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浅緑  作者: 菜箸
2/20

ニ、


坂道を登って左に切れた所で、城が見えてきた。

春のお天道さまに抱かれた空は淡く、そこに一切の影が生じることを許さない。街道に丁寧に並べられた針葉樹は一条の光を受けて、冬の未だ忍ばんとする冷たい風にふかれてさあさあ言っている。

どうやらこれが日本を発つ前に本で見たブラチスラヴァ城らしい。この城は度々テーブルをひっくり返した様と形容されるらしいが、なるほどその通りだ。

事前に調べたものと違う点があるとするなら、どうも写真より謙虚な佇まいである。どうせ観光地の人の往来などこの旅を苦にするのみであるから、一目見て帰ろうと思っていたが、その観光客が殆ど居ない。日本の雷門のそれとは異なるらしい。

とにかく私はこの城が気に入った。淡泊な真白の壁と橙の屋根をもつ、城にしては簡単すぎるものだが、ヨーロッパの寒い天と地とでいい塩梅である。

ヨーロッパの白は下地である。日本の白は光である。光は美しきを照らすものだが、下地は美しきの内に容易に汚れを連想させる。

その汚れを、ある美しき女の人情の哀れとしてみれば画が生まれる。詩が聞こえる。こんな風に女の美を持つヨーロッパの白が、男の頑固を持つコンクリートの壁に塗られているのだからおもしろい。表裏併せ持つものが雅と評されるのはこれがためである。

幾らかある人の様子をうかがうと、どうやら城の周りは自由に立ち入れるらしい。城壁(城壁といっても一軒家の塀程度のものだが)を超すと、子供たちが青い芝生の上で遊んでいるのが見えた。子供らのかん高き声は、この冷たい無機質な大気に響き渡っている。この音が幾丁幾里と越え、いずれヴェートーベンの耳に入るのであろう。ここには城という名がもたらすほどの威厳はないらしい。良いように言えば自然体であり、天下は安泰である。今の天下が安泰であればこそ、過去を鑑みて感傷的になれる。奥に目をやると城壁と城に区切られた区画に、一本の木が生えてあった。私は画を描くときは木によりかかりたい性分なので丁度良かった。

この城の景色を逃してはもったいないと思って、私は冷たい芝生に腰掛け、堅い幹に背中を付けつつ、画架と筆を取り出した。

筆を走らせながら思案を巡らせる。

どうもこの景色に私は既視感がある。弱冠の書生である私がこの景色をじかに見たことは断じてないが、城を見ていると初めてではないような懐かしさが込み上げてくる。

私の考えでは、この万里鵬翼の大地には記憶が宿る。私の眼前に広がる世界は、いつかの誰かが見、生き、死したものである。

私と同じ、一般に写実画家と分類される画家の中には人工物が全くもって存在しない、完全な自然を美と説く者があるが、自然とは、そこに生きた人々の歓び、怒り、哀れの全ての激情を包み込んでなお、そこに何もなかったかのように悠然と在るから美しい。そして、その激情を絵具にして書くのが画である。私の知る中には、激情を何も介することなく、抽象的に表現する画家などもあるが、やはり、私は未だ眼前の景色に囚われ続けている。

このように画を描き進めていると、私の画の中に突然、日本人らしき老人が現れた。その人は、白い帽子の下に多少の白い眉と髭を拵えて、皺の走ること迷いなしという感じだった。妙に思って画架から目を離すと、そこには現物の老人が立っていた。

「こんにちは。」

「えぇ、こんにちは。」

「これは失礼しました。どうもあなたの描く画が気になってしまいまして。」

「はぁ。」

正直に話すと、私は普段より創作の途中に他人(あるいは自分)に立ち入られるのを忌み嫌っている。

やっとの思いで、俗界を解脱して美しき芸術の世に到達しかけているところを、大きな力で引き戻されるような心持である。

だから私は適当に話を済ませようとした。

「よろしければ、その画を千ユーロで買わせていただけませんか。」

また頓狂な質問である。

「申し訳ないが、私は人に画は売らないんです。」

「では、その画はどこへ行くんですか。」

「特段、私の家の額縁に綺麗に飾るという訳でもありませんが、人に渡したくないのです。私にとってこの画は誰のものでもないんです。」

「なるほど、それで売らないわけですか。」

「すまないが、これっきりはそういうことです。」

「でも、人間、金がないと生きてられんでしょう。」

「それもその通りです。しかし、画や芸術なんてものは金の勘定を忘れるためにあるんでしょう。それに値を付けたら本末転倒です。」

「あなたとは気が合いそうだ。」

私はこの老人の詰問に大いに狼狽した。

「では、私もここで画を描いてもよろしいかな。」

ここでしばらく沈黙が走る。

「失礼、実は私も画家をやらせていただいているんです。」

「私は画を描くときは、なにも話したりしませんから、退屈でしょう。」

「なに、私も同じです。」

そう言って老人は、木にもたれることなく芝生に腰掛けた。老人は帽子をふわりと芝生に置く。天道虫が帽子を這い上ったと思うと、真逆様に落ちてしまった。帽子の上は瘠薄の丘陵である。

そうして再び、筆を走らせる。


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