三、
「それから、私は毎日、例の池に行くようになりました。哲夫君も初めは不審がりましたが、暫くすると何も言わないようになりました。また、私が池に赴くのは、哲夫君が授業を受けている時分か、先生の家で講釈を受けている時分に限りました。やはり哲夫君が居ると、彼女の美しさが衰えるように思われたからです。ここで一つ矛盾が生じます。私は私以外の人間を排して、彼女を眺めようとしました。これは全く彼女を芸術の世界に住まうものと見ていたからです。しかし一方では、私として彼女と何らかの関係を持とうという人間らしい了見がありました。私は傲慢ですから、彼女の美しい世界に独り忍び込もうと画策していたのです。しかし、彼女が現れることはありませんでした。気づくとあれほど目覚しい繚乱を極めていた桜も随分と散ってしまっていました。池で二時間ほど寝っ転がって、今日は来ないと極まると、下宿に帰るか、先生を訪ねるかの二つでした。ですから自然と先生とものぶ代さんとも親しくなりました。私は課題の質問を訪問の理由としていましたから、先生の眼には私は大した勤勉家に映っていたのでしょう。その実私は余り好い心持ではありませんでした。いくら授業を抜け出して、池に赴いても彼女が来ないものですから、私は些と不平でした。しかし、それを悟られる訳にはいけませんから、哲夫君などの前では好調子を装いました。そんな平凡な日常のある日のことです。私は例の如く先生の家へ訪れると、中から夏を呼ぶ大きな笑い声がします。はてなと思い、戸を開けると、先生と哲夫君が差し向いに座っていました。直ぐに私は双方の顔に酒の赤色を認めました。先生たちは私に気づいて、君も呑みたまえ景気が好いから、と手招きしました。私が判然せぬまま座っていると、のぶ代さんが、酒瓶を携えながらやって来て、紀文さん、実は御父さんが五年前から頻りに書いていた書物がついに完成したんです、と教えてくれました。成程一体どんなのを書いたんです、と私が先生に尋ねると先生がまた難しい話を始めました。のぶ代さんは黙ったまま微笑を火照る丸顔に浮かべて酒を注ぎました。哲夫君は随分感心した様子で先生の話をうんうんと聞いていました。私も酒の力を借りて景気を崩さぬように振る舞いました。その後大分呑みました。私は元来酒に強い性質でしたが、奮発して呑んだものだから頭に靄がかかりました。哲夫君も大分酔っていたので、のぶ代さんが彼を下宿まで送ることとなりました。のぶ代さんは心配そうに私に送りましょうかと聞きましたが、風に当たって酔いを覚ましてくるから大丈夫ですと断っておきました。私は酔いを覚ますべく、例の池にやってきました。初夏とはいえ、池の周りなのもあってかなり冷え込んだ夜でした。芝の上に寝転ぶと、ひんやりしてとても心地よかったのを覚えています。このまま寝てやろうかしらんなどと茫然として考えていると、足音が地面を伝って聞こえてきました。誰だろうと思って顔を横にすると、朧月の下に彼女が立っていました。初めは夢かと思いました。しかし夢にしては寒すぎます。心持は酔いの中で温い光線が雲の狭間より背に射すようで、景色は寒い月と星々の下に頬の蒼い女が多少の紅い血を巡らせつつ哀れを冠して静かに立っているのです。まったく妙なものでしたから、私は暫く動けずにいました。すると女が私の前に屈んで、どうなすって、と聞きました。私はこの時、小さな失望をこころの縁に感じました。今まではこの女の存在は私の世界だけのものでした。しかし、この時この女は私と同じ世界に生きるものだと解ったのです。ですが、これは小さな失望です。私は同時にこの失望を忘れるほど、大きな悦びを覚えました。彼女は私と同じ世界に生きるものだと解りました。つまりそれは、彼女が私の世界に這入ってきたのと同義だと私は解釈したのです。私は大きな悦びに頭を重くさせられて、またもや私は動けずにいました。しかし彼女も凝と私の眼を覗いていたのです。私は、あなたに泰造君がそう知らせるまで私の名を打ち明けなかった如く、平生から私は名を以ての挨拶というのをあまりしてきませんでした。それは、その行為そのものが厭というより、今は只の他人であるからいいものの一度名を知ると銀行に勤めているだの、小説家をやっているだの、その人の社会的地位が明瞭になるのが厭なのです。ですから私は親しい間柄でなければ率先して名を打ち明けることはありませんでした。しかしこの時は違いました。酔ってぼうっとしている頭の中に、突如この女の名を知らなければならぬという使命が光りました。私は前の女の心配の文句の返答を忘れてそのまま、名は、と聞きました。この言葉を発してから初めて、これは理解し難い台詞であったと気づきました。しかし女は意外にも、初めから私のこの質問を予知していたかの如くに、簡単に、緋雪です、と答えました。本来ならここで私の名を名乗るのが道理でしょうが私は続いて、また逢えますかと聞きました。すると、緋雪が、ええきっと、と答えました。」




