り、その地に住まう記憶を画材として写実的画を描くのだが、その点、この画は私のそれよりも秀でているといえる。

この画は、誰かの記憶を覗いているというより、実際に経験したような感覚をもたらす。

かといって、その記憶は鮮明なものではなく、いまにも見失いそうなものである。

この記憶に映るものは、やはり、特別に大切というわけでもない、城の一幅であるが、そこには失うのが惜しいという、矛盾の感情がある。(これはその一幅に忘れたくいない感情が鍵をかけて封じ込まれているからだが)

その大いなる矛盾をこのブラチスラヴァの城が、たったこれだけの画の裏に、包含しているのである。

「あなたの画は、やはり、私の昔のものに似ています。」

「画に優劣をつけるのは愚ですが、私はあなたの画が私の目指しているものに見えます。あなたの画が今の私より優れているのは、やはり年を重ねることによるものですか。」

「年を重ねるのは良いことばかりではありませんよ。ほら、私の画にはあなたのような若さがない。」

「若さとは迂愚ではないのですか。」

「いいえ。今となっては私には、まさに今のあなたにある焦燥感は描けません。」

驚いた。この老人はこの短時間で私の性質を見抜いているようであった。美しいものをみると高揚を隠せないのが私である。焦っていると手元の肝心なものを取りこぼすと、平生から考えていても、これほどの画を描く老人の目には何が映っているのか、調子が狂うほど、私は大変気になった。

今考えると、私はこの老人の画を理解しようと必死になっていた。後々、この老人は私以上に諍いを忌み嫌っていると知るが、当時の私がこのように詰め寄ってしまったことを申し訳なく思う。謝さずとも老人は私の若さを見抜いてなお、付き合ってくれていたのであろうが。

「あなた、恋はしますか。」

「恋はしますが、愛はまだしません。」

「そうですか。どうやらあなたは、愛が芸術と同じように純粋に美しいと思っているようだ。」

「違うのですか。」

「ええ、愛が醜いものでなければ、画家という職はありませんよ。」

老人のこの思想は私のものと対極のものであったが、この老人に反駁しようとする気概は一切起こらなかった。

ただ、愛を醜いと言った老人の、目に宿る、この世に数多に存在する形容詞のどれもが飾り切れない、哀れの一種が美しいあまりであった。

私は老人の愛という言葉の重みを理解する由はなかったが、この老人のこの目を描きたいと深く思った。

「お節介でしたね。気を悪くなされたのなら謝ります。あと、その画は差し上げます。いい画でした。では、失礼。」

そう言って立ち去ろうとする老人の背を私はただ、見つめるのみであった。

「待って。」

老人は振り向かない。

「あなたの旅にお供させていただけませんか。」

「私といたって面白いことなどありませんよ。画を描きに来たのなら一人が一番だ。」

「いいえ。私はあなたが描きたいんです。」

ここで漸く老人が振り返って、深々と頭を下げた。

「ありがとうございます。」

「いえ、こちらこそ。」

ここで老人が頭を下げた理由は分からなかったが、初めて真正面から見た老人の顔は、あの哀切の瞳を持っているとは思えんほど、赤かった。

この穏やかな春を急かすようにブラチスラヴァの風は吹いた。



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