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浅緑  作者: 菜箸
20/20

五、



「ある日、学校で例の通り、茫然としていると、朦朧たる裡にも、明らかに先生の名が級友の声を通して、私の両の耳に萌しました。先生の著書は慥か、法治の原理とかいう名であったことを記憶しています。どうやら先生の法治の原理は、一週間もせぬ内に、世に出回ったようで、この後も度々話題にあがるのを聞きました。私の所属する文科でもこれでしたから、況や哲夫君の法科なぞに於いてはさぞ先生の名が飛び回っていたことでしょう。私は級友の口から洩れる先生を聞く度に、無愛想ながらに得意の色を埋めている哲夫君を妄想して独り可笑しくなりました。けれども、私から先生の名を種にすることはありませんでした。実のところ、私も私の知人が、学校という所謂社会の縮図たる場所で、話題として挙がることは自慢でした。しかし、私は同時に、ああ先生みたく有名になってしまっては仕様がないという考えを起こしました。そうして、私は飽くまで先生や哲夫君の勇姿を一間離れて眺める位で十分だという結論に着地するのです。

暫くして、学校で先生の話題が挙がることはなくなりました。一度は先生を講義に招こうというところまで猛進していましたが、熱しやすく冷めやすい書生の性質ゆえに、話題はドイツの某とやらの解剖学の論文の方に移っていきました。私はその様を見て特段不愉快は起きませんでしたが、これでは哲夫君が一寸気の毒だと思いました。しかし、哲夫君は気にしない調子で、先生の論文は矢張学会で高く評価されている、今に海を超えるから見ていたまえ、と私に言って聞かせました。のぶ代さんは、女だけに何が何だか解らないという調子で聞いていましたが、兎に角先生の論文は腐らないということを確認して、無意識の内に靨を現しました。

斯様にして、桜は散りきって、世間はついに夏に差しかかろうとしていきました。その日は大変暑くって、また暇を持て余していましたから、また例の池を訪れました。水辺に腰掛けて、団扇をぱたぱたさせていると、地面の草の意外に早く育っているのに気が付きました。私は、やはり夏はノスタルジックだなどと脳裏に画を描いてごろごろしていると、ついにその画の主役となるべき女が現れました。緋雪は以前と違って、今度は軽い服装をしていました。固より、着飾らないでも、己の顔自身に、哀れの衣裳を着せうる緋雪でしたから、此方の方が却って、人間の感情的の激動とその繊細さが感ぜられました。私は偸み見るとは言いませんが帽子の廂から眸子を覗かせてじっと緋雪を見詰めました。現れて直ぐは心臓が高鳴ってなんだか世俗的な感じがありましたが、次第に彼女の滑らかな髪が私の鼓動を潤滑にするが如く、私の心臓は尋常を以て、美しき詩境に彷徨いました。緋雪は暫く私に気が付きませんでした。私の器量は見てわかるように平凡なところにありましたから、帽子を被っていると、電車でちらちらする一書生にしか見えないものですから、尤もだと言えます。しかし彼女は私の平凡の書生を離れて、目の端に写る景色というより、青年の着飾った芸者を見る惚気というより、寧ろ画的に眺むる視線に異様のーーーこれが心持良いかは知りませんが、視線に気づいて黒い眸を私の胸に投げかけました。私は彼女と正面に相対して何も話したくなくなりました。私は座っていて彼女は立っていました。けれでも私は彼女に話しかける必要がありました。これは知り合いの二人が出会った時の世間的作法なぞではなくって、飽くまで直観的に彼女を此処に置いておかなくっては不可ないと感ぜられたからです。私は緋雪に薄れる声を何とか霧中に捕まえて、暑いでしょう此方にいらっしゃい、と話しかけました。私の声色は寧ろ落ち着いていましたが、緋雪は私に話しかけられるのを想定していなかったらしく、暫く茫然とした後、急に極が悪くなったように私の隣に座りました。私は上体を腕で支えるような形で座っていましたが、緋雪が正座をして、両の華奢に出来た白い手を腿の上に軽く重ね合わせるものですからなんだか、こうも崩した体勢では緋雪に対して変に思えて、直ぐに真直ぐに起き上がりました。私たちはかなり近い距離で隣合わせに座っていましたが、それぞれの体は依然として池の方角を向いていました。私は時々、緋雪の顔を偸み見て、池の荒れた水面に煩雑に反射する初夏の光線の眩さに、細められた彼女の眸と眉の余りに美しく仕上がった様を眺めて恍惚していました。しかし、私は直ぐに正気に返って、何が話をしなければ済まないという考えが起こりました。けれども私は一向なにを話せば好いのか解らなくなりました。何か種はないかと思って緋雪を見れば余計に解らなくなりまひた。これは、所謂青年の男女の一対が恋だとか損得だとか徳義だとかを鑑定してみて何が何だか戸惑うのとは違って、歌を詠んでみようとしたものの己の心を最も適当に形容する三十一文字が浮かばなくって煩悶して却って芸術を失うのと一般です。私が斯様に平生の裏に焦りを忍ばせていると、緋雪が緩く結った糸を解くように、柔く口を開きました。また逢えました、と彼女は落ち着いた声色で言いました。今思うと、このやり取りは色褪せた私にとって浪漫的すぎると言えますがこの時分の私は真面目に受け取って、ええ慥かにと答えました。私にはこのように簡単な言葉を世間の憚りの濾を通さずに、ありありとお互いに発するのを幸福に感じました。ですから、私は難しく考えるのは止して、暑いですね、と言いました。すると、ええ、でも寒いより可かありませんか、と返ってきました。慥かに彼女の額を見るに、彼女を滴る汗をそこの何処にもを認めえませんでした。それから、私たちは様々な話をしました。しかしそこに盛り上がりなどはなくって、ひとつの調子を保ちつつ且つぽつぽつと断続的に話は続きました。私はこの会話を通じて、彼女が駿河台の比較的裕福な家のお嬢さんだということが知れました。私はここに一種の妙な感じを起こしました。なでも緋雪が尤も人間らしく駿河台などという世俗的名前が付いている場所に住んでいることに違和感を感じたのです。私は緋雪を画の住人としてみました。画の舞台は慥かに何処かの町でしょうが、それが駿河台と知れてしまっては、彼女の幽玄の哀れが一息に銭勘定の憂いに変わります。然し目の前の彼女は変わらず私の愛する哀れを纏っています。ですから厭というより妙な感じであったのです。私はこの妙を感じる時は飽くまで画家でした。広く言うなら芸術家でしょう。然し私は、芸術家を離れて一人の青年となった時、彼女の住まいの知れたことが大いに有益であるように思われました。また直観的に嬉しくもありました。そうして、私はこの矛盾する二つの人格を緋雪の前に曝露されたような感に打たれました。私はこの矛盾に気づいて直ぐにでも、どちらか一つに統一しなければなりませんでした。然し当時の私は、緋雪を前にして、この二つの人格の両方が真に私であると極め付けてしまいました。この誤謬は緋雪の哀れの深さが私を曇らせたからかも知れません。ことによると、青年の浮かれた感じにようるものかも知れません。

私は斯様にして、様々な心持を短い間に経験しつつそれを敷衍してみれば満足が出るような心象で、緋雪と会話をしました。私はその過程で、私の下宿は何処何処にあるから、窮屈かも知れませんけれども、是非とも遊びにいらっしゃい、と緋雪を誘いました。緋雪は年頃の女らしからず、恰も田舎の両親を訪ねるような態度で、ええお邪魔になりましょう、と受けました。気づけばもう、一時間ほど緋雪と話していました。私としては永遠にこの儘でも好かったのですが、次第に雨が降り出したので、緋雪はゆったりと帰っていきました。私は緋雪の帰ったのに別段不平を感じませんでした。私は緋雪と約束を取り付けて愉快であったのでしょう。私は芝の上に寝っ転がって頬を濡らす冷ややかな雨粒を快く思いました。」

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